第六話 突然の訪問者
翌朝遅く、まだ残った酒精に痛む頭を抑えながら俺は身を起こし、母が行ってしまった後の食卓で使用人が作ってくれた鍋に入ったオートミールを食すと、本で散らかった自室に戻り、机に突っ伏しながら古い時代の海軍軍人の回顧録を読んだ。
ジョンに言われたからでは無いが、買ったまま死蔵していた本を読むのにはよい機会だ。何か後で使えることを掴めるかもしれないし、読んでいれば気も紛れる。
頁を捲ると、ベルティナ王国の文字が眼に飛び込んでくる。
このエゼルベシアの隣国にして保護国――事実上の支配国だが――の島国であり、女性しか生まれない妖精族の女王が代々治める国。妖精族の集団的な習性によって何度もエゼルベシアの手を焼かせ、時にエゼルベシアと共闘しその武功を讃えられた国。
そこで昨日のフィチと名乗る少女を思い出す。
今思えば彼女はベルティナのお貴族様だったのかもしれない。
「しかし、それなら俺に賭けるとは何だったのかね」
ベルティナ王国の妖精族の下士官との共闘の場面の途中で俺は本を置いて、一度伸びをする。
その時、たんたん、と部屋のドアが素早く叩かれた。
「ユフ、ユフ」
くぐもった声が扉の外から響いてくる。その声には切羽詰まった物が混じっていた。
「……何だよ、親父」
「お前にお客さんなんだが、早く来い」
「客?」
俺は首を捻る。客なんて呼んだ覚えも来る覚えも無い。
それにジョンのような士官学校同期程度の客なら親父もこんな応対はしない。
「相手はベルティナ王家を名乗ってるんだ! 早く出て、いやその前に着替えろ! 正装だぞ!」
親父の引っくり返った絶叫を扉越しに聞いて、俺は昨日のフィチという少女の言葉が蘇り、途端に顔が青ざめる。
まさか彼女、ベルティナ王家の人間だったのか。
慌ててクローゼットの隅にかかっていた仕立ての良いフロックコートとベストとスラックスを引っ張り出して、シャツの上から着込む。
そして帽子掛けの上にあった中折れ帽を被って部屋を出ると、親父が今まで見たことも無い強張った顔で俺に下へ行くように促していた。
「一体何があったんだ。ユフ」
「俺だって知りたいよ、ベルティナ人となんて戦争の時に話したっきりだ」
「とにかく降りろ」と親父に促されて階段を降りた。
玄関のドアの前には濃緑に金のモールの入るベルティナの近衛らしき詰襟の制服を
纏い、金と黒で彩られたサーベルを吊った、気の強そうな妖精族の女が立っていた。
プラチナブロンドの髪を後ろに撫でつけて額を出し、きりりとした黒い目でこちらを睨む姿はまさに近衛士官と言った様子だ。
肩に付いた階級を見ると二等尉官だろう。
女士官は俺を見るなり、ハスキーなよく通る声で訊ねる。
「ユフ=ハウェイズだな」
「はい」
そうとしか答えられない。
「私はアルカ=キャナダイン中尉。フィチ殿下の命によりお前を迎えに来た。表に馬車を待たせてあるから早く乗るのだ」
ベルティナ風の階級を名乗り、彼女は芝居がかった様子で手を振り下ろす。
「はあ……」
懐中時計を取り出し、その盤面を見て眉間に皺を寄せるアルカと名乗る近衛の妖精族に急かされるように、俺は玄関を出る。
ハイス通りの決して広くない路地に止められた不似合いな豪奢で大型の、ベルティナ王国の紋が付いた深緑色の馬車を見て、俺はさっと血の気が引く思いがした。
市立図書館の主任司書を勤め上げた堅実だが常識的な父がこれを見たら、それは腰を抜かしてしまうのも当然だ。
嘘では無く、本物の王家の馬車が止まっているのだから。
馭者台にはこれもまた妖精族の近衛の制服を着た女士官が乗っている。
俺は恐る恐るステップを登り、車内の椅子に腰掛ける。
「ユフ、昨日ぶりです」
その声に向かい合う席にフィチが座っていた。
彼女は昨日の服装と違い、濃紺色の開襟軍服を纏っている。ユフも魔女戦争の頃に何度か見たベルティナ空中艦隊のそれだった。
魔女戦争の頃に見たベルティナ士官との唯一の違いは肩にモールに包まれた肩章が入っていることか。その肩章はきっと特別な役割を抱くことの証だ。
こうなってしまった元凶に一体何なんだと問いたくなったが、その前にアルカが乗り込んできて、天井を叩いて馭者に馬車を出すように促した。
くぐもって聞こえる馬の嘶きの後、辻馬車よりも重い音を立てて馬車は走り出した。
「……あの、まだよく状況が飲み込めていないのですが」
俺は向かい合う彼女たちに向かって、口にする。
フィチは眼をぱちくりさせていたが、「あ」と口元に手を当てて声を上げる。
「そう言えば説明を忘れてましたね」
アルカがぎろりと鋭い視線を向けてくるが、俺だって訳のわからない状況で連れ去られる同然でことを進められるのは嫌なのだ、と上目遣いで返す。
「ユフ、改めて自己紹介致します」
フィチが口元に当てた手を胸元に下ろし、改まった口調で言う。
「わたくしはフィチ=ケーペンツ=ミルシェルファ。ベルティナ王国女王ルシェリスの第七王女です」
「は、はい……」
彼女が王家の馬車で乗り付け、近衛の士官を連れていたことで薄々わかってはいたことだったが、こうやって目の前で王女と名乗られると流石に萎縮してしまう。
「フ、フィチ殿下。どうして私をご同座に……」
「それは貴方を“すかうと”させてもらうためです」
紺の開襟軍服に似合わぬ、人懐こい大型犬を思わせる満面の笑みでフィチは言う。
「貴方の書かれた新聞記事を幾つか読んで、エゼル空中艦隊の問題点を突き、亜竜の習性や飛空艦の扱いに長けていることを知り、是非貴方にはわたくしの艦の指揮をして欲しいと言う思いがありまして――この度貴方のベルティナ空中艦隊への“すかうと”と、結婚を申し込みに来ました」
「はぁ――はあああああっ!?」
一度彼女の説明を呑み込みかけて、思わず大口を開けて素っ頓狂な声を上げてしまう。




