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境界線のモノクローム  作者: 常葉㮈枯
守護地・ガイア
121/135

119.ヒトであるがゆえ

「誰だい!」




 鋭い声が水路に響き、女が勢いよく振り返った。一拍遅れて男も振り返り、低く身を屈める。


「聞こえたよ、そこにいるんだろ」


 明らかに注意はシリスたちの方を向いていた。かなり声は潜めていたはずのなのだが、聞こえてしまったのであればしょうがない。

 シリスは隠れていた角からすぐに姿を現して両手を胸の前でひらひらと振った。敵意がないことの証明だ。


 しっかりと振り返った姿を眼前に捉えるとわかる。女の方は明らかに顔立ちが違っていた。言葉にするのであれば、獣のそれと同じだった。

 犬にも似た……何の種族かすぐに判断はできないが、獣人種であることは間違いない。それであれば、今のシリスたちの小さな会話を聞きとがめたのも納得だった。


「あ、おまえ……!」

「知り合いか?」

「……その子に盗られた財布の持ち主です」


 隠す必要もないので素直にそう答えれば、男と女の視線がバッ、と少年を向いた。

 瞬時に身を竦ませた少年は小さな悲鳴を上げて一歩後ずさる。


「あんた、全然撒けてないじゃないか」

「だ、だってあんなヒトの多い所、見えなくなったらもう大丈夫って思うじゃん……」


 びくびくしながらもまだ言い返す気力がある少年の言葉に、男が盛大な溜息を吐いた。


「……あんた、そんな綺麗な身なりしてよく追いかけてきたな。こんな汚ったねえ場所なのに」

「その財布、大事なものなので」

「そうかい、そいつは悪いことをしたな……ほら」


 男が少年の手から財布を奪う。

 あ、と抗議する声が聞こえたが、それを意に介さぬまま男はシリスに財布を投げて寄越した。雑な扱いだが、出方を窺っているのは相手も同じらしい。

 適切なコントロールで手元に戻ってきた財布を受け止め、それが間違いなくレティシアから貰ったものだと認識してようやく、シリスも安堵のため息を吐いた。


「良かった……」

「安心したなら早く引き返してくれないか?ここはあんたみたいなお嬢さんが来るとこじゃないだろう」


 突き放すような男の言葉。

 それに答えたのは、


「ずいぶんな言い草じゃないか?」


 カインがシリスより半歩前に歩み出る。

 薄いジャケットのポケットに手を突っ込み力を入れていない風体は同じく敵意のない姿の様だが、その声音は冷たい。


「ヒトの物を勝手に盗って行って、バレたら投げ返してそれでおしまいのつもり?さっき、レイヴンって女が舐め腐ってって言ってたけど───それは君たちも一緒だろ」


 後ろになったシリスから彼の顔は見えないが、彼と向かい合う男と女の顔が一瞬にして強張るのを見るに、またあの顔で笑ってでもいるのだろうか。


「……まさか、あんたら」

「話の中でレイヴンってのはどうなったんだった?ああ、帰ってこなかったんだったっけ?」


 松明の赤みを帯びた光が煌めいた。

 否、閃く()()に照り返されたのだ。


 先ほどまでポケットに突っ込まれていたカインの左手が、いつの間にか外に出ている。

 手持無沙汰に指が遊んでいたかと思えば、次の瞬間、彼の手に鈍色の刃が携えられていた。やや反り返った片刃は折れてしまいそうなほど薄く見えるのに、ゆらりと空気を裂く様は、重い。


 明らかに自分たちを捉える刃先に、少年が見る間に怯え始めた。


「ま……待て、悪かったと思ってる。こいつも、普段からスリなんてしてるわけじゃないんだ」

「その口ぶりなら、何回かはしてるってことだろ」

「聞いてたならわかるだろ!これ以上がないように、今言い含めてるとこだから……!」

「何事も、芽は小さいうちに摘んでおくべきだと思わないか?」


 1歩、カインが踏み出す。

 男の言葉も女の言葉も、彼の歩みを止めるには至らない。


「ちょっとカイン、待って」

「君はそれでいいの?仮に追いつけてなかったら、それ、戻ってこなかったわけだけど」


 振り返ることもせずにカインが言う。

 それ、と言葉だけで示され、シリスは両手で戻ってきた財布を大事に抱え込んだ。


 言うとおり、まったく、カインの言う通りではある。それこそ途中で水路沿いに彼が目星をつけていなければ、シリスだけであったのであれば、少年に追いつくことなどできずに財布は失われたままだっただろう。

