110. 些細な違いが大きな隔たりになる前に
散々彼女のことを問い尽くした所為か、昨日今日とヴェルはシリスのことを起こしてくれなかった。
起きた時には既に日は高く、弟が起こしに来てくれなければ昼まで惰眠を貪っていたに違いない。休みなので特に早起きする必要もないのだが、ちょっと揶揄いすぎたのかもしれないと少しだけ反省だ。
食堂には既に家族の姿はなく、カップに注がれた緑の泥のような液体の横には1人分だけ取り分けされたサンドイッチが残っている。起こしてはくれなかったが、流石に母の冒涜ジュースだけでは哀れと思ったのかもしれない。
「セロ、養成所は?」
「昼から!」
弟の元気良い返答を聞きながら、シリスは泥のような液体を一気に流し込む。素材をそのまま混ぜ込んだ、なんとも形容し難い味が口の中に広がった。あまりに、不味い。
なんとか飲み下し、口直しにヴェルの作ったサンドイッチを頬張れば、仄かに酸味のあるソースに混ぜ込んだ卵のフィリングとハムの仄かな塩味の優しさに涙が出そうだった。あまりに、美味しい。
ヴェルが帰って来たら誠実に謝ろう、そう心に決めた。
「今週は隣のエリアの見学に行くから、午前中は準備なんだってさ!」
「隣……って……ああ、準居住区ね!そういえばそんな時期だっけ」
サンドイッチを大事に一口ずつ食べながら、シリスはセロの話に頷いた。
シリスたちの住むジェネシティは、ガイアという世界の中で最大の都市である。
明確にエリア分けがされており、本部をはじめとする行政機関を有するメインゲート区、純血の守護者のみが住まう一般居住区、養成所や寄宿舎のある教育区などのエリアによって成り立っている。
シュヴァルツ家の敷地も一般居住区内にあった。むしろ、一般居住区に住んでいる純血守護者が殆どだろう。
一般居住区と隣り合いながら、往来が少々制限されるのが残りのエリアである。
店が多く立ち並ぶ商業区、郊外にまで広がる工業区、そして混血や他種族が主に住まう準居住区だ。
これらのエリアには鏡が存在しない。何故なら、他種族や混血が誤って鏡像の通う経路を作らないようにするためだ。
だから、他種族や混血のヒトはこのエリアから出ることはできない。
守護者はどれだけ負の感情を感じたとて鏡像を作らない。鏡に負の感情を映したとしても路を作ることもない。
これは守護者の血に準ずる者が有している謂わば生態ではあるが、混血化が進めばその能力すら衰えるとされている。つまり、血の薄まった混血は他種族と同じく鏡像を作る可能性があるのだ。
実戦教育のために捕らえてきた鏡像を持ち込むのとはまた別として、ガイアには未だ鏡像が入り込んだことはない。
だからこそ今の秩序を守るため、純血とその他で入り込むことのできるエリアは明確に分けられていた。
「同期の従兄弟のおじさんの友達の奥さんの妹の旦那さんが空翼人なんだってさ」
「え?え?ちょっと遠くてすぐにはわかんなかったや。……えぇっと、とにかく空翼人のヒトに話聞きに行くってこと?」
「今日はね。明日はそのヒトの友達!」
にぱ、と満面の笑みでセロが答えた。
純血守護者が他種族や混血と深く関わる機会は、任務で外の世界に出るまでほとんどない。
無論、商業区を訪れることもあれば、そこで店を営む彼らと言葉を交わす場面もある。
純血守護者はエリアの往来に制限がないため、混血の親族を持つ者が準居住区を訪れれば、通りを歩く他種族と挨拶を交わすこともあるだろう。
けれど、それだけでは彼らは依然として名も知らぬ“異”種族でしかない。
守護者と見た目が変わらない者、大きく形態の異なる者。
それぞれが何故そのような姿で、どのように暮らしているのか。
その答えは、確かに本の知識で得ることもできる。しかし直接言葉を交わし、問い、その生活に触れることで初めて、彼らが名を持つ隣人だと実感できるのだ。
半数以上の守護者がシリスたちと同じように外世界担当任務員───外務員としての生き方を選ぶ。そうなれば将来、他種族と関わる必要が出てくるのは必然。
だからこそ、養成所では準居住区に赴いて彼らの話を聞くという機会が存在する。
彼らは"自分と同じヒトである"と正しく知らしめるため。
同じくヒトである守護者との優劣など存在しないと認識させるため。
シリスは今亡き先任者を思い出す。
彼女ははたして、どんな思いでルフトヘイヴンの住民に劣等種と宣ったのか。理解を示すつもりは毛頭ないが、あれだけ言葉を交わしてなお違いを認められなかったその価値観は少しだけ……寂しいと思ってしまった。
