78.虫も好かない
「ぁは、ぁはあはひははは!あは!」
幾重にも重なる哄笑を響かせる口の中。鋭い顎を器用に避けて仕舞い込まれた口吻が、まるで舌のように蠢いては声に合わせて震えている。
「あははははひひっ、ひひひ、ははッ!!」
長い胴から生える手足はヒトのそれと似ているのに、関節はふしくれでギチギチと音を奏でる。誘うように広げられるそれに併せて、扇状の翅が羽ばたきを始めた。
蛾と蜈蚣を子どもの想像力でこねくり回したような姿が、ゆっくりと宙に浮かび始める
───ケモノどころか、蟲じゃねぇか。
便宜上、モヤ型から成長を遂げた鏡像は全てがケモノ型と呼称されることは十分理解しているものの、ヴェルは心の中で毒づく。
姉と違って、彼は虫がそこまで得意ではない。嫌悪感を催すようなそのフォルムが、ヒトよりも大きいとあれば尚更に気持ちが悪かった。
「うわ……うわぁぁあ……!」
呆然と立ち尽くしていた顔の見えない影が、叫泣を上げながら脇目も振らずに駆け出した。その際、何故か着ていたローブを躊躇いもなく脱ぎ捨てる。
「ッ追え!逃がしてはならぬ!」
「待って!」
シルヴィアが手を伸ばしてオーベロンを制する。
彼女らの目の前でローブがはためき───そして、その下に、隠されていただろう身体は忽然と姿を消していた。
「なん、だと……?」
「とにかく一旦下がってて欲しいっす。ああやってバラけちゃうと、いくら私たちでも守りきれない」
ようやく見つけた失踪事件の手がかりと思われる人物を、どうしても逃がしたくないのだろう。オーベロンは喉で唸って歯軋りする。だがシルヴィアの言葉に従うしかない事もまた、彼は理解しているはずだった。
いくら月光が明るいといえど、空を飛ぶ黒い体躯をしっかりと映し出すには足りない。それでも爛々と光る眼がこちらを捉えているのだけはハッキリと見て取れた。
即ち、吟味しているのだ。
今度はどの餌に食らいつこうか、と。
「エ、エルド……!」
そして"次"はあっさりと決まった。
呆然と呟いたのは、影を追っていたエルフの男だった。1人だけ離れた場所にへたり込むその視線は鏡像よりも、小さくなって散らばった肉片に注がれている。彼の親しい者だったのかもしれない。けれど、その悼みに配慮するほど鏡像が優しくはないことを、ヴェルはよく知っていた。
鏡像が嗤いながら男を狙って急降下した。
ヴェルは駆け出しながら左手を水平に振り抜く。知能があると聞いていたが、本能には逆らえないらしい。餌に集中していた鏡像は、翅を撃った水杭の衝撃に悲鳴を上げた。
詠唱が無くても使える、ヴェルの十八番の魔術のひとつだ。
ただし威力など微々たるもの。身体の柔いモヤ型ならまだしも、ケモノ型に通用するなんて思っていない。
その証拠に、翅には穴ひとつ開いていなかった。鏡像は傾いだものの、すぐに体勢を立て直して急降下を続ける。
───それでいい。
目的は撃退ではなく牽制だ。
一瞬の間があれば、それで良かった。
ヴェルが駆け出すよりも早く、横を駆け抜けていったシルヴィアが強く地を蹴った。
「アンタの相手は……ッ、こっちっすよ!!」
月光を跳ね返して光るガントレット。
束ねた三つ編みが翻る。
踊るような軽やかさから繰り出された右拳が、優に自らの身体と同じくらいに大きい顎を強かに打ち抜いた。
「ア"ッッ」
ぱらぱら、と折れた顎の先が砕けて散る。
さしもの鏡像も今度ばかりは大きくその身を仰け反らせた。
適度に筋肉は付いているように見えたが、剛腕ともいえないその腕からなんという一撃が放たれるのだろうか。
対峙したときに脇腹を殴られたのは記憶に新しいが、あのときは恐らくシルヴィアもヒト相手だと手加減をしていたのかもしれない。そうでなければヴェルの肋骨は今頃、見るも無惨な事になっていただろう。
薄寒い想像が湧いてきてヴェルは頭を振って余計な考えを掻き消した。
