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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第十九話 揺れる心

 江戸へ近藤勇、藤堂平助、永倉新八が発って翌朝のことだった。

 屯所の空気は一変していた。普段なら笑い声の絶えぬ朝稽古の場に、張りつめた沈黙が満ちている。


 「葛山(かずらやま)武八郎(たけはちろう)、切腹申し付ける」


 その報せが伝えられたのは、稽古開始のわずか前。

 土方歳三が隊士を前に無表情でそう告げたとき、啓之助は思わず耳を疑った。


 (葛山さんが……切腹?)


 葛山は熱血漢で仲間思いの男だった。数日前まで啓之助に稽古の手ほどきをしてくれたほどだ。

 理由を問おうと口を開きかけたが、土方の眼光に射すくめられる。


 「規律を乱した。以上だ」


 その一言で、誰も何も言えなくなった。


 ——葛山は、かつて近藤の増長を新選組の抱え主である会津藩に訴える連判状に名を連ねた一人。

 ——その件は会津の仲裁で和解したはずだったが、土方はその記憶を忘れてはいなかった。


 昼過ぎ、屯所の一室。

 畳には白布が敷かれ、香の煙が静かに立ちのぼっている。

 血の気を奪うような冷たい空気の中、啓之助は列の端に並んでいた。


 そこに並ぶ隊士達は山南敬助や啓之助のような穏やかな者達ばかりだった。

 ——わざと心を抉る相手を選んだ。

 それが土方のやり方だった。


 葛山は座したまま、白装束の胸元を正していた。

 顔色は蒼白だが、瞳は静かで、諦念の色すら帯びている。

 その背後に、介錯の原田左之助が控えていた。


 土方は正面に座り、低く命じた。

 「申せ。最後に言葉があれば」


 葛山はわずかに顔を上げた。

 「新選組の行く末が、正しき道であるように——それだけを、願う」


 その声には怨嗟も怒りもなく、ただ静かな誇りがあった。

 だが土方の表情は動かない。冷ややかな声が響く。


 「覚悟はいいな」


 葛山は頷き、短刀を手に取った。

 刃が腹を裂くねっとりとした音が、凍りついた空間に鈍く響く。

 続いて原田の太刀が閃き、首が落ちた。

 畳に散る血の色が、あまりにも鮮やかだった。


 誰も息を呑めなかった。

 香の煙が細く揺れ、鉄の匂いが鼻を刺す。

 沈黙の中、土方はゆるりと立ち上がり、冷然と告げた。


 「これが規律を破った者の末路だ。肝に銘じろ」


 淡々と部屋を出ていくその背を、誰も追わなかった。

 啓之助は喉の奥からこみ上げる胃液を抑えるように唇を噛み、拳を握りしめた。

 (これは……正義なのか? 秩序の名で人を自害させることが、そんなに尊いのか……)


 隣に立つ山南の肩が、わずかに震えているのを見た。

 その震えが怒りなのか、悲しみなのか、啓之助には分からなかった。




 夕刻。

 屯所の廊下には、血の匂いを洗い流した香の残り香が漂っていた。

 啓之助が足を進めると、襖の向こうから声が聞こえた。


 「君はやりすぎだ!」


 声の主は山南だった。

 「葛山君の件、あれはただの見せしめだ! 罪に問うほどの過失ではない!」


 「組織を守るには、腐った芽は摘むしかねぇ」

 土方の声は冷たく響く。

 「甘ぇこと言ってんじゃねぇ。あいつは危ねぇ思想を持ってた。隊の和を乱す前に斬る、それが俺の仕事だ」


 「和を守る? 恐怖で縛りつけているだけだろう!」


 その瞬間、土方の目が怒気を帯びた。

 「……あんたも同じだ、山南さん。俺は試衛館出身者だろうが特別扱いはしねぇ。近藤さんのいねぇ間に、好き勝手言うんじゃねぇ」


 二人の間に火花が散った。

 啓之助は襖の陰で息を殺す。

 どちらが正しいのか、もう分からない。

 ただ胸の奥が焼けるように痛かった。


 やがて沈黙を破ったのは、山南の低い声だった。


 「土方君……君のやり方では、いずれこの組は壊れる」


 「上等だ。壊れる前に俺が何度でも立て直してやるさ」


 吐き捨てるように言って、土方は踵を返した。

 廊下を蹴り、舌打ちを残して去っていく。




 残された山南は深く息を吐き、襖の陰から出てきた啓之助に気づく。

 「聞いていたのかい」

 「……すみません」


 山南は苦笑を浮かべた。

 「いいんだ。むしろ、聞いてほしかったのかもしれない」


 灯明の光に照らされたその顔は、穏やかでありながら、どこか疲れて見えた。


 「私はね、三浦君。剣で命をただ奪うことが正義だとは、どうしても思えない。だけど、今の新選組はそれを誇りにしている」

 「……山南さん……」


 「君は、父上から何を学んだ?」

 「和の心です。人を動かすのは力ではなく、人と人同士の支え合いだと」

 「それを、忘れないでほしい」


 山南はそう言って微笑んだ。

 その笑みの奥に、どこか“悲しみ”を予感させる影があった。


 ——このとき啓之助はまだ知らなかった。

 山南の心が、すでに“屯所の外”に向かい始めていることを。


 秋の夜風が廊下を抜け、萩の花が静かに散った。

 その花弁が畳に落ちる音さえ、悲しく聞こえた。

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