 大事なものだ。この世にふたつとない大事なもの。


 カインがさらに1歩を踏み出した。

 男も女も、後ろでとうとう腰を抜かして座り込んだ少年も、それ以上下がる事が出来ないでいる。


「わざわざここや貧民窟(スラム)をひっくり返してまで、ちっぽけな罪を追うことはしないだろうさ。けど、もしその罪人が目の前にいたらどうだと思う?」

「ご、ごめんなさい。もうヒトに迷惑かけることしないから……」

「少しばかり謝るのが遅かったね。彼女が盗みに気付いたときに素直に返せばよかったのに」


 刃と共に手がゆっくりと振り上げられる。

 息をする事も忘れ、3対の瞳だけがその光を追って上を向く。


 ぴたり、と止まった鈍色は、灯る炎を映して色を変える。まるで、彼の瞳の黄昏みたいに。


「残念だ」


 薄刃は、空気の裂く音すら上げなかった。





「待ってってば」




 閃きは、橙色(とうしょく)の軌跡を描いて動きを止めた。


「……さすがに危ないんじゃない?」

「待ってっていったじゃん、聞いてくれなかったのはどこの誰さ」

「そうじゃなくてさ……攻撃の軌道に身を乗り出すなんて、正気じゃない」

「目測見誤ったのは認める。ごめん」

「だからそうじゃなくて」


 シリスの返答が釈然としなかったのだろう。珍しく飄々とした様子を消してカインが首の後ろを掻く。その手にはもう、刃はなかった。

 声にも険は含まれていない。


 石のように固まっていた大人2人は、カインが自らの横を通り過ぎたのだとようやく理解して膝から崩れ落ちる。そして少年は───シリスの腕の中でまだ生きている実感を噛み締めたのか、みるみる震えだした。


「今回は意地悪じゃ済まないからね、これ」

「気付いてたんだ、俺が本気で斬ろうとしてないこと」

「なんとなく。確証ないから、あたしが庇ったわけで」


 少年の背を擦りながら、シリスはカインを見る。向き合った顔は恐ろしい形相でもなく、含みのある笑顔でもなく、困ったように微笑んでいた。


「たかだか子どものスリ程度で、命まで取ろうとするほうが正気じゃないし」

「それは否定しないよ。小さいうちに芽を摘んだほうがいいってのは本気だけど……まあ、二度と同じことしようと思わない程度にはビビらせなきゃ意味ないからね」


 そのビビらせの度が過ぎるのだと、言外に睨めつければカインは溜息混じりに右手を伸ばす。

 指がなぞった部分が、ぴり、と痒みにも似た痛みを訴える。頬が浅く切れてしまっているのだと理解し、シリスも同じく溜息を吐いた。


 似たようなことが前もあった気がする。そのときは単純に話を聞いてもらいたいがために殴られたのだが、怪我をした理由を考えておかないとまた誰それに苦言を呈されるに違いない。


「よく飛び出してきたね?俺、振り下ろす時は結構本気でやったんだけど」

「なんだろ……カインなら、ギリギリでもちゃんと止めてくれるかなって」


 それはシリスにも不思議だった。

 本気で少年を斬ろうとしていない感じはしていた。ただ、確証はなかった。

 それでも敢えて少年を抱えて後ろに飛びのくのではなく、真正面からカインの刃に向かったのは……彼が自分を傷付けることはないだろうと、心のどこかでそんなことを考えてしまったからだ。


