第十六話 島原の盃
数日後の夕暮れ。
「三浦君を連れて島原へ行くぞ」
近藤勇が豪快にそう言い放った。
永倉と原田の口論を論理で諭した啓之助の話は、すぐに近藤の耳に届いていた。
「象山先生の息子だとは聞いてたが……あの若さであそこまで言えるとは大したもんだ。祝いに一席設けようじゃないか」
その言葉に、試衛館の古参たちは顔を見合わせた。
島原の揚屋。障子越しに灯が揺れ、三味線の音が遠く響く。
座敷には盃が並び、色鮮やかな肴が膳に置かれていた。啓之助にとっては初めての豪奢な遊宴である。
「まぁまぁ、まずは飲め!」
近藤が盃を差し出し、啓之助の肩を豪快に叩く。
「お前さんのおかげで新八も左之も収まったんだ。頭の回る奴は貴重だからな」
啓之助は慌てて頭を下げた。
「い、いえ……ただ思ったことを口にしただけで……」
「いやいや!」
近藤は大笑いし、盃を一気にあおった。
「この前の池田屋、禁門の変もそうだ。俺たちがやったことは、もう京中に知れ渡ってる! 御公儀も町人も、新選組に一目を置いている! これからは俺たちの時代だ!」
声は明るい。だがその響きは、どこか己の手柄を誇る大将のそれだった。
永倉と原田は何も言わず、ちらと顔を見合わせ、同時に苦笑を浮かべた。
土方歳三は冷ややかに口を挟んだ。
「浮かれるな。京はまだ火種だらけだ。長州の残党も攘夷志士も潜んでいる。気を抜いた瞬間、首を取られるぞ」
厳しい声音に、場の空気が一瞬張りつめた。
だが近藤は盃を傾けて豪快に笑い飛ばす。
「いいじゃねぇか歳。俺たちが京を守った英雄だってことに変わりはねぇ!」
土方の目は少し和らぎ、盃を置いた。
「……まぁ、近藤さんに免じてしつこく言わねぇでおくがな」
その声音は、近藤には甘い事を示していた。
啓之助は息を呑んだ。土方の厳しさが、近藤の前では影を潜める。そこに奇妙な歪みを感じた。
座敷の隅では、山南敬助が盃を弄んでいた。
彼の笑みは穏やかだが、眼差しには翳りがあった。
「……栄光の影は、意外と濃いものだな」
小さくつぶやいたその声は、賑わう座敷の喧騒に消えていった。
盃が空になり、笑い声が響く。だが啓之助の胸には、「志」という文字が蘇っていた。
——これは志を掲げる集団なのか。それとも、勝利に酔った荒くれ者の群れなのか。
島原の灯は華やかに揺れ、杯の酒は尽きることがなかった。
だが若き啓之助の胸には、言いようのない不安がじっと重く沈んでいた。




