108.クリプトムネジア
「さっき母さんたちに言ってた❘単眼鬼ってのは、そのレべリオンのヒト?」
「あ……ああ。逃げられたんだけどな」
話が逸れたのはありがたいが、ここに来て避けられない本題しか話題が残っていないことにヴェルは心中でまた嫌な汗を流す。
シルヴィアの話題はネタにされたくないというだけで嫌なものではない。けれど”こちら”は違う。
口に出すのはまた別の意味で憚られていた。
「あの、さ」
ここにきてようやく、ヴェルは意を決して顔を上げた。
突然、俯けていた顔を上げたヴェルに驚いたのだろうシリスがキョトン、とした顔をしている。
真っすぐヴェルを映す瞳からまた目を逸らしたくなる気持ちを押さえて、姉を見つめ返した。
同じ金色、同じ翡翠色。両親からそっくり半分ずつ受け継いだ自分たちの証。
似通ったつくりの顔。性差はあれど、同じ性別ならもっと瓜二つだっただろうと容易に想像できる片割れの顔貌。
視線はそこから下がり口元から顎へ、首へ、鎖骨へ。
ヴェルと好みを同じくして襟ぐりが広めに開いた寝間着の下には今、普段彼女が着用している首元の詰まったインナーはない。自宅に居るときくらい、隠す必要がないからだ。
覗き見える左の鎖骨。肩に近い端から引き攣れた傷が服の中に伸びていた。
一目でわかる怪我の痕。ヴェルはそれが臍にかけてまで大きいものだということを知っている。
「その傷、何でできたか覚えてる?」
返ってくるのはさも不思議そうな視線。なぜそんな分かり切ったことを聞くのだとでも言うような顔。
聞きたくない。
聞くのが、怖かった。
なぜその傷があるのかは十分に知っているのに、覚えているのに、傷を持った姉本人から”ヴェルの記憶と違う答えが返ってくるかもしれない”など。
首を傾げたシリスは眉尻を下げ、困ったように笑った。
「なに?昔のしくじり持ち出して揶揄ってんの?」
「そういうわけじゃ……」
「まあいいや。3年くらい前じゃん、ちょうどこれくらいの時期に2人で庭の木に登ってさ」
当然のように返ってきた答えは、ヴェルが望むものだった。時期も合っている。
「……フィーアが連れて帰ってきた猫が、下りられなくなってて……」
「そうそう。枝の先まで逃げてったから、ヴェルに服掴んででもらったっしょ。結局、折れちゃって仲良く落っこちて……」
間違いない。だってそれはヴェルもしっかりと覚えている記憶だ。
妹にせがまれ、ヴェルよりもまだ体重の軽いシリスが枝の先に逃げた猫を捕まえようとした。ヴェルは彼女が落ちないように幹にしがみ付いてシリスの服を握って、けれど結局枝は折れて2人で転落し、そして。
「先に落ちたあたしの方が、枝で抉られちゃったんじゃん。ヴェルの方がテンパっちゃって父さんたちに宥められてたの、忘れちゃった?」
「そ、うだよな。うん、いや、覚えてる」
ヴェルは窓に視線を移す。
もう暗くて見えないが登った木はまだそこにあって、少し伸びたといえ折れた枝もそのままだ。思い入れがある木だからと切られてもいない。
血溜まりに沈む姿が途轍もなく怖くて、広がっていく赤が思考を染めて、記憶の中の光景はどこか作り物のように遠い。
シリスの言うように、パニックになって概要程度しか朧げに覚えていない。
それでも答え合わせをしていくと自分の記憶と相違なく、それは徐々にヴェルを安心感で満たした。
「ほんと、どうしちゃったの?そんな神妙に聞いちゃって」
シリスの問いももっともだった。ヴェルだってわざわざ分かりきったことを聞いたりしない。それを聞くということは、何かがあったのだと直ぐにでも察せられることだ。
ここまで来て言おうか言うまいか一瞬だけ詰まる。だが語らないのもおかしいだろう、自分から聞いたのだから誤魔化せるものでもない。脳裏を過ぎるサーヒラの笑みが嘲っているように思えた。
「その単眼鬼になんか色々言われたんだけどさ。そいつの言葉聞いてるとなんつーの……覚えてることに自信がなくなってきたというか」
「なんて言われたの?」
「…………お前の家族は本物か?って。ちゃんと思い出せるのか?って、知ってるかのように言いやがるんだよ」
─── ねぇ、最後にひとつ教えてちょうだいな。貴方の家族は、本物かしら?