「……まさかそのまま止まると思わなかったから、少ししくじったよ。ごめんね」

「いいよ、このくらいならすぐ治るし。それより、謝るのはあたしじゃないっしょ?」


 怪我をしたのはシリスの目測が見誤った所為でもあるので、これ以上詰めるつもりもなかった。更に言うのであれば、しくじったのはシリスも同じだったのでほんの少し恥ずかしかったのだ。

 だから話の矛先を少年たちに向ければ、カインはああ、と頷いて彼らに笑みを向けた。


「悪かったね。適度に怖がらせるつもりだったけど、やりすぎたらしい」

「こわ、がらせ……」

「彼女の言うように。まさかこの程度で命まで取ってたらキリがないだろ?だけど、今後の身の振りは考えたほうがいい───そこの坊やも」

「あっ……ヒッ……」


 細められた双眸が自分へ向けられたことに少年は怯え、シリスに縋るようにしがみついた。

 二度と同じような気を起こさせないという目的は、おそらく十二分に果たしているだろう。むしろ、やりすぎといっていいのかもしれない。


 暫く震える子どもを宥めつつ、男と女にも大丈夫だ申し訳ないと声をかけ続ける。

 本当にもう何もないのだと実感がわいてきたのか、少年の震えが治まる頃には2人も崩れた膝を何とか叱咤して再び立ち上がれるまでになっていた。





「───本当に、悪かったよ。悪いことはするもんじゃないな」

「ごめんなさい……」


 男が肩を落として首を振ると、少年も気落ちした様子で頭を下げた。

 ようやくまともな話が出来る様子で、シリスは先ほどから抱えていた疑問を率直にぶつける。


「普段してないのに、なんでわざわざスリなんて?」

「……ネズミが、出るんだ」


 少年はすでに立ち上がれるまでになり、女の元へよろよろと歩み寄るとその足元にしがみつく。やはり、そちらのほうが落ち着くようだ。


「おいら、本当はこの奥にある光る苔とか、流れ着いてるがらくたとか、とにかくいろんなものを集めて売ってたんだ。特に光る苔はなんかの材料になるからって、暮らしに困らないくらいは売れてたんだ」

「ネズミ……って、苔を食べちゃうってこと?」

「ううん、食べるのはヒト。あいつら、今までこそこそ隠れるだけだったのに急に襲い掛かってくるようになって」


 口を開くたびに、少年の顔は少しずつ青ざめていく。


「あ、あ、あいつら、急に大きくなったなって思ったら、一緒に苔集めてた爺ちゃんに飛び掛かって……!」

「───大丈夫、いいよ、無理しないで」


 唇を戦慄かせ始めた少年は、しがみついた女の足に顔を埋めて押し殺した鳴き声を上げる。思い出すだけで恐ろしいのだろう、治まったはずの震えがぶり返していた。

 もはや喋れなくなった少年を見下ろし、女が俯きながらぽつり、ぽつりと言葉を続ける。


「悪いね。こいつ、自分の爺ちゃんのように慕ってた奴を目の前で食われちまって」

「急に、ってことは今までは襲い掛かってきたりしなかったってことですか?」

「ああ、数が増えすぎて駆除するときはそりゃ立ち向かってくることもあったが───所詮ネズミさ。そう恐ろしいもんでもなかった。でも今はこいつの言ったとおり、向こうから襲い掛かってくるようになったんだ。しかも、デカくなってなかなか死なない」


 女は袖を捲くって獣毛に覆われた二の腕を惜しげもなく晒す。


「それ、ネズミが……?」

「そうさ。こいつを連れて逃げるときに噛まれちまってね」


 そこには毛では隠し切れない大きな傷痕があった。ネズミに噛まれたといえばあの2つの前歯が思い当たるが、女の腕に残された傷はシリスの手のひらほどの大きさがある。そうなれば、ネズミの頭はヒトのそれと変わらないほどの大きさということだろうか。

