81.悪意なき悪意
女は眠りについている我が子を抱えたまま、深々とため息をこぼす。不意に周囲へ向けられる瞳にはすやすやと安らかに眠る子どもたちと、自分のように戦えない大人が数人映っている。
「……族長たちは、いつ帰ってくるかしら」
「気が早いな。まだ陽が昇り始める時間でもないぞ」
男は喉をくつくつと鳴らしながら静かに笑う。そして、ふと思い出した。子どもらは皆、眠苺の果汁を飲んだのだ。大きな音を出さないように気を付けなくとも、暫く起きることなどないはずである。
「気になっただけ。だって、いつ帰られるとも言われなかったじゃない」
「……場合によっては人間と真正面から衝突するんだ。そう簡単に帰る予定なんて立てられないだろう?」
「人間に遅れをとるような私たちではないでしょう?」
その言葉には絶対の信頼が寄せられていた。
けれど思い直したかのように彼女は俯き、
我が子の頭をそっと撫でる。
「そうは言いつつ、好き勝手に子どもを連れ去られてみっともないとは思うけれど」
「言うな」
男は咽び泣き始めた女の肩を抱き寄せる。
女はずっと、目を離した隙に末子を失ったことを悔やんでいた。自分が目を離さなければ、すぐに異変に気付いていれば、今も愛しい我が子は側にいたのだろうかと悩まぬ日がないほどに。
「大丈夫だ、きっと族長たちが皆を連れ帰って下さる。我々はここでしっかりと残された子らの守りをしなければ」
「……ええ、ええ、分かっているわ」
無理矢理に自分を納得させようと頷く女を見て、男はさらに彼女を抱く腕に力を込めた。
水晶樹は硬く、砦としては心強いがその内部は結局はただのうろだ。歩けるほどに広いといえ、半ば隔絶された変わり映えない空間は精神を磨耗させる。
戦えない自分たちが出来ることはただ待つのみ。だが、その苦痛を共に分かち合うことはできる。だからこそ、里に残ったものは全てここで身を寄せ合っているのだ。
同じように慰め合う者の姿が見られるのも、そういうことだ。
「共に待とう。皆の帰りを」
女は片手で子を抱えたまま、答えるようにそっと男の腕へ手を添えた。
───それから更に時は過ぎる。
完全に外界と隔絶されていたのであれば時間感覚も狂うだろうが、幸い彼らが籠っているのは"水晶"樹だ。ハッキリと外の様子はわからずとも漏れ入る光の様子から大体の月の高さはわかる。
オーベロンたちが出立して2時間ほどは経っていた。
「おや、どうした……?」
入り口で守り番をしていた男が訝しげに足元へと目を向けた。
そこには起きてしまったのか、ひとりの子どもが目を擦りながら立ち尽くしている。
「寝苦しかったのか?」
いくら催眠効果があるとしても、興奮しきった神経にはなかなか効きにくい。どうやらその子どもは眠苺の効果が浅かったらしい。
「ほら、他の子どもと一緒にもう一度目を閉じるといい。まだ夜中だ、起きるには早過ぎるぞ」
守り番を見上げる子どもの眼はぼんやりと濁っており、誘導すればすぐにでも再び眠りに入ってしまいそうだ。
幼さゆえ、急な環境の変化になかなか追いつけないのかもしれない。
「仕方ないな、眠れるまで背中に乗ってみるか?」
苦笑しながら子どもに手を伸ばす。この様子なら少し揺らしてやればすぐに寝落ちるはずだ。
「さあ、こっちに───」
子どもが懐に飛び込んでくる。
その瞬間、守り番の太腿に強い衝撃が走った。
「……え……?」
最初、感じたのは強い違和感だった。
それから、じわじわと広がり始める灼熱感。
自らの意思と反して急激に震え出す身体に言いようのない恐ろしさを感じて、守り番の男はようやく違和感を感じるそこに目を向けた。
自分の股下くらいしかない小さな体。
柔らかなつむじ。上から見下ろす所為で顔は全く見えない。
その顔の前で握り込む小さな拳。
そして、拳の中には守り番が携えていた護身用のナイフ。
太腿から深々と生える銀の輝きを頭で認識した途端、とてつもない激痛が背筋を駆け巡って脳を突き刺した。
「ぎ、あああああァァァアアア!!!!」
立っていられずに膝が崩れ落ちる。筋肉が動くことで更に刺激が加わり、痙攣するように刺された足が跳ねた。
「どうした!?」
異変に気付いた同胞たちが騒然と守り続けるの元へ駆け寄ろうとする。しかし、
「あ……あなたたち!?やめっ、やめなさい!」
「こら、離すんだ!どうしたんだいきなり!?」
地面に頬を擦り付ける守り番の視界に、次々と子どもが起き始める様子が広がる。
彼らは起きたかと思えば近くの大人に飛び付き、その手足の動きを封じ込める。たかが子ども、さりとてこの場に残る大人よりも多い数が一斉に大人たちへと襲いかかっていた。
皆一様にどこかぼんやりした表情をしている。夢うつつ、夢遊病のようだと表してもおかしくないほど心ここに在らずといった瞳だ。
歯を食いしばり、痛みを頭の隅に追いやる。
争いらしい争いを経験したことのない守り番にとって、腕っぷしはともかく怪我の痛みは慣れないものだ。しかし、ここで動けないのは守り番としての名折れだった。
「ふー……っ、ふー……」
浅い呼吸を繰り返しながら自分のものではないような上体を持ち上げる。
目の前では彼を刺した子どもが、樹壁にかけられた鳴杖に手を伸ばしていた。
「待て……!待つんだ、それは……!」
痛みからの逃避で、思うように身体は動かない。
制止をかけ、それでも構わず鳴杖を手に取る子どもとの距離が遠い。
鳴杖が高く声を響かせた。
閉ざされた時と同じように、周囲が光に包まれる。
眩すぎて、何も見えない。
「色々考えた末の篭城だったのでしょうけど……無駄になったわね、可哀想に」
光に沈む世界に響いたのは、嘲るような、そんな声だった。