116.昼日中の逃走劇
「ここが準居住区。商業区よりは少ないけど、ここにもちょっとだけお店があるかな」
「ホリィジードより広いね。さすが主要都市」
準居住区が商業区よりも目ぼしい案内箇所がないかといえば、そんなことはない。
アステルみたいに個人趣味でやっているような、こじんまりとした店とは呼べない場所がいくつかある。それは雑貨屋であったり、道楽で品を揃えているような素材屋であったり。ヒトの往来もそこそこだが、シリスは賑々しい商業区よりもこちらのほうが好きだった。
カインの言うようにジェネシティはガイアにおける主要都市だ。当然、人口も多ければ混血や他種族の数も多い。比例して準居住区の規模も大きくなる。
ホリィジードがどの程度の大きさなのかわからないが、最果ての都市と呼ばれるそこがジェネシティよりも確実に小さい準居住区しか持たないのは確かだ。
広い水路が晴れた空を映して光を瞬かせる。
澄んだ流れは青々とした色を照り返して静かに流れていた。
「ここの水路の隣が、このエリアの大通り」
その脇に沿って伸びる通りを歩きながら、シリスは思い付く箇所を順々に指差す。
「この通りをまっすぐ行けば、ちょっと変わった魔導具を集めた店があって……。あ、でも行く時は気を付けたほうがいいかも。扱いに気を付けなきゃダメなものとかも雑に置いてるから、たまに暴発するの」
「暴発……」
「こないだは制御システムがしっかりしてない時代の古い加温機だったかが暴れたらしくて、周りがサウナ状態になったんだよね」
しかも、残暑が厳しい日だったので更に地獄だった。アステルの家に向かうにはその店の前を通るほうが早いのだが、かなり大回りをしたくらいだ。
そんな取り留めもない話と紹介を加えつつ、シリスはカインをちらりと盗み見る。
相変わらず、端正な顔は僅かに微笑みを湛えて面白そうに街並みを眺めている。
再会した日に向けられたような含みのあるものはあの後見てはいない。
おかげで、ここ数日は緊張することもなくごく普通の案内が出来ていると思う。あのとき感じた息苦しさが忘れられなくて暫くは警戒していたのだが、もう慣れたものだった。むしろ、昔馴染みのように話しやすい気さえする。
「あっちの方の道は一般居住区に直接つながるゲートがあるんだけど、制限されてるから今は出入りも出来ないかな。ヒトが多いときは閉められてるの」
「混血とかが紛れ込まないように?」
「そう聞いてる。魔力認証装置があるんだけど、やっぱり人口も多いから念の為だって」
「そうだろうね、一般の方には鏡もあるから鏡像対策としては当然か」
ディクシアから聞きかじったことを、そっくりそのまま伝える。
シリスとしては血の濃さや種で分ける意味合いをあまり良く思えはしないのだが、カインの言うとおり鏡像に対する策としてはごく自然の成り行きであることも理解できる。負の感情さえ映さなければ、鏡は鏡像の使う経路として成立しないのだから。
「これだけ守護者がいれば、経路があったってどうにかなると思うんだけどな」
「へぇ」
「あっ……!べ、別にその方法に文句があるとかじゃないからね!?」
楽しそうな声に、慌ててシリスは弁明を入れる。
都市の決まりごとは執行部が最終的に決定を下して今に至るものだ。殆ど無意味な疑惑だったといえ、あまり上から睨まれるような言動は避けたい。カインは執行部から招致されたと言っていたので、彼の前でもあまり迂闊な言動をするべきではないだろう。
焦り始めるシリスを前に、カインは愉快そうに目を細めた。
「そんな怯えなくても。俺ってそんなに怖い?」
「どの口がそれを聞くワケ?」
「だから、こないだの事については謝っただろ?」
明らかに面白がっている様子は一切悪びれなく、振り回される自分がバカらしくなってくる。
どうせこれ以上突いても、言いくるめられるのは目に見えていた。口での応酬は弟の専売特許なのだ。
「楽しんでるっしょ。性格悪いって言われたりしない?」
「君が自分のことをコンテンツって言ったんだろ?俺はそれに乗り掛からせてもらっただけだよ」
ああ言えばこう言う。
鼻を鳴らして案内を再開すれば、遅れて後をついてくる微かな笑い声が耳朶を打った。
昼時につれてヒトの往来は多くなる。
外食や外出のために出歩く者で、朝早くからのように道を悠々とは行きにくい。元より住宅街であるゆえ道自体は商業区ほど広くない。
前から来る相手を避けながら、次は何処へ連れていくべきだろうか先に早めの昼食にすべきだろうか……ぼんやり考えていたシリスだったが、不意の感覚に急いで後方を振り返る。
「シリス」
「わかってる」
同じく気付いたらしいカインに短く答え、踵を返して走り始める。
目指すのは、今すれ違った少年だ。
「げっ……」
警戒していたのか即座に追跡に気付いた少年は、振り返って顔を歪めた。その手には見慣れた白い財布───シリスのものだ。
