第二十六話 新しき我が家
ヤーステン通りの宮邸は王宮とは違いこぢんまりした前庭付きの二階建ての建物だったが、それでも俺の実家の倍近くはある大きさの家だ。
これを二人ほどで使うのは贅沢だと思ってしまった。
ミァリの蒸気自動車を降り、俺たちは葉を落とした椎の木の植わっている前庭を通る。
家の中にはエーテル灯が灯っており、フィチが鍵を開けて扉をくぐると、ぽてぽてと侍女服姿の獣精族の侍女がやって来て、俺とフィチに向かって一礼をする。
「お疲れ様でした、フィチ様」
「貴女こそお疲れ、ウェンディ」
獣精族特有の大きな兎様の耳を立てて、侍女は俺を怪訝そうに見上げる。
「貴方がユフさんですか」
「はい」
彼女の誰何の圧に俺は思わず敬語で答えてしまう。
「ヤーステン宮邸の侍女のウェンディ=ビングズと申します。以後お見知りおきを」
ぺこりと頭を下げるウェンディに、俺も無帽礼で返す。そして頭を上げると、ウェンディは少し恨みがましい目つきで俺を見上げていた。
「ご蔵書は少し整理して持ってこられた方が嬉しかったですね。ユフ様」
ああ、と俺は申し訳ない気持ちになる。
きっと彼女は、ブランダンの自宅から船積みにした木箱二つ分の蔵書を俺の部屋まで運んでくれたのだろう。
男二人がかりでやっと運び出せた木箱の中身を一人で運んでくれたのだから、申し訳ない気持ちにもなる。
「研究熱心なのはわかりますが、あんなに本を詰め込むことも無いでしょうに」
「すみませんでした……」
変な貧乏根性を出して手放したくない本や自筆の研究の類を詰めた結果なのだから、怒られても仕方が無い。
そして重い鋳鉄のタイプライターを持ってこなかったのは正解だったとも思った。
「本当にお疲れ様、ウェンディ」
そう言ってウェンディを労うと、フィチは俺の方を向いて、口角を吊り上げる。
「ユフにはちゃんと言って聞かせるから、明日から、みっちり。聖蹟演舞の訓練の中で」
「さいですか」
ウェンディもいたずらっぽく笑む。
「カクテルパーティでしたからお腹も空いたでしょう。お夜食を用意しておりますよ」
「そりゃ有り難い」
どうも今日は朝から軽食しか摂っていないので、少し腹が減っていたのだ。
ウェンディに案内されて俺は宮邸の二階の自室に入り、几帳面に背の高さと内容を揃えた書棚の本を背に普段着に着替えて、礼服をワードローブに掛ける。
ワードローブには先に届けられたらしいベルティナ空中艦隊の制服と真新しいシャツが数着畳まれている。
机の上の時計立てにエゼルベシア空中艦隊の紋章の入った懐中時計をかけることに違和感を覚えつつ、俺は部屋を後にした。
部屋を出ると暫くしてウェンディとフィチが隣の部屋から現れる。
フィチはこざっぱりとしたノータイのブラウスと丈の長いスカートと言う服装で、髪を一本結びにしている。
王女の普段着と言うにはやや簡素すぎるが、夜会用の化粧を落とした彼女の溌剌とした容貌にはこちらの方が似合っている気がした。
「さあ、お夜食にしましょう」
手を洗い、食堂に入った途端に香ばしい匂いが俺たちをもてなした。
フィチはすんすんと鼻を鳴らし、その香りを堪能している。俺もつられて鼻を鳴らす。
ウェンディは厨房に入って、オニオンスープの注がれた器とメロヴィス風の堅パンを持ってきた。
エーテル灯の灯りに照らされたスープは薄橙色に煌めき、寝る前の軽い食事ながら酷く食欲をそそった。
フィチは「まぁ」と声を上げ、俺もテーブルについて香ばしそうなオニオンスープと堅パンに舌鼓を鳴らす。
スプーンにスープを乗せて口内に入れると、程よく暖かく、甘みを帯びた素朴な味が口内を満たす。
これは堅パンにも合うな。と傍らに立つ獣精族の侍女の料理の腕を認めながら、俺は堅パンとスープを交互に口に含み、腹を満たしていくのだった。
向かいのフィチは自慢の侍女が俺の胃袋を掴んだのを確信したのだろうか、にんまりしている。
フィチの手柄というわけでも無いのだが、俺は素直にそれに頷いて返した。そして傍らに立つ本人にもこくりと首を縦に振ると、ウェンディも静かにそれに返す。
「ユフ様のお口に合って光栄です」
「こちらこそ、こんな美味しいスープはなかなか飲めませんよ」
またまた、とウェンディ。
「お艦の士官食堂でもっと良い味のものを食べているのでしょう」
「いえ。下級士官は兵より少しマシくらいですよ」
艦隊司令部の乗る旗艦の高級士官は司令長官や主任参謀たちのおこぼれで、選抜主計員の腕によりをかけたメロヴィス風のフルコースを振る舞われるそうだが、そうでもない艦の下級士官と言えば、街のレストランの一品物と大差無い食事が振る舞われる。
兵や下士官の炊き出しに毛が生えたような食事よりはマシながら、それでもやはり味の質より量重視の食事だ。
戦隊司令であるフィチの乗る『スカアハ』ではどうかはわからないが、少なくとも自分の食べた中ではウェンディのスープは自分の食べた中でも最高級の味だった。
「明日の朝はいつも通りオムレツで宜しいですか?」
「ええ、いいわ」
フィチの快諾にウェンディは首肯した。
彼女の作るオムレツの味を想像して、俺は今腹を満たしたばかりなのにもう唾液が出てしまっていることに気づき、慌ててそれを飲みこんだ。




