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1,鳥は自分の喜びのために歌い――

海歌うみかは、夜の片瀬西浜の砂浜に立っていた。


潮風が優しく頬を撫で、静かな波音が耳元にささやきかける。

沖へと視線を向けると、左手に見えるシーキャンドルの灯はまるで遠い星のように、静かに瞬いていた。

月明かりの下、波が砂浜を静かに洗っては引いていく。


ポケットに手を入れると、指先がキーケースに触れた。

青い薔薇のエンブレムがついたキーケース。

それは、かつて大切だった人から渡されたものだった。


(……あいつ、今どこで何してるかな)


彼の顔を思い浮かべると、胸の奥が微かに疼いた。


―――


大学三年の夏。


海歌は片瀬西浜の波に乗っていた。

普段なら七里ヶ浜にいるのに、今日は何となくここで波に乗りたい気分だった。


陽の光を受けてきらめく水面、遠くには江の島のシルエットが霞む。

風は穏やかで、波は少しだけ不規則だったが、それでも彼女は軽やかに滑っていく。

赤いウェットスーツを身にまとい、リズムを取るように波を読み、テイクオフする。


ボードが水を切り、心地よい浮遊感が広がる。

この瞬間が、たまらなく好きだった。


(あたしは、波の上が一番自由だ)


そう思いながら、最後のライドを終え、浜辺へと戻る。

ボードを立て掛け、濡れた髪をざっとかき上げると、ふと視線の先に見慣れた人物がいた。


片瀬のビーチにしては、彼はどこか場違いに見えた。

本を片手に、砂浜に座り、静かに波を眺めている。


(……大学の奴じゃん)


何度かキャンパスですれ違ったことがある。

いつも本を読んでいて、誰かと群れることもない。

けれど、ただ孤独というわけではなく、どこか満ち足りた雰囲気を纏っていた。


そんな彼が、じっとこちらを見つめていた。


目が合うと、彼は微笑んだ。


「……波に乗っている君は、まるで鳥が歌うようだ」


海歌は一瞬、耳を疑った。


「は?」


彼は膝に置いていた本を閉じ、静かに立ち上がる。

彼はゆっくり立ち上がり、海辺の景色を眺めながら静かに続けた。


「オスカー・ワイルドの言葉なんだけどね。『鳥は自分の喜びのために歌い、花は自分の喜びのために咲く』——君を見ていたら、ふとその言葉が浮かんだんだ」


彼は再び海歌のほうへ視線を戻す。

その瞳には、微かに興味と、優しさがにじんでいた。


「誰かのためじゃなく、自分のために波に乗ってる君は、すごく自由で素敵だと思った」


言葉の意味をゆっくり理解するにつれて、海歌は頬が熱くなるのを感じた。


「……そんなふうに言われたのは初めてだよ」


正直に答えると、彼は柔らかく笑った。


「僕も、そんなふうに誰かを感じたのは初めてかも」


静かな波音が、胸の鼓動を隠してくれるようだった。


その日から、海歌は波に乗るたびに、彼の言葉を思い出すようになった。

海に向かう自分の心が、以前とは少しだけ変わっていることに気がついた。


(あたしは、本当に自分のために波に乗ってるのかな)


それとも、彼の言葉をもう一度聞きたいからだろうか。


次に彼をキャンパスで見かけたとき、海歌は自分から声をかけてみようと決めていた。


それは、はっきりとした「好き」という感情ではなかったかもしれない。

でも確かに——


(彼と話すのが、楽しみになっていた)


波に揺られながら、海歌は小さく微笑んだ。

それは、夏の終わりの、まだ名前も知らない想いの始まりだった。



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