88.切に希うそれは祈りにも似た
飛び込んだのは一種の賭けだった。
そのままヘイに助けを求めるのもひとつの手だったが、本当に助けてくれるのか、そもそもシルヴィアを共に引き上げてくれるのかなんてそれこそ賭けでしかない。
同じく賭けるのであれば、せめて他人に命を委ねるのはごめんだった。
崖下から僅かに聞こえる轟くような音。
それが川であること、そして真下に位置することにヴェルは賭け───そして、その賭けに勝ってみせた。
けれど、それは思った以上に激流で。
「く、……がほっ」
落下の衝撃は緩和したものの、嵐の後のような荒々しい流れが途端に2人を飲み込む。
ヴェルが行使した術は単なる防御の一種だ。衝撃をそこそこ緩和するだけで、迫り来る水を跳ね除ける力はない。
「くそ、が。ここまでやって……!」
しこたまに水を飲み、流れに翻弄されて薄れそうな意識の中、ヴェルらいまだに動かないシルヴィアを離さないように抱えながら水をかいた。
ここまで来て溺死ではもはやお笑い草だ。普段仏頂面のクロスタでも思わず笑ってしまうだろう。
…….いや、笑うどころか墓石をボコボコに殴り倒されるに違いない。兄を失った直後のように荒んでしまうかもしれない。
彼だけではなかった。ディクシアだって小言に余念がないだろうし、アステルは───アステルはああ見えて1番精神的に強いから心配なさそうだ。
そして、姉は。
「泣く、絶対」
泣いて墓石を殴ってその前でひたすら文句を言うフルコースをお見舞いしてくれるだろう。
それは、嫌だ。
ヴェルには、おとなしく死ねない理由がいくつもあった。
そして今、その理由にさらなるひとつが加えられている。
腕の中でぴくりともしない彼女を抱え直しながら、ヴェルが何度も必死に伸ばした片腕がようやく岩礁を掴んだ。
「げ、ほっ!!はぁっ……はぁ……っ」
咽混みながら身を乗り上げた岸は、岩肌が剥き出しの冷たい地面だった。所々に打ち上げられた小枝や草が見える。その奥には切り立った岩壁が聳え立っており、丁度ヴェル達の居る場所だけが、取り残されたように平らな大地になっていた。
「シル……!シルヴィア……ッ!」
引き上げた彼女を仰向きに横たえるが返事はない。頬を軽く叩くも反応はなく、健康的な色をしていた肌はいまや殆ど血の気を失って白くなっていた。
つられて笑いたくなるような笑みを見せていた唇も赤みがなくなり、笑顔なんてこれっぽっちも浮かばない
「シルヴィア、なぁ、起きろって」
後悔しない選択肢を選んだつもりだった。笑顔のまま同族だという男の首をねじ切ったヘイに、あのままおとなしくついて行くことだけは考えられなかったから。
けれど、瞼を持ち上げる気配のないシルヴィアを見ていると背筋にじわじわと悪寒が広がっていく。
意識の朦朧とする彼女と飛び込むなど、正気の沙汰ではなかったのかもしれない。このままもし目を覚まさないのであれば……そんな恐ろしい考えが脳裏を満たしていく。
恐ろしい、そう、恐ろしかった。
時間にすれば、数時間を共にしたくらいの赤の他人だ。それでも。
優しく向けられた朝焼け色にもう映してもらえないかもしれないということが。
周りの者まで明るくさせてしまう、笑顔がもう見られないかもしれないということが。
「ッ、絶対ぇ嫌だ」
失いたくないものをなくす怖さは、友人を見てほんの少し知っているつもりだった。
後悔する選択肢は取らないと決めた。そうであれば、せめて後悔しないための行動をしなければ。
養成所で学びはしたけれど、そうそう使う機会なんてないだろうと思っていた応急処置の知識を呼び起こした。
見様見真似の慣れない素人同然の手つきで、知識で覚えているだけの胸骨圧迫を繰り返す。何回押せばいいんだったか、こんなことならばもっとしっかり学んでおくべきだった。
「頼む、起きてくれって……」
色を失った口元に、自らのそれを近づける。
ヘイやシルヴィア本人に揶揄われていたことも、もはやどうだってよかった。自分のちっぽけな羞恥心なんて目の前のすべきことに比べればどうだって良い。
───触れた唇は温もりの残滓しか残っていない。
水で濡れそぼった冷たさが妙に生々しくて、目の前でヒトが肉塊へと変貌したときよりも"死"を感じさせた。
そんな考えを頭から振り払い、思い切り息を吹き込む。
ヴェルの呼気に押されて胸が僅かに上下するが、それだけだ。もう一度同じことをしても反応が変わることは全くない。
諦めずに再び胸を押す。
冷たいままの唇を重ねる。
半ば、祈りに近かった。
そうやって、何度同じことを繰り返したのか。
無反応で動かないシルヴィアを前に、ヴェルの心が折れそうなときだった。
「───げほっ!」
唇が離れた瞬間、シルヴィアの口からごぽり、と水の塊が吐き出された。
「ひゅ……っ、げほっ!がほっ!」
大きく息を吸おうとしてまだ気管に水滴でも残っていたのか、そのまま激しく咳き込む。酸素が足りないと赤く染まった顔が、確かに彼女の全身に血が巡っていることを伝えていた。
「シルヴィア!?」
慌てて抱き起こしたヴェルが背中をさすると、瞳を彷徨わせたシルヴィアが弱々しく頭をもたげた。
「ヴェ、ル?」
目頭が熱くなって、唇が震えて。
ぽろり、と零れた声が、自分の名前が。
胸を掻きむしりたくなるような苦しさを溢れさせて、ヴェルはシルヴィアの肩を抱きしめる。彼よりは華奢な体は、先ほどと違いほのかに暖かかった。
「あれ……ヴェル、血は……?」
「っ……バッカじゃねーの?先に自分の心配しろよな」
「わた、し?……ぁ、寒……」
激しい流れにもまれたのもあり、ヴェルの浴びた返り血はすでに殆どが流れてしまっている。正しく状況を把握するにはまだ頭が回っていなさそうなシルヴィアが、ぶるりと小さく身震いした。
上を見れば岩壁は遥か高くまで伸び、深い渓谷の底にいることが窺える。かなり流されたはずで、仮にアルヴィンが鏡像を倒した後に探しにきたとて容易には見つかるまい。吹き込んだ風は容赦なくすり抜けていくし、加えて激流から立ち上る飛沫は体温を奪っていく。
「あそこならマシか?」
少し離れた岩壁に、ヒトが余裕で入れそうな穴がぽっかり口を開けていた。
月明かりはこの深い渓谷の底にも差し込んでいるものの、穴の奥まで照らすほどの明るさはない。けれど、風に野晒しのままよりはそこへ身を寄せた方がマシである。
とりあえず、やるしかないのだ。さっきの今で、嫌というほどに身に沁みた。
まだぼんやりとしている彼女をそっと横抱きに抱え直して立ち上がる。
「かたじけ、ないっす」
「いいよ別に。───水に飛び込んだの、俺の判断だし」
後ろめたさで小さくなった声は、どうやらシルヴィアには届かなかったらしい。
途中、水辺から離れて転がっている小枝を横目で確認しながらヴェルは深々と溜息を吐いた。
「……俺、シリスみてぇに火を使うの得意なわけじゃねぇんだけどな」