表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
比翼の仇  作者: 烏丸 燈


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/15

第十三話 血に濡れた駒

 夜の京は、不穏な息遣いを孕んでいた。

 石畳に滴った血は雨に薄められ、路地の隅を細い筋となって流れてゆく。

 その血の匂いを背に受けながら、小柄な影が足早に歩を進めていた。


 河上彦斎。

 ひと目には女性にしか見えぬその姿が、京の闇に溶け込むと、途端に異質な冷気を纏う。

 着流しは返り血を目立たせぬため色濃い藍に染められ、袖口にはなお乾ききらぬ飛沫が点々と残っていた。


 目指すは、木屋町にひそむ長州方の隠れ家。

 障子の向こうに灯が揺れ、仲間であるとの合図を交わすと、彦斎は音もなく室内へ滑り込んだ。


 座して待つのは長州の尊王攘夷志士、桂小五郎である。

 鋭い眼差しに痩身を包み、几帳面に畳まれた衣の裾には一片の乱れもない。だが眉間の皺は深く、日ごとに募る緊張と焦燥が刻みつけられていた。


 「済んだか」

 桂は短く問うた。


 彦斎は答えの代わりに、懐から白布に包んだものを取り出す。

 畳の上に置き、ためらいなく布を払う。


 転がったのは、生首だった。

 驚きに目を見開いたままの男の顔。

 口は最後の悲鳴を呑み込むように歪み、そのまま永遠に凍りついている。


 桂の瞳が細く揺れた。

 「……斬ったことは信じている。だが、わざわざ首まで持ち帰ることはない」


 彦斎は女のように白い顔に、妖艶な笑みを浮かべた。

 「証は、形に残すべきかと」

 声は柔らかい。だがその響きの奥には、ぞくりとする冷たさが潜んでいた。


 桂は溜息をつく。

 「人は斬れば死ぬ。それが証だ。わざわざ首を携えて歩けば、こちらの足がつく」

 言葉には苛立ちが滲む。

 「そなたの腕は頼りにしている。だが、無用に血を晒すな。我らは志を掲げ、人心を集めねばならぬのだ。徒な残虐は、その志を汚す」


 彦斎は首へ目を落とした。

 白布に転がる生首を、まるで骨董品でも眺めるかのように、指先で顎を軽く押す。

 「……この者も志を語っておりました。攘夷を、尊王を、己が口で」

 呟きは淡々としている。

 「ですが言葉だけの志は脆い。剣を抜けば、臓腑をさらす覚悟がなければならぬ。それを欠いた志など、ただの虚ろです」


 桂の胸に薄寒さが広がった。

 目の前にいるのは、確かに志士を名乗る男である。だがその内に宿るのは、理想よりもむしろ「斬ること」そのものへの執念ではないか。


 「……まこと、蝮蛇(ヒラクチ)の異名に違わぬ」

 桂は低くつぶやいた。毒蛇であるマムシのように獰猛で、執拗で、ためらいなく人の命を奪う。


 彦斎はその言葉に、涼しい顔で応えた。

 「名などどうでもよい。作物の腐った部分を取り除くように、斬るべきものを斬るだけのことですよ」


 その声音には、善悪の揺らぎすらなかった。


 桂は思わず首筋に冷たい汗を感じた。

 ——この男は駒である。腕は立つ、役にも立つ。

 だが同時に、制御を誤れば駒が盤を食い破る。


 沈黙の間、蝋燭の火がゆらめく。

 生首の影が畳に濃く落ち、まるで二人を睨みつけるかのようだった。


 「佐久間象山を斬ったのも……お前か」

 桂が、意を決して問うた。


 わずかに間があった。

 だが彦斎は顔色一つ変えぬまま、淡々と答える。

 「無駄口と飾り気の多い男でした」


 ぞっとするような静けさが、座敷を包んだ。

 桂は唇を噛み、言葉を飲み込む。

 ——やはり、この男は危うい。

 だが今はまだ、この血に濡れた駒を使わねばならぬ。


 彦斎はすっと立ち上がり、刀の柄を軽く払った。

 「次の標的は誰ですか」


 その声音は穏やかにさえ聞こえる。

 だが首の影と血の匂いが、その言葉を冷徹な刃に変えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