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第三十六話 夜話・下

 一枚目の紙が終わりに近づいたところで、こんこん、と扉が叩かれる。


「ユフ、まだ起きてるよね?」


 フィチの声に「うん」と答える俺。


 扉が開かれ、白いナイトドレス姿のフィチが部屋の中に入ってくる。


 湯浴み後なのか蜂蜜色の髪はしっとりと水気を帯び、洗髪料と石鹸の香りがより強く鼻をくすぐる。


「少し一緒にいても良いよね」


 俺はまた「うん」と答え、タイプライターに視線を向ける。


 あらかた書き終えた一枚目のレポートを抜いて、二枚目の紙を入れてキャリッジを右端にずらす。新しい節を書くためにばしばしと鍵面を叩き始める。


 だが、中々進まない。鍵面を叩く指も、打ち出される単語も、徐々に遅く、少なくなって行く。


「ユフはさ、これから先のことに不安がある?」


 フィチが徐に問いかけてくる。


 俺は進まない指をタイプライターから離し、椅子を軋ませてベッドに座るフィチの方を向き、答えた。


「あるさ」


「やっぱり副長としてやっていけるかってこと?」


「それが一番大きいよ」


 俺は自嘲気味に乾いた笑いを漏らす。


「ここに来て、キャナダイン艤装長から副長や戦闘指揮の大任を任されて、自分に本当に艦が動かせるのかと思ってしまってる。フィチに戦術を教えている間にも、俺には実際に訪れる戦いの場でこんな攻撃的な戦術が取れるのかとか、部下の命を預かって何かを間違えないかとか……飛空艦の指揮が怖くなっている」


「わたくしもよ」


 フィチが顔を上げる。妖精族の光を複雑に反射する瞳が、俺をじっと見据える。


「今の彗州の平和は薄氷の上の平和。いずれ誰かがその薄氷を踏み外せば流血が起きる……だからこそわたくしはベルティナを守り、誇りを取り戻すために『スカアハ』を自らの槍とした」


 でも、とフィチは首を横に振る。


「わたくしはユフや多くの『スカアハ』乗員、そして随伴艦の乗員たちや共に戦う他の人々を、自分の命一つで共に死地に送ることが出来ることを、軽く捉えすぎていたのだと気づかされたの。わたしは自分の命ずることをもっと重く捉えないといけないと」


「……でも君は怖じ気づいてないように見えるよ」


 俺はぽつりと溢す。


「虚勢を張っているだけよ。もし『スカアハ』の艦橋に直撃弾が出て、ユフやアルカが血だらけで事切れていたら、わたくしは取り乱して、指揮も出来なくなっているわ」


 ふぅ、とフィチが息を吐いて、大きな翠玉の瞳を細めた。


「わたくしが攻め、己が槍を振るえるのは、わたくしの求めた最高の布陣あってこそよ。その要が崩れれば、わたくしは怯えるだけの無力な少女になってしまうと思うわ」


「君は芯が強いから、それは無いよ。きっと俺の死も撥条ばねに変えて己の信念のために戦えると思う」


「勝手な思い込みではなくて?」


「例えそうだとしても、心の底からそう言える。フィチ、君はとてつもなく強い」


 そう、これは俺の心からの思い込みだ。


 例えそれが真実で無くても、俺の中のフィチはそうなのだ。


 人懐こくて、どこか幼げで、それでいて誰が何と言おうと、そして何があろうと曲がらない強い芯を持っている。


 そして必要とあらば強大な長姉や宗主国ヅラした隣の大国すら敵に回すだろう胆力も備えている。


 それが俺の中のフィチ=ケーペンツ=ミルシェルファだ。


「買いかぶりすぎよ」


「それは俺がいつも言いたいことだよ。俺は本当に指揮するのを怖がる臆病者だ」


 それが俺の『ユフ坊ちゃん』とも呼ばれる所以だ。


 軍人のくせに自分の判断に賭けること、失うことを怖がる。


 そして他人のそれも許さない。


 剛気を気取って同期とジンパレスを訪れたりもしてみたが、その底にある臆病さ故に、同期には――ジョンにもお坊ちゃん軍人にしか見えなかったのだろう。


 俺の口に、フィチは人差し指を当てる。


「それはユフがとても慎重で、乗員の命や周りのことを重く見ているから。わたくしの場合、そう言う人が誰か居ないとダメなの」


 そう言う言い方もあるのか。と俺は納得をしてしまう。


 フィチの言葉は時に不思議なほどの説得力を持たせてくれる。


「ねえ、少しお散歩しましょう?」


 フィチはぱん、と手を合わせてそう言う。


「お散歩と言っても、もう君も寝間着だろう」


「良いのよ。上に外套を羽織って、空のお散歩を楽しみたいの」


 空のお散歩。と言われて、俺は慌てて手を横に振る。


「俺は飛べないぞ、妖精族じゃない」


「わたくしがユフを抱いて飛べば良いのよ」


「いや、辞めておけ。俺の体重が何パウンドあるのかわかってるのか?」


 確かに鍛えた妖精族の騎士は重銛を抱えたまま亜竜を狩りに飛んだと言うが、フィチの細腕で俺の全体重を支えながら飛ぶなど、とてつもない負担になる。


 しかもクタクタに疲れた身体で冬空を飛ぶのだ。彼女の体力が保たないだろう。


 確かに彼女からすればこの上なくロマンチックな誘いではあるのだろうが、断るしかない。


 そしてフィチも身を乗り出して俺の顔をじっと凝視し、やがてその意を汲んだのだろうか、「うん。確かに二人揃って風邪引いちゃいそうだものね」と反す。


「でもいつかしてみたいな。ユフと二人で、夜空のお散歩」


「飛空艦の艦橋でじゃダメか?」


「二人きり、自分の羽根で、風を感じながらが良いの」


 フィチはゆったりと俺に言い聞かせるように語る。


「飛空艦の硝子張りの艦橋じゃ夜空の星も地上の明かりもくすんで見えるし、夜の風の匂いも感じられないでしょう?」


 それがフィチの――妖精族の飛ぶ王都ラダナイヤの夜空なのか。


 竜血機関と蒸気機関の唸りや震動に身を委ねて、明かりの消えた艦橋に立って、眼下のユールズ川に貫かれたブランダンの地上の灯を目印に飛ぶ、俺の知る夜空とはきっと違う景色が見えるのだろう。


 俺も柄にもなく、いつか本当にフィチの知る夜空が見れるといいな。と思ってしまった。


「さて……と」


 俺はタイプライターの改行ハンドルを握って中途半端に止まったキャリッジを戻し、ロックをかける。


「もう良いの?」


「良いさ。どうせまともな文章が思い浮かばないんだ。今日はもうお終いだ」


「それならユフ、もう少しお話ししないかしら?」


「眠くなるまでな」


 時計かけにぶら下がった懐中時計は十時を指している。


 明日は早いが、お互いまだベッドに潜るには早い。

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