2,人間は自由の中に生きていると思っているが――
それからの海歌は、片瀬西浜の海辺で、彼と過ごす時間が増えた。
冬の海は、静かだった。
冷たく澄んだ風が頬をかすめ、寄せる波の音がどこか遠く響く。
日が沈むと、江の島のシーキャンドルが淡く灯り、潮騒とともに揺れていた。
彼は防波堤に腰掛け、手元の文庫本を指でなぞっていた。
何気なくページをめくりながら、ふと口を開く。
「美しいものは儚いから美しいんだ」
その声は、波の音にかき消されそうなくらい静かだった。
海歌は、足元の砂を軽く蹴りながら、ちらりと彼の横顔を見た。
「……それ、前にも言ってたよね」
「何度でも言うさ」
彼はページから目を離し、穏やかに微笑んだ。
「美しいものは、儚いから美しいんだ」
その微笑みは、どこか確信めいていて、けれどほんの少し寂しげにも見えた。
海歌は、波打ち際へ視線を向ける。
「掴めないものだからこそ、愛おしいんだ」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと沁みていく。
(自由、か……)
彼が言う「美しいもの」は、自由のことだろうか。
それとも——
海歌は、足元に打ち寄せる波を見つめる。
押しては引く白い波が、砂に淡い模様を描き、すぐにまた消えていく。
「……海歌は、自由に憧れてるくせに、怖がってる」
彼が、ふいにそう言った。
心の奥に、波が立つ。
「……どういう意味?」
海歌は眉を寄せる。
彼は軽く肩をすくめ、本を閉じた。
「そのままの意味だよ」
「なに、それ」
「自由を欲しがるくせに、何かを手放すのを怖がってる。そう見える」
彼は、指先で本の角をなぞる。
「自由っていうのは、手のひらに収められるものじゃないんだ。持とうとすればするほど、指の間からこぼれていくものだよ」
彼の視線が、遠くへと向かう。
「ワイルドも言っていたよ。『人間は自由の中に生きていると思っているが、実はその自由に縛られているのだ』 って」
海歌は、わずかに目を瞬かせた。
「それって……つまり?」
「『自由』っていうのは、何かから逃げることじゃない。自由を得たと錯覚した瞬間、人はその自由に縛られる。だから、本当の自由は、もっと違う形をしているのかもしれない」
冬の風が吹き、彼の文庫本のページがふわりと揺れる。
彼はそれを、そっと指で押さえた。
「海歌は、どんな自由を求めてるんだろうね」
彼の問いかけに、海歌は答えなかった。
ただ、波の向こうを、じっと見つめていた。