74. 荊の谷の姫
「どうっすか?ちょっとはマシになった?」
「……」
「うーん、まだダメそうっすね」
「原液で飲んでも効果が増す、なんて事はないみたいですね?」
頑張って飲み下していたのに、と笑うヘイ。
ヴェルがジト目で睨め付けるも彼は飄々と肩を竦めて表情を崩さない。2人のやりとりを目にしてシルヴィアも肩を揺らしたあと、不意に辺りを見回した。
「それにしても静かっすね。鏡像も出て来そうな気配ないし」
「知恵はあるようですから、警戒しているのかもしれませんね。いまこの場にいるエルフの皆さんも戦える方ばかりですから」
ビオタリアを出て半刻ほど。
彼らの一団は人間どころか鏡像の一体とも遭遇することなく進んでいた。
深夜を回るかという時刻を鑑みれば人間に会わないのはむしろ納得だが、鏡像については昼夜問わず活動する個体もいるため単に「夜だから」と結論づけるのは尚早といえる。
だが実際、こうも姿が見えないとなると近場にいない可能性を強く考えた方がいいのかもしれない。
緊張を保つには、思ってる以上のエネルギーが必要になるものだ。精神も徐々に磨耗するし、気疲れを起こしていてはいざというとき万全に動けないだろう。
聞いていた話ではそろそろ目的の場所へ着く時間だ。エルフたちは進むにつれてピリピリと警戒を強めているし、こんな様子では何か起きたとしても彼らが真っ先に気付くだろう。
言い訳のようにそう結論づけて、ヴェルは密かに肩の力を抜いた。そもそも不真面目な彼が何も起こらない中、ここまで大人しく緊張状態を保っていたことが稀なのだ。
警戒を解くと同時に、ふとシルヴィアの言ってたことが気に掛かった。
躊躇いながらもヴェルは彼女の手の甲辺りにトン、と指を当てる。
「どうかしたっすか?」
まるでそうするのが当たり前なのだと言わんばかりに差し出される手のひら。後方からヘイの「また仲間はずれですか?」という戯言が聞こえたが、ヴェルはひと睨みだけして無視した。何かとつけて"揶揄いたくてたまらない"という本音が透けて見えるようだ。
開かれた手のひらの上に指を滑らせる。
───さっきエリンに話した事って何?
「さっき……?……あぁ!その事っすか」
「後でって言ってたっすもんねぇ」と、手を打ったシルヴィアが笑う。ニコリ───と、いうよりはニンマリ、といった、悪戯を思い付いた子どものような顔。
なんだか妙に裏を感じてヴェルは半歩身を引いた。
「ふふん。ヴェルは荊の谷のお姫様って童話知ってる?」
全く聞いたことがない。そもそも、童話なんてあまり興味がない。
そういう話を弟妹に読み聞かせるのは専らシリスの役割だった。多少聞き覚えのある話はあるだろうが、タイトルだけを言われてストーリーを思い出せるほどの知識なんてヴェルにはなかった。
「まあ、もしかしたら私たちの世界特有の童話だったかもしれないっすけど。よくあるような話っす」
───昔々、刺されると眠りについてしまう魔法の荊が生えた国にお姫様がいました。
彼女はとても天真爛漫で、両親に咎められてもなお、荊の森へとよく遊びに出掛けていました。誰も足を踏み入れないので、森の花はとても美しいのです。
ある時、彼女は森の奥で美しい男に出会いました。彼は月からやってきた王子で、2人はたちまち友だちになりました。
王子は初めての友だちである姫に贈るため、崖に咲く美しい薔薇を手折ろうとしました。しかし、地上は月と違って上手く飛べません。
落ちる王子を助けようと、姫は丈夫な荊を握って彼の体を支えます。しかしたちまち荊の魔法が身体中に回り、眠ってしまった姫は王子とともに崖下へ落ちてしまったのです。
王子は姫を庇いながら、なんとか地面にぶつかる前に少し飛ぶことが出来ました。命拾いはしましたが、荊の魔法にかかってしまった姫が目を覚ますことはありません。
悲しみに暮れた王子は自分が姫を愛していることに気付いたのでした。彼は泣きながら姫に口付けをしたのです。
するとどうでしょう。
荊の魔法は全て解けてしまい、ゆっくりと姫が目を覚ましたではありませんか。
2人は手を取り合って喜び、魔法が解けて美しい薔薇が溢れるようになった国でずっと幸せに暮らしましたとさ───
「って、いう話なんすよ」
よくある話でしょ?とシルヴィアは小首を傾げる。
確かに似た話を聞いた覚えがあるのでよくある物語なのだろうが、それがどうしてそんなに楽しげなのかヴェルにはわからなかった。
いまいちピンとこない様子のヴェルに、シルヴィアが顔の前で人差し指を振る。
「わかってないなぁ……。小さい子には、ロマンに溢れたご褒美が必要って事っす!」
「あぁ、そういう事ですか」
ヘイも指を鳴らす。後ろで聞いていたようだ。そこまで言われても、ヴェルの頭にはまだ疑問符ばかりだ。
「つまり、エリンさんが大人しく寝てくださったので口付けで起こして差し上げては?と、いう事ですね?」
「そういう事っす」
「は?」
声は出ない。
声はまだ出ないが、漏れた空気だけでもヴェルの困惑は伝わったはずだ。
