公共交通機関法
気持ちよく寝ている俺の身体を誰かが揺すり声をかけて来た。
「お客さん、起きてください」
「うーん……、寝かせてくれよー……」
「お客さん! 終着駅ですよ起きてください」
「うるさいなー、寝かせてくれって言ってんだろ …… 」
「旦那さん、起きて、駅員さんが困っているから、早く起きて」
「うーん、クソが! 」
気持ちよく寝ているところを無理やり起こされ、私は目の前にいた制服の男に掴み掛かる。
だが掴みかかった相手は駅員では無く警察官であったため、私は腕を捻じり上げられ取り押さえられた。
腕を捻じり上げられ寝ていた電車の床に押さえつけられた私は、目を覚まし周りを見渡す。
ジタバタと藻掻きながら周りを見渡した私の目に映ったのは、私と私を電車の床に押さえつけている同僚の警官を見ながら駅員と話す警官の姿だった。
「どうします、このまま勾留しましょうか?」
「いえ、そこまでは、駅から出て頂ければ良いので。
それに、明後日からあの法律が執行されますからね」
「ああ、あれね」
2人の警官は私を哀れむような目で見ながら引きずり、駅の外に放り出した。
私は都内に本社のある中堅商社の係長だ。
結婚もせず仕事一筋に頑張り同期一番乗りで課長に昇進するのも目の前で、先月の終わり頃に部長から内示があった。
それだけに仕事は激務で新聞もテレビどころか私用でスマホを見る暇も殆ど無く、毎日毎日残業残業で帰りが終電という事も珍しく無い。
当然ストレスが溜まりまくる。
そのストレスを発散するために毎週週末は会社の帰りに深酒をして、その度に終着駅の駅員に迷惑をかけていた。
月曜日の朝、私は最寄りの駅まで徒歩10分の所にあるマンション15階の自宅を出て会社に向かう。
駅前の立ち食いそば屋で朝食の蕎麦をすすりながら何気に駅の入り口に目を向ける。
何故か駅の出入り口の直ぐ傍にパトカーが停車していて、駅の中からも何時も聞こえてくる喧騒の数倍の騒がしい怒鳴り声が響いて来ていた。
騒ぎに巻き込まれ出社するのが遅れるのを恐れ、半分程蕎麦が残っている丼をカウンターに置き駅に向かう。
駅では数人の男女が駅員や警察官ともみ合いながら何か怒鳴っていた。
それを横目で見ながら足早に改札口に向かう。
改札口は何時の間に工事を行ったのか透明なアクリルボードの壁が床から天井まであって、改札口を飛び越えるなどの不正が出来ない構造に変わっていた。
スマホを改札口にかざし駅構内に入ろうとしたのだが改札口の扉が開かず入れない。
戸惑いながら何度も改札口にスマホをかざす私を見て、他の改札口から駅構内に入って行く高校生や若い会社員たちにクスクスと笑われたり、侮蔑の目を向けられたりされている事に気が付く。
私はクスクスと笑ったり侮蔑の目を向けて来たりする奴らを睨みつけ駅員に中に入れない事を訴えた。
私の訴えを聞いて駅員はまたかという顔をする。
「清算してください」
「清算だって? 先週入金したばかりだぞ」
「あなた、ニュースを見ていないのですか?」
「それと何の関係があるのだ?」
駅員は呆れたという顔をしながらも説明してくれた。
「今日から、公共交通機関法が執行されたのです」
「なんだそれ?」
「え? それも知らないのですか?
まあいいや、それじゃ最初から説明しますね。
あなたも身に覚えがあると思いますが。
毎日毎日、駅構内や電車の中で犯罪行為や迷惑行為が発生しています。
それらの行為に、ご利用になるお客様や我が社は大変迷惑していました。
それだけで無く、これらの行為を繰り返す人たちを排除する事も出来ず会社や私たち職員は泣き寝入りするしかありませんでした。
しかし新しい此の法律が出来たお陰でそのような行為を行う方たちに対し、乗車拒否を行う事が出来る様になったのです。
今はまだ鉄道だけですが、そのうちバスやタクシーだけで無く旅客機や船舶にも広がると思いますよ」
「そ、その法律は何時まで乗車拒否されるのだ? 他の路線は使えるのか?」
「執行されたのは今日からですが。
犯罪を行った者は1回行っただけで未来永劫乗車拒否。
迷惑行為の場合は、1回目は注意、2回目は警告、3回目は1ヵ月の乗車拒否、4回目は1年の乗車拒否、5回目以降は1回に付き5年の乗車拒否になります。
ただ昨日までに行っていた行為に対しては犯罪行為は同じように未来永劫乗車拒否ですが、迷惑行為は行った行為や回数により1ヵ月から5年の乗車拒否になります。
清算されますと、スマホにそれらの情報が表示されます。
他の電鉄さんで行った行為も全て加算されますから、他の路線を利用しようとしても同じように拒否さ……」
私は駅員の言葉を最後まで聞かずに精算機の下に走りスマホをかざす。
スマホの画面には乗車拒否期間2年と表示されていた。
それを見て慌ててバス乗り場に走る。
駅前のバス乗り場とタクシー乗り場には長蛇の列が出来ていた。
タクシー乗り場の前に伸びる列の最後尾に並び順番を待つ、しかし他の駅でも同じ事が起きているのだろう空車のタクシーが殆ど来ない。
順番を待ちながら部長に出社が遅れる事を報告する。
「おはようございます。
申し訳ありません、電車に乗れず遅刻します」
ハアハア、ゼエゼエ、という荒い息遣いと共に返事が帰って来た。
「遅れる原因は公共交通機関法か? ハアハア」
「はい、申し訳ございません。
執行に今朝気が付いたものですから」
「それは遅刻の言い訳にはならないぞ皆んなそれに備えて出勤しているのだからな。
ハアハア、私は今日、女房のママチャリで出勤したよ。
歩いてでも出社するように、それから以前から話題になっていた法の執行も知らないのでは頼りにならない。
内示は無かった事にしてくれ」
電話は私の言い訳も聞かずに切れた。