─── あなたの家族は本当に貴方の家族?絶対に?はっきりと思い出せるのかしら、彼らとの記憶を……。
当たり前だろうと突っぱねてやりたかった。当然だと言い切りたかった。けれどそのとき浮かんだのは自分でもよくわからない記憶で。
「何をって思うかもしんねぇけど、そう言われると頭ん中がごちゃごちゃになって自信無くなりそうになってさ」
血溜まりに沈む姉の姿は変わらない。
しかし彼女を赤に沈めたのが自分だなんて。
自分が、その手で姉を抉り、切り裂いただなんて。
「ヴェル」
凛、とした声が近付く。いつの間にか冷たくなったヴェルの頬を似たような温度が包み込んだ。
「こっち見て」
ぐい、と顔を上げられれば、同じ翡翠色の中に酷い顔をした自分が映っていた。
「……酷い顔」
「……酷ぇ言い草」
「自分でもそう思ってるくせに」
頬を包む手に力が入る。シリスが口角を上げて微笑んだ。
触れた箇所が熱を分け合って徐々に温かくなり、知らずのうちに強張りかけていた身体から力が抜けていく。
「大丈夫、君はあたしの弟。あたしの記憶でもそうなってる」
「……弟かどうかはまだ認めてない」
「あたしに勝てないくせに」
定期開催される長子争奪戦はまだシリスの勝ち越しだ。
ヴェルの頬を手のひらでこねくり回すシリス。今はただヴェルもされるがままだった。
「頭の中がごちゃごちゃがどんな感じかはわかんないけど、精神感応系の魔術ってそんな感じだとは聞いたことあるよ」
「……確かにあいつ、魔術は使ってた気がする」
「あたしじゃ詳しく分かんないし、今度聞いてみよ。ディクならきっと詳しいし」
ね、と歯を見せてシリスは笑う。
サーヒラの惑わすような言葉よりも姉の笑顔の方が、ディクシアの知識の方が、十分信頼できる。クロスタやアステルに聞いてみても良い、きっと自分の記憶と何ら変わらない答えを返してくれるはずだ。
ヴェルは姉に倣って口角を上げた。もみくちゃにされた頬の筋肉はほぐれていたようで、笑みを返すのに抵抗はなかった。
「そうする。あいつ、そもそも怪しかったし」
「そうそう。気になるならクロたちにも聞けば良いじゃん。ヴェル・シュヴァルツはシュヴァルツ家の長男です。⚪︎か×か、って」
「クイズ形式かよ」
今度こそ本当に心からの笑みが漏れた。
そうだ、弱気になってどうする。
たった1人の他人の言動に惑わされるなんて愚かにも程がある。信ずるべきものは近くにこんなにも溢れているというのに。
そう考え始めれば、サーヒラに植え付けられた不安の種は見る間に枯れていくようだった。
ヴェルはしっかりと自分で顔を上げる。もう会いたくはないが、次にサーヒラに会うことがあるなら、前面から彼女の言動を否定してやろうと強く思えたのだった。
「なぁ」
強く心に誓った。
それはそうと、シリスの手がヴェルの頬から離れない。
「なんだよ、もういいから離せ……って……おい、おい!なんで力入れんだよ!?」
包んでいた手に徐々に力がこもる。気付いたときにはもう、しっかりとホールドされた顔は動かすこともままならなかった。
「ん、ふふ」
ヴェルの目の前でシリスが至極楽しそうに笑う。さっきまでの微笑みとは真逆の、全く安心できない笑みだ。
顔を引き攣らせてヴェルが暴れるが、指が輪郭の骨に引っかかって全く逃げられる気配がない。手で引き剥がそうと試みるも、指が食い込んで自分が痛いだけだった。
「話は終わりだよね?じゃあさ、ちょぉーっと聞かせて欲しいなぁ」
シリスの声は愉悦を滲ませる。
聞いて満足すればさっさと切り上げればよかった。ヴェルがそう反省しても後の祭りである。
「シルヴィアさんってヒトのこと、もうちょっと詳しく教えてよ」
「な、なん……っ」
「だってわざわざ話題逸らそうとするし、最初は名前だってわざわざ言おうとしなかったでしょ?ヴェルがそんなにわかりやすく誤魔化してんの初めて見たかも」
「気のせいだろ」
目線を大きく逸らす。それが悪手だと十分に、十二分に分かるはずなのに。先を計算できないほどヴェルは動揺し、そしてそれを見逃す双子の姉ではなかった。
「知ってる?めちゃくちゃ耳が赤いんだけど」
「んなわけ!」
「えー、じゃあどうして最初から素直に話してくれなかったの?アルヴィンさんってヒトは普通に名前出してたのに」
反論すればするほど泥沼だ。ここまで分かりやすく反応しなければ良かったのに、残念ながらヴェルはまだ青かった。
「ねぇねぇねぇねぇ、教えてよ。ただのサポーターのヒトってわけじゃないんでしょ?可愛かったの?ねぇ、どういうヒト?お友達?」
もはや腹を括るしかなかった。
「かっ……、
彼女……」
沈黙。
シリスが大きく目を見開く。
みるみるうちに頬が紅色に上気して、
「かっ………母さーーーん!父さーーーん!ヴェルに!!ヴェルに!!」
「あーーーー!あーーーー!うるせぇえ!!」
「みんなに言わないと……!た、確かアステルから貰ったエーテルリンクが部屋に……」
「ふっっざけんな!やめろ!おいやめろって!!」
これだから言いたくなかったのだ。
さっきまでの真剣な空気も、時間のことも忘れて取っ組み合って暴れ回る。
無論、深夜の騒ぎを聞きつけた両親に2人してこっぴどく叱られたのは言うまでもない。