第七十一話 宣戦布告・下
士官に促されるまま外に出ようと扉を開けると、厳かな旋律がどこかから響いているのが耳に入る。
そして外にはもう多数の兵や士官、事務官たちが集まって、西の空を見上げていた。
ラダナイヤ王宮や聖ポーレン聖堂の尖塔を掠めるように双頭の鷲と黒十字を象った半透明のアウストムネシア帝国の国旗がはためいていた。
「……空に映画を映しているの?」
フィチは訝しげにそう言うが、映写幕も無ければ弁士も無く伴奏も無いのに、勝手に映像が映し出されて、どこからか音が鳴り響いているのだ。
そしてその厳かな旋律は止み、国旗は男の顔に変わる。
かつては美青年であっただろう面影の残る顔と艶のある金髪。翡翠色の目は人々を睥睨するように下目遣いになっている。
アウストムネシア帝国空中艦隊の制服を身に纏い、四本の金線と交差する雷の刺繍が入った袖の階級章と、ネクタイに止められた銀に青玉を遇った十字勲章がその男が特別な存在であることを意味していた。
俺はその顔を知っている。
新聞のモノクロ印刷越しだったが、何度も目にした顔だった。
『親愛なる全世界の諸君』
男が口を開くと、少し高い声が空中に響いた。
本来は違う言語で喋っているのだろうが、空に反響する男の声は流暢なエゼルベシア語だった。
『私は新生アウストムネシア帝国摂政にして空中艦隊司令長官、ヴィルフリート=ナグヴィッツ元帥である』
空中に移った男――ナグヴィッツは大仰に手を広げ、更に言葉を紡ぐ。
『我々新生アウストムネシア帝国はこの彗州と世界を再びより良き秩序によって作り替える。幻想の神を捨て実存の指導者のもと、より善き、より優れた人々による理想の世界を我々は作り上げる』
そのためなら知恵遅れや不具者、弱い人間は皆禍血の材料にすると。
俺は心中でそう毒づく。
しかし空中のナグヴィッツはそれを見透かしたかのように、まるで俺を見下ろすかのような形で語り始めた。
『我々はあらゆる肌の色と身体的特徴を持つ優れた者を拒まず受け入れる。しかし、我々に逆らうものは実存の指導者による裁きを受けるであろう』
そして一呼吸置いて、ナグヴィッツは声をあげた。
『全世界の諸君、我が主の、そしてこの世界の主となる女性。エデルトルート帝陛下の綸言を拝せよ』
エデルトルート帝?
「そんな訳があるか、エデルトルート帝は死んでいるはずだぞ」
ラストラが苛立たしげに声をあげる。
そう、エデルトルート帝は病に倒れて死んだ。それが魔女戦争終結最大の理由だったはずだし、葬儀の写真も、遺体の写真も見た。
なのにナグヴィッツは何を言っているのだ。
そしてナグヴィッツの像が揺れてかき消えると、次の瞬間、そこには紅をあしらった玉座に鎮座する、長い黒髪を湛える女性の姿があった。
極端に白い磁器のような肌。深い群青色の目。
唇だけが朱く、まるで精緻な人形の様な若い女性。
彼女は身体のラインを浮き出すような豪奢な衣装を纏って、玉座に深く座って、こちらを見下ろしている。
「……エデルトルート帝だわ」
フィチが文字通りの死人を見た、強張った表情で呟く。
「わたくし、お目にかかったのは一度だけだけど、母様の付き添いで本物の彼女を見ているもの……あれは間違いなくエデルトルート帝よ」
彼女――エデルトルートは口を開いた。
最高級のヴァイオリンの旋律を思わせる、繊細だがよく通る声が空中に響く。
『朕はエデルトルート=ヴィクトリア=ヴィルヘルム=アダベルト=フォン=シェールゲンフルト。アウストムネシア帝国最後の女帝にして新生アウストムネシア帝国の高祖である』
エデルトルートはそう名乗ると、少し間を置いてまた言葉を紡ぐ。
『朕はこれより先にナグヴィッツの申した理想のもと、全世界に号令を挙げる。朕の下この彗州の秩序を正し、刷新したいと思う者は朕の下に集え。そして――』
その時俺は、エデルトルートと目が合った気がした。
吸い込まれそうなほど深い群青の目が細められ、再び口が開かれる。
『朕に逆らう者、朕の名を穢す者には罰を与えん。まずは朕の下賜した艦を穢し、我が物としたベルティナ王国、その首都ラダナイヤの民に裁きを与えようぞ』
そう言うと、エデルトルートの姿がまた揺れてかき消えると、ナグヴィッツが再び空中に映し出される。
『エデルトルート帝陛下の言葉の通り、明朝の夜明けをもって我々は陛下によって与えられた巡空戦艦『エクシステンツ』を穢し、我が物とした愚かしきベルティナ女王への裁きとして、王都ラダナイヤを焼き尽くす。彗州と全世界の諸君はどうかこの新時代の篝火を見、懸命な判断をしてもらいたい』
そう言ってナグヴィッツの姿は空から消え、地上からの騒めきだけが空に残された。
俺は思わずフィチの方を見る。
隣に立つフィチの顔が見る間に蒼白になっていた。
エデルトルートの言葉はフィチの行動の全てを否定し、更にそれに罰を与えようと言うのだから、当然だろう。
俺は考えるより早くフィチの肩に腕を回し、肩章の着いたそれを引き寄せる。
「大丈夫だ。罰が何だとしても、俺たちが防げば良い。逆に連中の面子を潰しちまおう」
「そんなの、できる訳……」
フィチが不安げな沈んだ声で返す。
「出来る。そのための俺と『スカアハ』だ」
俺は回した手を強く握り、フィチを向き合うように抱き寄せる。
「戦士の夫婦は助け合うものなんだろう。俺がこの街を、この国を守るフィチ=ミルシェルファの槍となってみせる」
俺だって勝算はあるとは思わない。
しかしそれでも、黙って罰を受けろと言うのなら反抗してやりたいのだ。
特にエデルトルートやナグヴィッツのような理不尽の化身に対しては、絶対に抗ってやらないと気が済まない。
沈んだ顔のままだったフィチは、しかし俺の言葉に頬が緩んだ。
「……そうね、抗ってみないと」




