130.秀才は忘れた頃にやってくる
にいさん。
シルヴィアの口から零れた声は決して大きなものではなかったのに、その場の誰もが瞬時に口を噤むほどには妙に響いた。
千々になった肉からじわりと立ち上る僅かな酸臭と生臭さ。空気に混じり、意識せずとも嗅覚を侵すまでに濃くなったにおいに満たされる中、未だに目を回すアステル以外の視線が一ヶ所へ集まる。
すなわち、シルヴィアが震える声で呼びかけた男の元へと。
沈黙。誰も声を発しない。発することが出来ないでいるのだ。
古くなった水路に染みた水滴が集まり、重力に負けてぽちゃり、と水面を叩く音がする。聞こえるのはどこかから聞こえるそんな音と、微かに風が通り抜けるノイズのようなざらざらした音だけ。
既視感の正体に、ヴェルはようやく気付いた。むしろ今となっては気付かなかったことがおかしいとさえ思える。
ディクシアよりも色の淡い、栗色の髪。陽の光をそのまま映したような橙色の瞳。
ほんの僅か、濃淡の違いはあれどシルヴィアと男の持つ色は近い。向かい合う2人を横から見ていると、男女の違いはあれど顔立ちの雰囲気もどこか近いような感覚にも陥ってしまう。
無論ヴェルとシリスのような双子由来の似方ではない。けれど、血縁といわれると随分と納得できてしまうほどに、彼女たちは似通っていた。
躊躇いがちにシルヴィアが一歩、男に近付く。
「兄さんっすよね?私、ずっと探して……」
明るい笑みを絶やすことのなかった顔がくしゃりと歪む。シルヴィアの感情がここまで揺れ動いているのをヴェルが見るのは、2度目だ。
1度目はヘイに散々と煽られていたビオタリアでのこと。どちらも兄に関する話題であることだけは同じだ。それだけ彼女にとって兄を探すという目的は大きなものだったというのは想像に難くない。
───けれどそこで拭いきれない疑問が沸き上がる。
シルヴィアの言葉に偽りがなければ、彼女は天威種だ。話の中では彼女の兄もそうだという話だったのではないのだろうか。
では、目の前の男は?
姉は男を新しい移住者と言った。先入観から守護者だと思っていたのに、そうではなかったのだろうか。
シリスも戸惑いの表情で男を見上げている。
彼は眉根を寄せていた。それが不快なのか怪訝なのか、それとも答えに窮しているのか、その表情だけで読み取ることはできない。
「あのね、兄さん。私……」
やがてシルヴィアがもう一歩を踏み出したとき。
「気を付けろ!」
クロスタの鋭い声。険を含んだ言葉で、一瞬で空気が一変する。
気もそぞろで、らしくもなく動けないままのシルヴィアの肩を抱えてヴェルも身構える。
クロスタが何に警戒を示すのか、それは周囲を見回せばすぐに分かってしまった。
「まじかよ、クソッ」
思わず口を突いて出た悪態に呼応するように、ふるりと蠢く肉片の震えは波及していく。
ひとつひとつが命を持ったように身じろぎ、触れた肉片を取り込み、徐々に床を這いながら一ヶ所へと集まっていく様子を見せる。
まだ、再生しようとしているのは一目瞭然であった。
「アス……!ねえ、アステル!」
シリスが力の入らない声で叫ぶ。
蠢く欠片のいくつかが目指す先に、ふらふらと頭を押さえるアステルの姿。大した外傷はなかったはずだが吹き飛んだダメージは存外にあったらしい。そのうち戻るだろうと彼を放置していたことをヴェルは後悔した。
クロスタが弾丸を放つ。数個の肉片は弾け飛べど、完全に消えることないそれは再び床に落ちるとアステルに向かって這いずりだす。
アステルのいる場所が進行方向だといえばそれだけの話なのだが、どう見ても周りの肉片を取り込みながら再度大きくなろうとする様は嫌な予感しか与えてくれない。
ヴェルは咄嗟に魔術を放とうとした。だが、底だまり程度しか残っていない魔力は上手く練り上げる事が出来ない。
剣はヘイに折られてしまって、いま手元にはない。打てる手が、まったくといっていいほどなかった。
アステルに最も近い肉片が、彼の足に触れようとした。
「───"大地を侵す者は皆等しく影すら残すな"!灼熱の咆哮!」
突如燃え上がった業火は一気に周囲一帯を取り囲み、肌を刺す熱を上げながら激しくうねる。
肉片ひとつひとつが瞬く間に赤に呑まれる。タンパク質の焼ける形容しがたい焦げ臭さが辺りに広がった。
業火の熱は感じれど炎は肉片のみに纏わりつき、ヴェルたちにまで燃え広がることはない。この猛火をそれほどまでにコンロトールできる者なんて、ヴェルには一人しか思い当たらない。
まさにその心当たりが、朗々と声を張り上げた。
「焼き尽くせ!」
追い討ちをかけるかのように炎が勢いを増す。
熱さから逃れようとしているのか、のた打ち回る肉片が徐々に動きを緩慢にし……やがて、燃え尽き灰になると完全に動きを止めた。
最初に転がっていた腕も、粉々にして千々に散らばった欠片も、そのすべてが形も残らず灰になる。
そうしてようやく、炎は刹那の陽炎だけを残して消え去った。
「はあ……はあ……」
体力がないはずの彼が、どれほど走ってきたのだろう。
玉のような汗が陶器のような肌を滑り落ち、地面で弾ける。
覚束ない足取りでアステルの元へと歩み寄ったディクシアは、ふらつきながらもようやく焦点が合い始めたアステルの前で足を止めた。
「あれー……ディクぅ……??なんでオマエここにいんの?」
「君が…………君がここに来てるって知ってたからに決まってるだろう、この大馬鹿-----!!」
痛くもなさそうな拳骨がアステルの顎に直撃し、彼が再び目を回したのと同時。
ディクシアがやってきた方向から、続々と武装した守護者がホールへ足を踏み入れたのだった。