落とし物を拾ったなどということはない。その証拠に、彼は走り始めたシリスを見て明らかに逃げた。
スリだ。
「ねぇ、ちょっとソレ……!」
焦茶色の短髪が嘲るように跳ねては通行人の影に隠れて現れる。
ヒトの間をものともせず縫って遠ざかる小さなシルエットとは違い、一般的な成人女性の体躯のシリスは不利だった。他人を押し除けるわけにもいかず、どうしても動きが制限される。
「待ってってば!」
叫ぶ声も虚しく距離は開く一方で、見失わないだけで精一杯だった。
スられた瞬間に分かったからすぐに捕まえられるだろうとタカを括っていたのだが、ここに来て若干の焦りが生まれる。
「結構入れてたの?」
「そんなには。でも……」
後ろから離れずついて来ていたカインの問いに、シリスは首を横に振った。
スリに遭うことと初めてだが、金を盗られたことよりも財布自体を奪われたことがシリスにとっては大きな衝撃だった。
「あの財布、妹から貰ったやつで……」
成人祝いにと、気紛れでレティシアがくれた物だ。だからこそ悔しくて、これだけ追い付けそうになくても諦めたくなかった。
金はまた任務を頑張ればいい。
財布だってまた買えばいい。
けれど、妹が祝いの気持ちを込めて贈ってくれたあの財布は世界にただ一つだけだ。
「そう」
シリスの返答を聞いたカインがそう短く呟く。
次の瞬間、身体がつんのめる勢いでぐい、と手を引かれた。
「こっち」
ヒトの波を外れ、傍に伸びる小道へ。
そこからまた傍に続く路地へ。
枝分かれする度に細く、ヒトの姿が減る道は大通りよりも随分と走りやすく、景色はどんどんと後ろへと流れていく。
明らかに移動のスピードは上がるが、当然の懸念にシリスは狼狽えた。
「カイン!?道分からないって言ってなかった!?」
「分からないよ。大体で走ってる」
「大体って……!」
言っている間にもカインは再び路地を曲がった。迷いがあるようには見えない。
シリスから彼の顔は見えないが、時折上を見て建物の隙間を窺っているようだった。
「ああいうのは、逃げ込むところが大方決まってるんだ。北は一般居住区が近いだろ、1番治安を維持したい場所の周囲は基本的に避けたいはずさ。と、なると可能性が高いのは逆方向」
もう一度、路地を曲がる。
大回りする形で再び水路沿いの道に合流した。どうやら先ほどまでは方角などを確認していたらしい。
「あの素早さだ。俺たちを撒くためなら、路地のに入り込んだ方が得さ。それでもわざわざ往来を掻き分けて大通りを進んだってことは、水路沿いに出る必要があったのかもしれない」
「う……うん?」
「簡単に言えば南側の水路周辺、そこから逃げ込めるような人目に付かない場所を探せばいい。つまりは───」
シリスの手を引いて走っていたカインがぴたりと止まった。勢いを殺し損ねて彼の背にぶつかるが、カインは微動だにしない。
「こういうところ、とか」
ぶつかった衝撃で痛む鼻を押さえながら、シリスはカインの影から顔を出した。
深い溝だ。
元は分岐した水路の一部だったのか、堰き止められた隙間から漏れ出した水が僅かばかりに流れている。
その先、本来であれば水が流れ込むのであろう、大きな排水溝の入り口の柵は見るも無惨に朽ちている。
「ほら、ね」
「あ……!」
暗く地下へ向かう水路の残骸、焦茶色の短髪がまるで溶けるように闇へ消えていくのが見えた。
間違いなく、先ほど追いかけていた少年の後ろ姿だ。
「どうする?あまり進んで追いかけたい場所じゃないとは思うけど」
答えを求めるカインの声は楽しそうだ。
シリスが盗られた物を大切に思っていることは伝えたはずなのにその反応。慣れてきたとはいえ癪に障るのは確かで。
「勿論、行く」
折角逃げ込んだ場所までわかったのだ。ここで追わなければ絶対に自分が後悔することは分かっていた。
勢いよく溝の底を叩く靴の下で、細かな飛沫が舞った。
陽に照らされる煌めきはぬめる苔と薄汚れた地面で泥と化し、水路に流れているときのように綺麗なものではない。
足元を数度踏みしめて進めることを確認してから、シリスはカインを見上げた。
「案内、ここまででいい?」
「まさか。俺も行くけど」
言うが早いか、彼は躊躇いなくシリスと同じ溝底へ飛び下りた。
また、泥が跳ねる。
「……汚れると思うけど」
「言うのが数秒遅かったね」
「何あるかわかんないけど」
「それは君も同じだし───ほら、コンテンツとして楽しませてくれるって言ってたろ?」
「楽しませるとは言ってないけど」
やはり、ああ言えばこう返ってくる。
言うだけ無駄だ。けれどここまでの道を見つけたのは彼で、シリスよりはその場に応じた対応に慣れている様子だった。ある意味で頼もしくもある。
「言っとくけど、あたしも来た事ないトコだし案内なんてできないからね」
巻き込むつもりもない。止めておくなら今のうちだ、と最後の機会だとばかりに言ってみる。
シリスの言葉に、カインは黄昏を細めて笑った。
「望むとこだよ」