第十三話 血に濡れた駒
夜の京は、不穏な息遣いを孕んでいた。
石畳に滴った血は雨に薄められ、路地の隅を細い筋となって流れてゆく。
その血の匂いを背に受けながら、小柄な影が足早に歩を進めていた。
河上彦斎。
ひと目には女性にしか見えぬその姿が、京の闇に溶け込むと、途端に異質な冷気を纏う。
着流しは返り血を目立たせぬため色濃い藍に染められ、袖口にはなお乾ききらぬ飛沫が点々と残っていた。
目指すは、木屋町にひそむ長州方の隠れ家。
障子の向こうに灯が揺れ、仲間であるとの合図を交わすと、彦斎は音もなく室内へ滑り込んだ。
座して待つのは長州の尊王攘夷志士、桂小五郎である。
鋭い眼差しに痩身を包み、几帳面に畳まれた衣の裾には一片の乱れもない。だが眉間の皺は深く、日ごとに募る緊張と焦燥が刻みつけられていた。
「済んだか」
桂は短く問うた。
彦斎は答えの代わりに、懐から白布に包んだものを取り出す。
畳の上に置き、ためらいなく布を払う。
転がったのは、生首だった。
驚きに目を見開いたままの男の顔。
口は最後の悲鳴を呑み込むように歪み、そのまま永遠に凍りついている。
桂の瞳が細く揺れた。
「……斬ったことは信じている。だが、わざわざ首まで持ち帰ることはない」
彦斎は女のように白い顔に、妖艶な笑みを浮かべた。
「証は、形に残すべきかと」
声は柔らかい。だがその響きの奥には、ぞくりとする冷たさが潜んでいた。
桂は溜息をつく。
「人は斬れば死ぬ。それが証だ。わざわざ首を携えて歩けば、こちらの足がつく」
言葉には苛立ちが滲む。
「そなたの腕は頼りにしている。だが、無用に血を晒すな。我らは志を掲げ、人心を集めねばならぬのだ。徒な残虐は、その志を汚す」
彦斎は首へ目を落とした。
白布に転がる生首を、まるで骨董品でも眺めるかのように、指先で顎を軽く押す。
「……この者も志を語っておりました。攘夷を、尊王を、己が口で」
呟きは淡々としている。
「ですが言葉だけの志は脆い。剣を抜けば、臓腑をさらす覚悟がなければならぬ。それを欠いた志など、ただの虚ろです」
桂の胸に薄寒さが広がった。
目の前にいるのは、確かに志士を名乗る男である。だがその内に宿るのは、理想よりもむしろ「斬ること」そのものへの執念ではないか。
「……まこと、蝮蛇の異名に違わぬ」
桂は低くつぶやいた。毒蛇であるマムシのように獰猛で、執拗で、ためらいなく人の命を奪う。
彦斎はその言葉に、涼しい顔で応えた。
「名などどうでもよい。作物の腐った部分を取り除くように、斬るべきものを斬るだけのことですよ」
その声音には、善悪の揺らぎすらなかった。
桂は思わず首筋に冷たい汗を感じた。
——この男は駒である。腕は立つ、役にも立つ。
だが同時に、制御を誤れば駒が盤を食い破る。
沈黙の間、蝋燭の火がゆらめく。
生首の影が畳に濃く落ち、まるで二人を睨みつけるかのようだった。
「佐久間象山を斬ったのも……お前か」
桂が、意を決して問うた。
わずかに間があった。
だが彦斎は顔色一つ変えぬまま、淡々と答える。
「無駄口と飾り気の多い男でした」
ぞっとするような静けさが、座敷を包んだ。
桂は唇を噛み、言葉を飲み込む。
——やはり、この男は危うい。
だが今はまだ、この血に濡れた駒を使わねばならぬ。
彦斎はすっと立ち上がり、刀の柄を軽く払った。
「次の標的は誰ですか」
その声音は穏やかにさえ聞こえる。
だが首の影と血の匂いが、その言葉を冷徹な刃に変えていた。




