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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第十話 人斬りの名

 その日、三浦啓之助のもとに一通の書状が届いた。


 封を切った瞬間、墨の香とともに重苦しい文面が目に飛び込んでくる。


 〈佐久間象山を斬った賊徒、判明せり。肥後藩士、河上彦斎(かわかみげんさい)


 啓之助の指先が震え、紙が擦れる音が小さく響いた。

 瞬きしても文字は変わらない。見間違いではない。


 「……河上……彦斎」


 名を口にした瞬間、背筋を氷が這い上がるような感覚が走った。

 これまでにも耳にしたことのある名だった。京に潜む過激な攘夷志士の一人。血も涙もなく人を斬る残忍な男。その毒蛇のような残忍さから「蝮蛇(ヒラクチ)の彦斎」と呼ばれている。


 だが、その人斬りこそが父・象山を斬った張本人だったとは。


 啓之助は書状を持つ手に力を込めた。だがすぐに震えは大きくなり、紙がくしゃりと音を立てた。墨の文字がにじんで見える。目頭が熱く、呼吸が乱れる。


 「人斬り……」


 父の仇は、ただの浪士ではなかった。血を浴びることを恐れず、幾度も人を斬ってきた本物の「人斬り」。

 自分の胸に重くのしかかる言葉だった。


 啓之助の脳裏に、稽古の光景がよみがえる。沖田や永倉の竹刀に打ち据えられ、畳に何度も転がされた自分。あのとき味わった無力感。さらには、先日の巡察で命を賭して斬りかかってきた浪士の姿。己は刀を抜くことさえできず、土方に救われた。


 ——あの浪士は仲間の仇を討とうとして死んだ。

 ——だが自分はどうだ。父の仇を目の前にして、刃を振るう覚悟などあるのか。


 考えれば考えるほど胸が縮み、呼吸が浅くなる。


 思考が闇に呑まれそうになったそのとき、不意に背後から影が差した。


 「ほぉ……いいもん見てんじゃねぇか、坊ちゃん」


 軽い声音。振り返ると、斎藤一が煙管をくわえ、細い目を笑みに歪めてこちらをのぞき込んでいた。


 「人斬り彦斎、か」

 飄々とした声に、啓之助の胸がぎくりと揺れた。斎藤は足音も立てずに背後へ回り込み、手元の書状をひょいと覗き込む。

 「そりゃまた……手ごわい相手だな」


 啓之助の頬に血が上る。羞恥か怒りか、自分でも分からない感情が噴き出した。

 「……まだ、何も……」


 斎藤は肩をすくめ、紫煙を吐き出した。

 「いや、分かるんだよ。その名を聞いただけでな」


 声音は軽いが、瞳の奥には一瞬だけ真剣な光が宿る。


 「彦斎は腕が立つ。その上、狙った獲物は逃さねぇと噂されてる。俺だって、その名前を耳にするだけで背筋が冷えるくらいだ」


 啓之助は言葉を失った。

 父の仇は、やはりただの人斬りではない。剣の世界で生き抜いてきた猛獣だ。


 「悪い事は言わねぇ、坊ちゃん。お前じゃ勝てねぇよ」


 斎藤は口角を上げ、からかうように笑った。

 「ま、死ぬまでに奴の身体に刀が掠りでもしたら御の字だな」


 突き放すような声音。だが、その奥には微かな含みがあった。

 啓之助を侮っているのか、試しているのか。判断はつかなかった。


 「……そんな相手に、私は」

 声は震え、続きが出てこない。


 斎藤は煙管を傾け、飄々と背を向けた。

 「ま、せいぜい精進しな。仇討ちってのは口先で言うほど甘くねぇ」


 啓之助は唇を強く噛んだ。悔しさで胸が焼ける。だが同時に、恐怖が骨の奥まで染み込んで離れなかった。


 父の仇は「人斬り」。

 その現実が、鋼のごとく重く啓之助の肩にのしかかっていた。

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