「ご褒美っすよ、あの子ヴェルのことすごく気に入ってたし……さっき離れるの嫌がったときも、それをダシにして合意を勝ち取ったんすよ。"ちゃんと眠ったら、王子さまが起こしてくれるかもね?"って言って」
どうやら彼女は単に明るく朗らかなだけでなく、それなりにずる賢いらしい。
「だから言ったでしょ?ヴェルには後でやってもらわなきゃダメなことがあるって」
確かにあの状況で小さな子どもを素直に宥めるのは難しいだろう。それは弟妹を持つヴェルには十分理解できる。
だからと言って当人の合意を得る前に話を進めてどうするのか、と文句を言いたいところである。声が出るのであれば。
「あれ……そんなに嫌だったっすか?オデコとかのつもりだったけど……」
げんなりした顔のヴェルに、困った顔でシルヴィアが問いかける。無論、ヴェルだって口にする気なんて毛頭ない。そもそも彼は歳上が好みなのであって、エリンのような幼い子どもに手を出すなんて考えたこともない。
そうではない、そういう話ではないのだ。
「所詮、唇を顔の何処かに触れさせるだけじゃないですか。貴方くらいの歳なら、今までにだって何回かくらいあったでしょうに」
「……………………」
「……え?」
初めてヘイの顔から笑みが消えた。
胡散臭い笑みがなくなったのは良いが、理由が理由のためどうも釈然としない。
「ヘイ、私たちの感性は蛇鱗人とは違うっすよ?そんな誰彼構わず、なんてことないからね?」
「それは理解していますが、スキンシップの一環であることも知っていますよ。そうですね……口付けすら"初めては番になる相手"と、決めているような方なら分からないでもないですが……」
「………………………」
「……本気ですか????」
ヴェルの反応で察したのだろう。次は笑みが消えるどころか、瞼が開いた。
うっすら開く目はやはり細いが、わずかな隙間から見えるのはまんまるとした金色の瞳だ。縦に長い瞳孔が開いているのまでよく見える。
「えっ……かわいい……」
至極当然の答えを返したつもりだったのだが、シルヴィアまでそんな反応だ。口元を手で押さえながらも上気した頬が隠せないでいる。
これでもヴェルはれっきとした成人男性だ。たとえ成人したのがつい最近でも、可愛いと言われたり希少種を見るような目で見られるのは甚だ居心地が悪い。
「居るんですねぇ……こんな純粋な方」
「どうしよう、もう全部可愛く見えてきたっす」
「確かに可愛らしいですねぇ」
彼女らのリアクションを見ていると居た堪れなくなってくる。
これ以上の言及はないが、延々向けられている生暖かい視線を振り解くように顔を背け───そこでヴェルははたと気付く。
「───……」
少し前を歩く男が、里を出てから一言も発さない。
おどおどしている様子でもなく、動きだって騒がしくない。ただ無言で、顎の肉を弄びながら考え込んでいるように見える。
「な、何かあった?」
視線に気付いたのか、アルヴィンはびくりと肩を跳ねさせてヴェルへと顔を向けた。
考え込んでいた様子だったのが気になっただけなのだが、とりあえずヴェルは彼と同じく顎に手を当てる姿勢を取ってみせる。首を傾げるジェスチャーに、アルヴィンは「あぁ」と頷いた。
「ちょっと気になってね。今から向かう人間の里は、本当に鏡像の被害に遭ってないのかなって」
歩いて1時間もない距離。鏡像に疲労の概念があるかは分からないが、決して襲われないとは言い切れない範囲だろう。ヴェルにも疑問だった。
そもそも鏡像は人間が使役できるようなモノではない。彼らはあくまで理の違う化け物なのだから。
「残念だけど、彼らの里は僕の担当外の区域でね。禍根のある場所なら、種族ごとに担当が別で付けられることも珍しくないんだ。下手にどちらかに肩入れしてると見做されて、トラブルになるのを避けるためにね。覚えておくと良いよ」
僕はエルフ区域の担当だからね、とアルヴィンは襟首をまさぐる。
肉が引っ張られて少し窮屈そうに見えるそこから、彼はペンダントを引っ張り出した。簡素なチェーンの先に付いているのは見覚えのある小さなリングだ。
「一応、要請を受けた時から向こうの担当にも確認をするように連絡を入れてもらってるんだ。鏡像が出たからあっちも見に行ってもらうようにってね」
彼はそういってエーテルリンクを再び襟元に仕舞い込んだ。微笑みかけるその顔は眉尻が下がり彼の自信のなさを表すようだが、そこにはヴェルを不安にさせないでおこうという配慮も窺える。
「若い子らしいから、もし向こうで鏡像に遭遇してた場合には僕に援助の要請が入るはずなんだけど……うん、まだ何の連絡もないね」
1対1での会話も詰まることなく、ようやく先任者として伊達ではないところが垣間見えた気がした。
「もしかしてまだ確認に行けてないのかもしれないし、その時は僕たちが対応しなきゃ駄目な時もあるからね。初めてで色々心配だろうけど、落ち着いてやれば大丈夫だよ」
肉厚の手が、優しくヴェルの肩を叩いた。
「灯りが見えるね。そろそろ到着みたいだ」