5,愛とは、自分を犠牲にすること――
秋の海は、夏の賑わいを忘れたかのように静かだった。
寄せては返す波は、どこかためらうような足取りで、砂を濡らし、すぐに引いていく。
冷えた風が潮の香りを乗せ、肌を撫でるたびに、季節が変わったことを思い出させる。
日は傾きかけていた。
夕焼けの光が、波間をかすかに赤く染めている。
防波堤の上、彼はいつものように本を片手に、じっと海を見つめていた。
ページをめくる指先は、どこかゆっくりとしている。
「ねぇ、『美しい』とか『自由』とか、あんたはよく言うけど、じゃあ『愛』はどうなの?」
ふいに海歌が問いかけると、彼は静かにページを閉じた。
指で角をなぞりながら、一瞬考え込む。
「愛、か……」
彼は、ほんの少しだけ遠くを見つめるようにして、そして穏やかに口を開いた。
「愛というのは、自分自身の外側にあるものだと思う。
自分の内側だけじゃ、決して見つからないものだ」
潮風が吹いた。
ページの間に挟まれていた桜色のしおりがふわりと舞い、海歌の足元に落ちる。
「……どういうこと?」
彼は、海歌をじっと見つめた。
「手が届かない場所にあるからこそ、人は愛を追い求めるんだ。
簡単に手に入る愛なら、きっと誰もそれを『愛』とは呼ばない」
彼の声は淡々としていたが、どこか深く、静かな哀しみを含んでいた。
海歌はしおりを拾い、指で挟んだまま、考えるように波の方を見た。
「でも、それって悲しくない? いつまでも届かないものを追いかけているってことじゃない」
彼は、小さく微笑んだ。
「そうだね。でも僕は、届かないものを追い続ける人生も悪くないと思ってる」
海歌は、彼の横顔を見た。
彼の目の奥には、まるで手の届かない星を見ているような、そんな遠さがあった。
波の音が二人の沈黙を包む。
彼はゆっくりと立ち上がり、ポケットに手を入れながら、夕焼けに染まる水平線を見つめた。
「オスカー・ワイルドは言ったよ」
彼は静かに、しかしどこか確信めいた声で言った。
『愛とは、自分を犠牲にすることだ。しかし、それを完全に犠牲にしたとき、人は愛を知る』
「……どういう意味?」
海歌は、思わず問いかける。
彼は、ふっと笑った。
「人は、愛を持った瞬間に、それを失うことを恐れ始める。
けれど、本当に愛を理解した人間は、きっとそれすら超越するんじゃないかな」
「超越?」
「つまり……」
彼は本のページをそっと撫でる。
「自由と愛は似ているんだよ。どちらも、手に入れたと思った瞬間、逃げていくものだから」
「……じゃあ、あんたが探しているのは?」
彼は答えず、海風に揺れる本のページをそっと押さえた。
海歌は、彼の言葉を理解しきれないまま、ただじっと波を見つめていた。
彼の言葉はいつだって美しく、儚く、そして掴みどころがなかった。
それでも、だからこそ、その言葉は海歌の胸の奥深くに響き続けていた。