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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第一話 仇討ち

 父が死んだ。


 京に響くその報は、唐突に少年の胸を突き刺した。

 文久三年七月十一日、洛中。思想家、佐久間象山(さくましょうざん)が攘夷派の浪士に襲われて斃れたのである。


 まだ血の匂いの残る路地へ足を踏み入れると、目に映ったのは血に濡れた石畳と、呆然と立ち尽くす人々の群れだった。

 亡骸はすでに運び去られていたが、残された濃い赤の跡だけが現実を突きつけている。


 そこに立つ少年は、まだ幼さを残した面差しに、鋭い眼差しだけが悲壮さを宿していた。

 結い上げた黒髪は汗に張りつき、白い額を濡らす。

 ほつれ一つない紫暗の小袖に紺の袴は、いかにも「坊ちゃん育ち」といった清潔さを漂わせていた。

 だが今、その衣は震える手に握られて皺だらけになっていた。


 胸の奥に生まれたのは、言葉にし難い空白——いや、穴と呼ぶべきものだった。

 あの大きな背が、もうそこにない。耳を澄ませても、豪胆な声はどこからも聞こえなかった。


 「象山先生が……」

 「攘夷派の手にかかったそうな……」


 人々のさざめきが遠くで揺れる。

 少年——三浦啓之助(みうらけいのすけ)はただ拳を固く握りしめていた。震えが止まらない。唇を噛み、鉄のような血の味を覚えながら、心の底で一つの言葉だけを繰り返す。


 ――父の仇を討つ。


 それ以外に、生きる道はない。


 日を追うごとに京の空は重く沈み、啓之助は孤りで迷った。

 父を失った少年が、この広い都で何をなし得るというのか。剣は稚拙、学も未熟。

 ただ胸の奥を焼くのは、憤りだけであった。


 そんな折、手を差し伸べた者がいた。


 会津藩士・山本覚馬(やまもとかくま)

 背丈は高く、肩幅広く堂々たる体躯。失明しているという鋭い切れ長の目はそれでも強く光を灯し、仕草の一つひとつに威厳があった。

 象山の門弟のひとりとして洋学に通じつつも、剛直に会津の武士を歩む男である。


 葬の折、覚馬は啓之助に声をかけた。


 「啓之助殿。志があるならば迷うな。会津は京を守る新選組という剣の集団を預かっておる。おぬしが本気で先生の仇を討つ気があるなら、そこに身を置くがよい」


 炎のように強く、それでいて深い悲しみをたたえた覚馬の提案は、十六の少年にはあまりに重いものだった。


 覚馬は静かに首を振り、告げた。

 「務まるかどうかではない。務めよ。おぬしは象山先生の子だ。その名に寄りかかるのではなく、その名を背負え」


 啓之助は拳を膝に置いて深く頭を下げた。

 「……父の仇を討ちます。どうか……新選組へ」


 覚馬はうなずき、筆を執った。

 墨の匂いが部屋に薄く立ち、筆先が紙を滑る音が静かに響く。


 やがて差し出された一通の文にはこう記されていた。


〈近藤勇殿へ。三浦啓之助、父の仇討ちを果たすべく入隊を願い出る者なり〉


 啓之助は震える手でそれを受け取った。覚馬は微かに笑みを浮かべる。


 「これで門は開く。だが誤解するな。新選組は学問所ではない。そこは剣でしか語れぬ場だ。甘いままであれば、良い結果にはならない。……それでも行くか」


 「行きます」


 思いのほか大きく出た声に、覚馬は満足げに目を細めた。

 縁側の外では夏の夕暮れが庭の竹を茜色に染め、風がざわめいていた。


 「では行け。新選組で血を見ても、忘れるな。先生の志は、新しい世界を開くことにあった。己の志を胸の奥に持ち続けよ」


 啓之助は文を懐にしまい、深く一礼した。




 翌朝、まだ薄暗い京の町を歩いた。

 鴨川の流れが白く光り、町家の軒先から炊き出しの煙が立ちのぼる。


 胸の奥には昨日よりも重い何かがあった。だが、それはやがて彼を支える錘となる。


 新選組の屯所、壬生村の門は遠目にも威圧感を放っていた。


 足は震えていた。退くことは許されない。


 三浦啓之助は懐の紹介状を握りしめ、一歩、門の内側へと踏み入れた。


 ――ここからが、彼の戦いの始まりであった。

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