ジャッジとラグー
なんかいい感じになってケンカが終わった。
これが精霊の力か。
とりあえずメシを食わせてくれ、と俺は言い、8人の男たちといっしょに酒場へなだれこむことになった。
「ジャッジ」と名乗った男——さっきのケンカの時に1.5メートルくらいの高さまでジャンプしていた男が手早く注文をすませ、焼いた肉の塊と木製のジョッキがテーブルに並んだ。
まずは一杯。
かわいた喉を液体が流れていく。たぶんビールだ。冷たくてうまい。井戸水かなにかで冷やしておいたものだろうか。
1周目の日本の5月の夕暮れどきのような気候。
大きなものを失ったあとの悲しさと解放感。
肉には誰も手をつけない。
大きな円卓を囲んだ男たちは、じっとこちらを見ている。
俺が最初に食っていい流れか?
「いただきます」
と手を合わせてからナイフで肉をそぎ、指でつまんで口に入れた。
これもうまい。
塩のからさと鉄分が、1周目で汗をかいた体にしみる。1周目の俺と2周目の俺は、確かにつながっている。
そして、それ以外には何もない。
「……うまいよ」
「うまいか! よかった……」
涙をこぼしながら、ラグーが言った。さっき泣き崩れていた男だ。なんでおまえが泣くんだよ。
口をおさえて嗚咽しはじめたラグーの横で、ジャッジが口を開いた。
「きみ——エイチャ、でいいんだよね」
「ああ」
「エイチャは、どこから来たの?」
「日本なんだけど、そこからどういうルートで来たのかは俺にもわからない」
「ニホン……」
「知らない? ニッポンとかジャパンとか言ったりもする」
「それ、土地の名前なの?」
「ああ」
「聞いたことがない。というか今、ゼノみたいな響きで聴こえたよね」
そう言ってジャッジは、まわりの男たちに目をやった。何人かがうなずく。
「ゼノみたいな、ってなに?」
「ゼノグロッシア。他人には伝わらない言葉のことだよ。誰も考えたことのない何かを言うための言葉とか、あるいはきみがデタラメに作った言葉とか」
俺にはそもそも、なんで今、言葉が通じているのかもわからない。
酒場の店員同士の会話も、日本語で話しているようにしか聴こえなかった。
ジャッジは俺と同じで黒髪黒眼。ラグーは銀髪碧眼。二人とも日本育ちなのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「ここはどこなの? 逆に」
「ここはウラキア。ハルマニア公国の東の端だよ。まだウラキア辺境伯領と呼んでる人もいる」
「ウラキア、か」
「知らなかった?」
「初めて聞いた」
「ウラキア」
俺の眼をじっと見ながら、そうくりかえすジャッジの視線。俺の心を探るような視線が、よりいっそう強くなった。
「ジャッジ。エイチャは嘘なんか言ってねえよ」とラグーが涙声で口をはさんだ。「そういうことはあるもんだって、親父も言ってたろ」
「まあ、そうなのかもしれないけどな」
「ジャッジ」
「おまえがそう言うなら任せるよ。あとはおまえが訊いて」
「ああ。とりあえずエイチャ、服は知ってる?」
「それは知ってる。なんか消えたけど」
「じゃあ、これをやるよ。腰に巻け」
そう言ってラグーはシャツを脱ぎ、俺に渡した。
俺はそのシャツを腰に巻き、店内にも何人かいる腰布族と同じようなかっこうになった。
「ありがと」
「おう。で、アレはなんなんだよ」
「アレ?」
「レンガを砕いたろ。アレ、どこの武術だ? おれにも教えてくれよ」
「あー……、教えられるようなものじゃないんだよな……。それに、ラグーならレンガも砕けるんじゃないか? 必要ないだろ」
俺と同じような体格だが、ラグーは俺の10倍強そうだ。きれいな顔をしているジャッジとは違い、乱戦の中で何発か顔面を殴られてはいたが、その100倍くらいの手数で暴れまわっていた。それでいて、拳を壊している様子もない。
