第十四話 名を継ぐもの
夏の夜は重たく、壬生屯所の庭にも湿り気を帯びた風が吹いていた。
縁側に腰を下ろしていた三浦啓之助は、ひとり竹刀を抱えながらぼんやりと月を仰いでいた。汗がまだ襟元に残り、稽古の余熱が身体を離さない。それでも胸の奥には、妙な澱のようなものが漂っていた。
「よぉ、三浦君。ひとりで考え込んでんのか」
朗らかな声に振り返ると、近藤勇が笑みを浮かべて立っていた。袖を軽くまくり上げた着流し姿で、どこか素朴な親しみやすさが漂う。だがその眼差しは真剣で、啓之助を逃さぬように見据えていた。
「前に約束したろう。お前のお父上——佐久間象山先生の話、聞かせてくれるって」
啓之助は小さく息を呑み、竹刀を膝の上に置いた。父の名を出されると、胸の奥にまだ癒えぬ痛みが広がる。
「父は……学の人でした。学問を武より尊ぶと口では言いながら、その気性は豪胆で、家の中では横暴でした。義母や実母を困らせることもしばしばで……正直、私は父を善き夫とも、善き父とも思えたことは少なかったのです」
吐き出すように言いながらも、啓之助は唇を噛んだ。
「けれど、学と才は疑いようがなかったです。人より先を見て、己の考えを自信を持って語る人でした。そして……そんな父だからこそ、自分の血を継いだ私を殊のほか可愛がりました。剣でも学でも、できなくとも怒られることはなく、むしろ甘やかされ続けたのです」
近藤は腕を組み、うんうんと頷きながら耳を傾けていた。
「なるほどなぁ。学者の先生ってのは、家じゃ意外と気性が荒いもんなんだなぁ。だが、お前を甘やかしたってのは、単純に自分の血を継いだ子が可愛かったからじゃねぇか」
啓之助は一瞬ためらい、やがて絞るように口を開いた。
「……けれど、その血を継いだ私でさえ、もう“佐久間”を名乗ることはできません」
近藤の眉がわずかに動いた。
「そういえば三浦と名乗ってるな。どういうことだ?」
啓之助は膝の上で拳を握り締めた。
「父は白昼、路上で斬られました。松代藩ではそれを藩の恥とされ、佐久間家は断絶と決まりました。ですから私は、義母の姓である“三浦”を名乗るしかなかったのです。……父の死とともに、佐久間のお家はこの世から消えたのです」
言葉を吐いた瞬間、胸の奥に抑えきれぬ悔しさが込み上げた。
「だからこそ……せめて父の志だけは継ぎたい。仇を討たずにいては、父の名も、私の血も、ただ空しく消えるだけです」
縁側に沈黙が落ちた。夜風が竹を揺らし、さらさらと擦れる音が二人を包んだ。
やがて近藤は大きく息を吐き、にこりと笑った。
「……そうか。名は絶えたかもしれねぇ。だが志は、お前の中に生きてるじゃねぇか」
その声音は温かく、まるで啓之助の胸の奥の重しを少しだけ軽くするようだった。
「俺たち新選組は、武士の血筋に誇りを置く奴も多い。けどな、俺はそうは思わねぇ。志を抱いて剣を握る奴が一番強ぇんだ。だから——お前が三浦であろうと佐久間であろうと、そんなことはどうでもいい」
啓之助の胸に熱が広がった。
「近藤さん……」
近藤は豪快に笑い、啓之助の肩を軽く叩いた。
「連日連夜の稽古といい、甘やかされて育った坊ちゃんにしては根性あるじゃねぇか。心配すんな。志さえ折らなきゃ、父上に胸張れる男になれる。……それに、お前には俺たちがついてる」
その言葉は啓之助の胸にじんと染み込んだ。父に甘やかされ続け、未だに刀を抜くことさえ恐れる自分。それでも、ここで踏みとどまり、志を支えに進むしかない。
縁側に並んで座る二人の影を、月が淡く照らしていた。
父を失い、名を失い、それでも志を抱いて進もうとする少年と、その志を支えようとする男。その姿は、壬生狼と恐れられる新選組の屯所にあって、不思議な温かさをまとっていた。