彼女のように、他種族を劣っていると考えている守護者は少なくないということも知ってしまった。もしかしたら表面化していないだけで、ガイアでも同じような軋轢は存在しているのかもしれない。
ヘリオやアリィのように良い関係を築いていける者だって多々いるのだし、なにより問い詰めて聞き出したヴェルの彼女とやらは守護者ではないというではないか。
シリスが見たこともないほど恥ずかしそうに話す姿は新鮮だった。このまま関係を続けていく気なのであれば、家族に話す日だってあるだろう。
だから願わくば、家族にはそういった偏見は持ってほしくないとシリスは思う。
小さな祈りを込めて。シリスは楽しそうに笑顔を見せるセロの頭を撫でた。
「シリス姉のときはどうだったの?」
「あたしのときは……どうだったかなあ」
期待を込めた様子で問われ、今のセロと同じ11歳の自分を思い出してみる。
大事な教育だな、とは確かに思ったのは確かだったはずだ。けれど既にアステルやその母と関わりを持っていたシリスやヴェルたちにとって、強烈に印象を残すほどの経験だったかといえば少々微妙である。
「アステルの知り合いにお願いしたんだっけかな……」
「アス兄ちゃんの知り合いなら、エルフ?」
「確かね。アスのところ、いろんなヒトが来てたから話す機会も多かったし、わざわざ他種族から話を聞くって言われても珍しくなくって」
「アス兄ちゃん器用だもんね。会ってみたいなぁ」
「そのうちね」
セロはシリスの返答にやや不満そうに頷く。あまり納得しきっていない顔だ。
アステルは手先が器用だ。何かを作ること自体が好きだと言って、早いうちから依頼された魔導具の製作や修理を生業にしていた。片手間で、子ども用の玩具にといくつか作ってもらった物もあるのだが、それがまたセロたち幼い子どもには魅力的なものが多いのだ。コントローラーで動く手のひらサイズのゴーレムや声が変わる薬など、商業区では見ないような玩具の数々は弟妹たちを虜にしていた。
本来なら連れて行って直接会わせてやりたいところだが、1人を連れて行くとなると他のきょうだいがついてくるのは確実で。だからこそ、今まで彼の話こそすれ直接会わせてやることは出来なかった。動き回る子どもを10人もつれて回るのは、いくら何でもシリスとヴェルの2人だけでは無理だ。
だからシリスはセロの不貞腐れた表情を見ても申し訳ないとは思うものの、当たり障りのない返答しかできなかった。膨れたその頬を指で軽く突きながら、残っていたサンドイッチの一切れをセロに差し出す。
「今回はこれで許して?」
「……いいよ、今回はね」
さすがは養子の中でも一番の古株である。
遠慮もなしに受け取り、セロは大きな口でサンドイッチに齧り付いた。
いつもの朝食の時間からだいぶ時間が経っているから、小腹が空いていたのだろう。シリスもお腹が空いていないわけではないが、母の冒涜ジュースで正直胸がいっぱいである。
最終的にはそれだけで足りず、セロが隠し持っていたお菓子を半分ずつ分け合い、2人だけの秘密だとくすくす笑い合った。
日はさらに高くなり、まだまだ秋口とはいえ日光の元では汗ばむこともある陽気。
せっかくなので昼は涼しい格好をして庭にシートでも敷くか。と、セロと相談して着替えに部屋に戻った矢先、不意に机の上から聞こえた音にシリスは振り返った。
「……文字増えてる?」
単なるメモに見える紙は捨てるにも忍びなく、かといってどう扱おうか困っていた物だ。
置き所もなく、机の上に無造作に置かれていたそれは、シリスが知る限り1文だけしか書かれていなかったはずである。けれどいま、まるで直接ペンを滑らせている様に紙のこすれる音を立てながら徐々に文字が追加されている。
「へぇ、こういう魔導具だったんだ」
普段使わないために物珍しさから文字が書き込まれていく様を見つめる。最初こそ興味をそそられたものの、追加されていく内容を認識すると徐々にシリスの顔が顰められていった。
「えぇ……せっかくピクニック気分だったのに……」
正直、朝のサンドイッチを分け合ったので昼食は早めに摂りたかった。しかし、いま文字が書き込まれたということはそういうことだろう。無視をするには気が引ける。
シリスは小さな溜息を吐いて手早く着替えると紙をポケットに入れて、セロに謝るべく部屋を後にした。