 女はすぐに袖を戻そうとしたが、まだ痛むようで僅かに顔を顰めていた。男が彼女を手伝いながら続きを引き継ぐ。


「爺さんだけじゃない。ここにあるものを採って生活してた何人かは、同じように食われちまった。駆除するにも数が多い。商売あがったりだ」

「執行部に報告は?さすがにそんな化け物じみたのが地下にいるなら、動くと思うけど」

「したさ。だが、今はさしあたって別の問題があるとかで、後回しだ。まあ地上に出始めたら慌てて対応するのかもしれんが、今はまだここだけで収まってる話だからな」


 カインの疑問は、男の投げやりな返答で解消された。


 シリスはカインに目を向けた。カインも同じようにシリスへ視線を寄越し、微かに頷く。

 別の問題とは十中八九、レベリオンと黒い物質のことに違いない。


 不可抗力も含まれるといえ、自分の持ち帰った問題が彼らの問題を後回しにする一端を担ってると知り、居た堪れない気持ちになる。


「カイン……」

「言いたいことは何となく分かるけど、やめた方がいい。君がお人好しなのは十分理解できたけど、何にでも首突っ込むつもり?」


 言葉にする前ににべもなく切り捨てられる。


「ついてきてとかじゃなくて……」

「流石に今回は止めるけど。そもそも、近付かなければなんとかなる話なら、執行部の対応を待っててもいいだろ?」

「そう、だけど」


 もっともだ。至極当然の意見であると納得できる。


 だが少年は見つけたとき「どうやって日銭を稼げばいいんだ」と嘆いていた。罪を働くべきではないと男たちも言っていた。

 それならば、執行部が問題に着手するまで、彼らはどうすれば良いのだろう?



「それを考えるのは君じゃない。そこにまで踏み込む義理があるかい?」


 見透かしたかのようにカインが釘を刺してくる。

 


 義理などない。さっき会ったばかりの相手で、ましてや自分の財布を盗んだ相手だ。

 けれど数分。

 たった数分とはいえ関わってしまったのだ。

 言葉を交わし、多少なりともヒトとなりを知ってしまった。




『アナタも本っ当にウザいわ!ヒトに対していい顔ばっかり見せて、正義の味方気取り!?自己満足よ、自己満足!押し付けがましいのよ!』


 レッセの忌々しいと言わんばかりの視線が脳裏を過ぎる。


 しかし同時に、マリアの眩しげに細められた瞳も浮かんでは消えた。


『あなたが現地の金鷲人(ハーピィ)を救いたかったという気持ちを完膚なきまでに否定しては、我々がヒトであることを否定しているようではありませんか』

『あなたの心を大事になさい』



 顔を、上げる。


 そうだ。

 自分はヒトだ。だからこそこんな他人といっていいような相手でも、力になりたいと思ってしまうのだ。

 少しでも関われば、言葉を交わせば、心は微かにでも触れる。触れた心は相手の心に感化されて動き、自らの感情を奮い起こす。





「義理なんか、ないよ」



 だから、それを否定したくは、ない。




「でもあたしが手伝いたいって思ったの。ヒトの感情なんて、理屈じゃないっしょ?」


 呆れたような夕焼けの色を力強く見つめ返す。

 偉そうなことは言えない。だから、シリスは笑って見せるしかないのだ。



 どうせ決めたなら突き進むだけの、自分の性格くらい理解している。




「……君って、本当……」



 見つめ返す瞳が、呆れ以外の色を放った。












「──────」



 何か、カインが続く言葉を発する直前に甲高い音が遠くから木霊した。



 幻聴ではない。シリス以外にも聞こえたらしく、特に耳のいい女には明確にそれが何か聞き取れたようだった。


「……子どもの声……?」


 単に声というには、切羽詰まったように聞こえていた。

 誰もが話すのを止めて静寂が満ちる中、再びそれは闇を劈いて耳に届いた。





「……セロ?」




 聞き間違いかと耳を疑う。

 けれど聞き覚えのある声は悲鳴となって、続く水路の奥から確固として響いていた。



 弟の、声だ。



 男が途端にじり、と足元を擦って焦りを見せ始める。


「おい、あっちはネズミどもの縄張りがある方───」

「セロ……ッ!」


挿絵(By みてみん)



 その言葉を理解するや否や、シリスは男の言葉を最後まで待たずに駆け出した。




 後ろから誰かの声が聞こえても、足を止める気は、さらさらなかった。

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