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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第二話 壬生の洗礼

 壬生村の屯所に足を踏み入れた三浦啓之助は、まず臭気に面をしかめた。

 畳に染みついた酒のにおい、鼻を刺す煙草の煙、そこかしこに散らばる将棋盤と賭け札。庭の隅では桶を蹴飛ばす音が響き、笑い声と怒号が交じり合う。


 「お、来たぜ。象山先生の坊ちゃんだとよ!」


 真っ先に声をあげたのは永倉新八だった。背は高くがっしりとした体躯で、粗野な笑いと共に酒瓶を片手に振り回す。口元には豪胆な笑みを浮かべ、その細い瞳は好戦的にぎらついている。

 「先生の子が剣を学びにじゃなく、命張りに来たってのか。大した物好きだな!」


 「ほんとにやってけんのかね」

 低くうなるように言ったのは原田左之助。丸太のような腕を組み、胡坐をかきながら杯を口に運んでいる。肩まである髪を雑にまとめ、武骨な出で立ちながらも、顔は整い鼻筋は通っていた。鋭い視線が虎のようで、啓之助をじろりと射抜いた。

 「痩せっぽっちのガキじゃねぇか。ちゃんと元服してんのか? 刀の重さも知らねぇように見えるぜ」


 その横で藤堂平助が真面目そうに手を組んだ。幼く見える柔らかな顔立ちには人懐こさが漂う。髪の結上げもきちんと整えられ、衣も清潔で、他の粗野な連中の中では浮いて見えた。

 「原田さん、あんまり脅かすなよ。……でもまぁ、本当にやる気なら、覚悟は必要だ」

 温和な声音に一瞬救われた気もしたが、次の瞬間、藤堂は永倉にからかわれ背中を小突かれていた。


 畳の上には酒気とともに、吐瀉物の匂いもかすかに残っている。啓之助は思わず一歩退いた。

 京の治安を守る剣客集団と聞いて胸を熱くしていたはずが、目の前にあるのは無頼の徒の溜まり場にしか見えない。


 「なんだ。顔色が悪いぞ坊ちゃん」

 斎藤一が柱に背を預け、煙管をくわえて飄々と笑った。切れ長の目に薄い笑みを浮かべ、どこか掴みどころがない。だけど瞳だけは鋭く、それは狼が獲物を品定めする眼だった。

 「逃げるなら今のうちだぜ。ここはお上品なとこじゃねえ」


 嘲り混じりの言葉に啓之助は胸を刺された。父・象山の弟子である会津藩士・山本覚馬の言葉が脳裏をよぎる。

 ——新選組は学問所ではない、剣でしか語れぬ場だ。

 だが、ここまで荒れているとは思わなかった。果たして自分は、こんな男たちの中でやっていけるのか。


 その逡巡を見透かすように、副長・土方歳三の視線が啓之助を射抜いた。

 「ものは試しだ。こいつに竹刀を握らせろ」


 土方は端正な顔立ちに険しい眼差しを宿し、きっちり結った結上げと浅葱色の羽織が一分の隙もなく整っていた。粗野な隊士たちを従えるにふさわしい完璧さを纏っていた。


 稽古場に連れ出されると、円座を組んだ隊士たちが野次を飛ばした。

 「坊ちゃんの腕見物だ!」

 「すぐ泣きが入るに賭ける!」

 笑いと掛け声が飛び交い、賭け札まで回り始める。


 「相手は……総司、お前だ」


 すらりと立った沖田総司は、童顔に人懐こい笑みを浮かべていた。黒目がちの大きな瞳は無邪気そのものだが、小麦色の肌に浮かぶ薄紅の唇が緩く弧を描き、それがかえって冷ややかな気配を漂わせていた。

 「まぁ軽くやってみようか」


 竹刀を構えた途端、空気が変わった。笑みの裏に潜む剣の気迫が、啓之助の体を凍らせる。


 合図もなく竹刀が振り下ろされた。

 啓之助は受け止めようとしたが、衝撃に竹刀は弾かれ、板の間に転がった。


 「ほら立って。まだ始まったばかりだよ」


 沖田は微笑んでいる。だが竹刀は一切容赦せず、頭、肩、腕へと次々に打ち込まれた。

 畳に転がり、息を荒げながら立ち上がる。何度倒されても、竹刀を握り直す。


 「意地はあるらしいな!」

 永倉が笑い、原田が杯を傾けて「賭けが外れた」と舌打ちした。


 啓之助の胸に父の言葉がよみがえる。——倒れても立ち上がれ。立ち上がる意志がある限り、人は負けぬ。

 必死に竹刀を振り上げ、沖田の一撃を一瞬だけ押し返した。


 「ふぅん……」

 沖田の瞳がわずかに光った。だが次の瞬間、鋭い突きが胸を打ち抜き、啓之助は後方へ吹き飛ばされる。


 「そこまでだ」


 土方の声が場を収めた。

 「……まぁ、てんで形にはなってねぇが、倒れても立ち上がる根性だけはあるようだ」


 啓之助は肩で息をしながら頭を下げる。

 だが心の奥底では、なお葛藤が渦巻いていた。


 ——ここでやっていけるのか。

 ——父の仇を討つどころか、この荒くれ者たちの中で自分は潰されるのではないか。


 笑い声と酒の匂いに包まれながら、三浦啓之助の新選組での日々は幕を開けた。

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