鏡像が、仰け反らせていた長い胴を大きく振り回しながら身を起こす。遠心力とともに伸ばされた口吻が鞭のようにしなり、地面を抉り、周囲の壁を抉って瓦礫を打ち上げる。木や土塊でそれなのだ、ヒトに当たればどうなるかは言葉にするまでもない。
こんな状況になっても取り乱すことなく、ルーティンの様に動く人間はアルヴィンがエルフたちの元へ誘導していた。素直に従う様子の彼らはさておき、家屋の中にもし誰かがいたとしても……今はその可能性がないことを祈るしかできない。
「ヘイ!」
「承知いたしました」
シルヴィアは鏡像を殴り付けた勢いのまま、身を翻して既に間合いの外へ離脱している。残るは動けないエルフの男だったが、攻撃が当たる直前、彼の姿は幻の様に掻き消えた。
「動かないで下さいね、軽いわけではないので」
にんまりと笑う口元から、冗談めいた声が漏れる。
軽くないと言いながら楽々と成人男性の体躯を小脇に抱えるヘイは、爪先でトン、トン、と軽いステップを踏みながら暴れ狂う口吻を簡単に躱していく。たった今立っていた地面が抉れるたびに、彼ではなく抱えられたエルフの方が引き攣った悲鳴を上げていた。
危なげない身のこなしはシルヴィアと同等か、もしくはそれ以上の貫禄を窺わせる。
サポーターを担える程ということは理解していたが、飄々とした態度を保ったままのヘイにヴェルは心の中でひとつ舌打ちを零した。
───口だけじゃなくて実際動けんのかよ。
いけ好かない態度のくせに、しっかりとした行動を起こせるとあっては少々反発心を覚えてしまう。それでも、今この状況で動ける者が多いというのは頼もしいことでもあったが。
いとも容易く鏡像の間合いから離れたヘイがしっかりと両の足を地につけた瞬間、ヴェルの目が捉えたのは頭上に打ち上げられていた瓦礫のひとつだった。
上だ。
そのたった一言が言葉にならない。
「大丈夫ですよ。お気になさらず」
けれども、余裕そうな表情は崩れることなく。
男を抱えたままだというのに、一切ハンデを感じさせない動きでヘイが身を捻る。長い脚が蛇の尾を思わせる動きでしなる。鈍い音が響いたと認識したときには、既に瓦礫は殺傷力のかけらもない破片まで粉々になった後だった。
「ね、大丈夫でしょう?」
それは抱える男か、声を上げようとしたヴェルか、はたまたエルフたちを安心させようとした言葉だったのかは分からないが、胡乱げな笑みを一層深くしたヘイは空いた手で肩にかかった破片を払い落としていた。
心配し損だったようだ。だがとにかく、これで懸念点は対峙する場所そのものだけとなった。すなわち、里の中という一点である。
口吻が暴れ回った後の家屋は壁が剥がれ、所々は打ち壊されている。倒壊は免れているようだが、それも時間の問題だ。
建物だけであれば捨て置いても良かっただろうが、中に人間が残っている可能性は否めない。今も鏡像を見て狼狽えることのない人間たちの様子を見ていると、中に人がいたとて倒壊する前に逃げてくれるだろうという望みは薄そうである。
いくらヴェルといえ、その場にあるかもしれない命を無視する薄情さは持ち合わせていない。他人を守ること自体に抵抗があるわけでもなければ、リンデンベルグの時のように天秤にかける家族もいない。
それならば。
───寝覚めが悪いのは避けたいよな。
ヴェルはアルヴィンに目を向ける。彼は誘導した矢先から日常生活へ戻ろうとする人間に苦心し、エルフに救援を求めている。
次にヘイ。彼はアルヴィンの元へ合流し、小脇に抱えていたエルフを他のエルフへと託していた。彼らは恐らく、すぐにこちらの対応をすることは出来ない。
最後にシルヴィア。
視線を感じてか、朝焼け色が投げかけられる。勿論、顔は未だ油断なく鏡像に向けられたままだ。
ここから細かな意思疎通は図れないが、ヴェルは身振りだけで家屋を示した。彼女ならば伝わるのではと根拠のない期待を抱きながら。
結果、それは正しく伝わったらしい。シルヴィアが一瞬だけ見開いた双眸を伏せ、小さく顎を引いたのだ。
ただの合図に過ぎない一動作だったが、それだけでヴェルは十分だった。