第五十話 就役の日・出港
出港十分前を切り、待機状態になった竜血機関の高い唸りと両舷の補助機関や主機関に蒸気が送られる低いごぉ……と言う音が聞こえてくる。
外ではあの日以来かけられたままだった舷梯が外され、舫い綱も外されてゆく。
「船渠のクレーンに擦らないように頑張ろうな、副長」
「わかってます」
まるで自動車で塀を擦らないようにとの言い方だが、船渠の門形クレーンに艦体を引っかければただではすまない。
飛空艦の欠点の一つが、船渠からの出発の難しさなのだ。
吊り合い浮揚出力計の針は八〇ケーヴェルを指している。竜血機関を上昇に切り替えれば今すぐにでも飛んでいける。
「航行士、風向幾らか」
「真西に風速三シルケです」
「よし、なら竜血機関で充て舵運転を行う。左右パドルを右周り二度旋回!」
ジャスパーの指揮をテレグラフの兵が復唱し、ちんちん、と音を鳴らす。
暫くして、ちん、と返答の針が鳴る。
俺は懐中時計を取り出して目をやる。
朝方標準時計に合わせてきた時計の針が一一時五分〇秒を指した瞬間に、声を張り上げて下令する。
「竜血機関を待機位置! 舫い離せ!」
「竜血機関、待機位置!」
「各部舫い離せ!」
俺の指揮もまたテレグラフと伝声管で伝達が行われ、艦と船渠を繋いでいた舫い綱が外されて、竜血機関の唸りがより大きくなる。
全身が少しだけ軽くなる浮遊感が働く。艦を支えていた船渠の盤木が離れ、完全に浮遊したのだ。
「竜血機関を浮揚位置、八〇〇シルケまで保て」
浮遊感と共に、下へと血が引っ張られる感覚が強くなる。艦橋の窓外では船渠の壁が離れ、前部の門形クレーンと艦首の鼻先はぶつかること無く飛び越えた。
変な震動が伝わらない辺り、後部のパドルもクレーンや船渠の壁を擦らず、無事に飛び立てたようだ。
風の影響を受けることもなく、艦はラダナイヤ宮殿の尖塔と、飛空艦係留塔を越える。
「取舵十五、左舷補助機関全機微速後進、右舷補助機関全機微速前進」
下令に兵たちは応え、『スカアハ』は機関と舵の傾きでゆっくりと左方向を向きながら浮揚を始める。
『スカアハ』が向きを変えると共に、艦長席前のジャイロコンパスが進路の北北西方向に向かって周り出した。
ジャスパーは窓外を、俺はコンパスを見張って艦の安全を確認する。
やがて艦が北北西の方向を向くと、舵を戻し、補助機関を停止させる。
「八〇〇シルケに到達しました」
それと相次いで後方見張り所からの伝声管から女性乗組員の声が響いてきた。
「『ブロッサム』『サンフラワー』本艦の後方二パームの位置に接近、同航になるよう進路変更しています」
「よし。左右主機関と補助機関全機、半速前進。竜血機関、正位置に戻し次第前速位置へ。ラダナイヤ上空を出次第巡航速度に移行する」
艦橋のあちこちからの復唱と、円状のテレグラフの上を半速前進の位置へ針を動かし、ベルの音が鳴り響く。
返答のベル音がばらつきながらも届くと、艦の後部から主機関に繋がった巨大なプロペラの唸る低い音と震動が艦体を伝わって、床を、壁を、窓を揺らした。
これで出港は終了した。後は戦闘演習まで俺の出番は無い。
緊張から解き放たれて、ふぅ、と俺は息を吐く。
「ユフ、素晴らしい采配でした」
「キャナダイン艦長が補完をしてくれてこそだよ。パドル操作が無ければ横風でどこか擦ってたかもしれない」
「それでもとても素敵な采配でした。お二人とも、とても素晴らしかったです」
フィチは目を細めて俺たちを見る。
その後ろでアルカもこくりと頷く。
俺はそれにいたずらっぽく笑って返しながら、軽口を叩く。
「この後はフィチ殿下の出番ですよ。小官は殿下の命令に従って『スカアハ』の戦闘指揮を担当します故」
「あら。それならば最高の腕前を見せないといけませんね」
フィチの柔らかい笑顔がにやりとした、挑戦的な笑みに変わる。
そこに通信室からの有声通信のベルが鳴り、俺は受話器を取る。
「ハウェイズだ」
『副長、標的艦『デリンズ』より通信。現在演習空域に向かっているとのことです』
了解した、と言うと受話器を置く。
「標的艦も演習空域に向かっているとのことです」
「わかりました」
フィチが頷く。
やがて戦隊はラダナイヤ市街を離れ、巡航速度に移行する。
「旗旒信号用意。『初の演習、各自奮励努力しその成果を見せ付けよ』と掲げて」
フィチの言葉に、信号長が「了解!」と応え、すぐに旗旒信号の信号書を手に持って主艦橋を出てゆく。艦橋後方の主マストに向かったのだ。
さあ、見せ付けよとまで大口を叩いたのだから、どのような結果になることやら。
俺は艦を任された者ながら、半ば他人事のように俺と『スカアハ』いう駒を持つ手に向かってそう思っていた。




