3,恋とは、始まる前が一番美しいもの――
春の海風は、冬よりも少しだけ温かかった。
けれど、潮の匂いは変わらない。
江の島を見渡す片瀬西浜。
波の音を聞きながら、海歌は砂の上に腰を下ろした。
「……春ですね」
隣に座る彼が、ふっと呟く。
潮風に乗って、どこからか桜の香りが漂ってきた。
「あたし、海で桜の匂いを感じたの、初めてかも」
「風が運んできたんだろうね」
彼は手元の文庫本を開いたまま、風に揺れるページを眺めていた。
風が吹くたび、勝手にページがめくられる。
それを見て、海歌は笑った。
「今日はあんまり読んでないね?」
「春だからね」
彼は、そう言って本を閉じる。
まるで、今は理屈じゃなく、感じるものだとでも言うように。
「ほら、いる?」
彼はポケットから、桜色の飴を取り出した。
「なんでそんなの持ってるの」
「春だから」
海歌は呆れながら、彼の手から飴を受け取る。
包み紙を剥がし、口に含むと、ほんのりとした甘さが広がった。
「……潮の匂いと混ざると、なんか不思議な味」
彼は笑った。
「じゃあ、春の海の味ってことで」
海歌は、口の中の飴を転がしながら、彼の横顔を見た。
「……なんか、機嫌いいね」
「そう?」
彼は軽く肩をすくめる。
「春って、何かが始まる季節だから」
「……何が始まるの?」
彼は、海歌の問いにすぐには答えなかった。
代わりに、ワイルドの本を指で軽く叩きながら、ぽつりと言った。
「ワイルドは、『恋とは、始まる前が一番美しいものだ』 って言ってたな」
海歌は眉を寄せる。
「なにそれ」
「まあ、そういうものってこと」
彼は、手を伸ばして、海歌の髪に何かを乗せた。
「?」
手を伸ばして触れると、それは桜の花びらだった。
「……どこに咲いてたの、これ?」
「さっき、歩いてたときに拾った」
「なんで、あたしに?」
彼は答えず、ただ桜の花びらが乗ったままの海歌をじっと見つめた。
(……何?)
彼の視線が、いつもより少しだけ長い気がする。
風が吹く。
桜の花びらが、海歌の髪から落ち、砂の上に舞った。
「……あ」
彼は、小さく笑った。
「ほら、やっぱり。言葉にしないと、風に流れてしまうんだ」
「……どういう意味?」
「春って、そういうものだよ」
海歌は、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
「……じゃあ、言葉にしないの?」
彼はまた笑って、空を見上げた。
「春だからね」
その言葉の意味を、海歌はうまく理解できなかった。
けれど、彼の言葉は桜の花びらのように、どこか儚く、けれど心に残るものだった。