しかしラグーは首を横にふった。
「砕いたっていうか、ほとんど粉になってたよな。あんなことできる奴、いねえぞウチにも」
「……あれは精霊の力だよ」
「セイレー? トリレン教の奴らが言ってるアレか?」
「いや、それがなんなのか知らんけど、たぶん関係ない。知らんけど」
「トリレン教じゃなくて、エイチャのセイレーか」
「ああ。その精霊がいるんだよ、このへんに。あと、しゃべるし」
「しゃべるのだ♣」
「今の、聴こえた?」
レーションを指した俺の指と俺の右上をラグーは交互にながめていたが、
「聴こえないし見えねえよ」
と言った。
やはり聴こえないのか。
でも、
「俺には見えるし聴こえるんだよ。で、レンガを砕いたのも、そいつの加護の力だ」
「まじか。すげえな」
「うん、すごいよな……」
俺は、また少し悲しくなった。
1周目の世界で死なずに、あのまま空手を続けていたら、いつかは空手でレンガを砕けるようになっていただろうか。
こんなところにも、未練が残ってる。
残ってはいるが、もう終わりだ。俺は精霊の加護でレンガを砕いてしまった。空手との縁は切れた。これからは精霊でやっていく。
「なんか、ごめんな」
とラグーが言った。また涙を流している。
「だからなんでおまえが泣くんだよ」感受性の化物か?
「わかんねえよ。飲め!」
俺とラグーはビールを飲みほした。
さらに無言でもう一杯。
なんとなくまた一杯。
酒と料理と食料調達の話をラグーとしながら杯を重ねているうちに、だんだん気持ちが落ちついてきた。それほど厳しい環境でもなさそうだ。
気がつけば、テーブルの上の料理はほとんど食いつくされていた。
皿から骨を手にとってかじりはじめたラグーに俺は言った。
「なあ、さっきのこと訊いていい?」
「おう。なんでも訊けよ」
「さっきのケンカ、なんだったの?」
「あー、エイチャ、あずかったとか言ってたよな。すげえ声で」
「まあテキトーこいたけど」
「あれな、べつにケンカがしたかったわけじゃないんだよ」
「うん」
「なんかみんなイラついててさあ、なんでかっていったら変な女が町に来て、おれたちを数えるんだよ」
「……ん?」
「それ、その女の親分みたいなのが変な戦をする奴らしくて」
「待て、ラグー」
なにを言っているのかよくわからないラグーの話を、ジャッジがさえぎった。
「その順序で話すなよ。おれが説明する」
「ああ、任せた」
「いいかい、エイチャ。そもそもこのウラキアの町をふくむハルマニア公国のあたりは、2つの帝国にはさまれた緩衝地帯だったんだよ。2つの帝国というのは、西のマウロペア帝国と東のアッシルカガンツ帝国だ」
いきなり話が大きくなった。
それはそれで、なんの話をされているのかわからないのだが。
「今、マウロペア帝国は3つの王国に分かれているけど、敵対しているわけじゃない。3つの王国というのは、マウル王国とライヌ王国とダーヌ王国だ。ハルマニア公国と西側で接しているのが、そのダーヌ王国で、ウラキアの南東にあるのが」
「待って待って。名前が頭に入ってこない。地図とかないの?」
「あー」
ジャッジは、ちらりと天井を見てから立ち上がった。
「おれの部屋にあるよ。地図を見ながら話そうか」
ジャッジは「きみたちも、ほどほどのところで帰ってよ」と言いのこし、店の奥に向かっていく。酔ってテーブルにへばりついている男たちが、ゆらゆらと手を上げた。
ラグーが立ち上がり、ジャッジに続いた。
俺もその後についていく。
「なに? ジャッジはここに住んでるの?」
「ここの2階だよ」酒場の奥の戸をあけながらジャッジが言った。「というか、ここはおれの家だよ。流れてきた夫婦に1階を貸してる」