第十二話 邂逅の余韻
その日の夕暮れ、三浦啓之助は竹刀を肩に担ぎ、壬生村の屯所へ戻ってきた。
西の空は茜色に染まり、町家の屋根を越えて差し込む光が、建物を朱に照らしている。
稽古で流した汗が襟元に滲み、木綿の着物は背中に貼りついていた。だがその重さとは裏腹に、胸の内は妙に軽やかだった。
竹藪の中で出会ったあの浪士の声が、まだ耳の奥に残っている。
「剣は力じゃない。肚から繋げるんだ」
「俺も、仇を討つために京へ来た」
不思議だった。
初めて会った相手であり、名も知らぬ浪士であるのに、その言葉は啓之助の心に強く響いた。
自分と同じように仇討ちの念を抱えた男。あの柔らかな声音と落ち着いた仕草が、奇妙な安心を与えていた。
——仇を討つ、その覚悟を抱くのは自分だけではない。
その実感が、啓之助の胸をほんの少し支えていた。
屯所の門をくぐると、縁側に人影があった。
斎藤一が柱にもたれ、煙管を指に挟んで煙をくゆらせている。白い煙がゆらゆらと漂い、夕日の光に溶けていく。
「坊ちゃん、遅かったな」
飄々とした声が飛んできた。
「道に迷ってたのか?」
啓之助は苦笑を浮かべた。
「ちょっと……人に稽古を見てもらってました」
「ほぉ、人?」
斎藤の目が細く光る。その光に気づかぬまま、啓之助は無邪気に続けた。
「名前も知らない浪士ですけど……すごく剣に詳しい方で。振り方を教えていただいたら、今までと全然違うんです。体が軽くて、竹刀が手に馴染むというか」
言葉を続けるうちに、自分でも熱がこもっているのが分かった。
「その人も……親友の仇を討つために京に来たと仰ってました。同じ境遇だからでしょうか。話していて、不思議と落ち着いたんです」
口にした途端、胸の奥にわずかなざわめきが広がった。
だが啓之助はすぐに笑みで取り繕う。
「ほんの束の間でしたけど、少し肩の荷が軽くなったような気がしました」
斎藤は煙をゆっくり吐き出しながら、じっと啓之助を見た。
「……へぇ。妙な浪士だな」
「え?」
「仇を討つってのはな、ただの覚悟じゃできねぇ」
斎藤の声音が、夕闇の中で低く響いた。
「剣を握って血を浴びる覚悟のことだ。命を捨てる覚悟だ。そんな奴が、見知らぬ坊ちゃんにわざわざ稽古をつけてやるなんてな」
口元には笑みが浮かんでいた。だがその眼差しは鋭く、冴え渡っていた。
「……気をつけろ。そういう余裕がある人間こそ腕に相当の自信がある。一番危ねぇ」
啓之助は言葉を失った。
藪の中で見た浪士の穏やかな微笑み。その姿と「危ねぇ人間」という斎藤の言葉が、どうしても結びつかなかった。
「でも……あの人は……」
言いかけて、口を噤む。
夕陽は西の山へと沈みかけ、空の端から群青色が広がっていった。
斎藤は煙管を軽く打ち、白い灰を払った。
「ま、俺の言葉なんざ気にすんな。ただ……剣の話をしただけで心が楽になるなんて、坊ちゃんはまだまだ甘ぇよ」
啓之助は苦い顔をして唇を結んだ。
否定できなかった。自分は甘い。だが、それでもあの浪士と語ったひとときは確かに心を軽くしたのだ。
その夜。
布団に横たわっても、啓之助の耳にはあの浪士の声が残っていた。
「俺も同じだ」
柔らかな声。竹藪に差す夕光の中、ふっと笑った横顔。
不思議なほど安らぎを与えるその姿が、何度も脳裏に浮かんだ。
啓之助は目を閉じ、深く息を吐いた。
胸の奥にほんのりと灯った温もりが、眠りを誘う。
——だが啓之助はまだ知らない。
知らぬままに仇と語り合い、心を通わせてしまった事実を。
その残酷な余韻だけが、夜の闇に潜んでいた。




