105.帰宅
既に陽は落ち、帰宅の途では夕暮れの風に乗ってどこの家庭からか香ばしい匂いが漂っていた。
「ヴェルくぅぅぅぅぅん!!」
帰宅して玄関をくぐった直後である。
「えっっっっふ」
腹に飛び込む衝撃と、そのまま引き倒されて尻と背中の打撲。何とか硬いタイル床から頭だけは守ってみたが、衝撃の元凶はそのまま腹の上に居座って体重でヴェルの臓腑を苛む。淡い色の茶髪が揺れ、ヴェルと同じ翡翠色の瞳が責めるような色を宿しながら不満気に細められていた。
「ヴェル君、ヴェル君ヴェル君!こんなに遅いのに連絡は無いし、心配したんだからねもう!!」
「か、母さ……きっっつい……」
ぽかぽか、文字にするとそんな抜けた音が聞こえてきそうなほど力を入れていないフリだけの拳がヴェルの胸を叩く。痛くはない。どちらかというと、きれいに鳩尾の辺りにかかる重さの方がひたすらに耐えがたい。
どいて欲しい、と、なんとかヴェルが口にする直前。更なる衝撃が彼の身体を襲った。
「兄ちゃぁぁぁん!!」
「ヴェル兄、おかえりぃ」
「遅いよ、もー!」
母に続いて次々と空いた箇所にまとわりつく小さな重み。言わずもがな、弟妹たちである。
大人に比べればその重さなんて可愛いものである。問題は、数だ。足に腕に果ては顔にまでのしかかりながら長男の帰還を迎える家族は、愛しくも大変に苦しかった。数の暴力とはこのことである。いくら軽くとも加算的に増えた重みでヴェルの意識が限界を迎える直前、顔にかかっていた重さの1つが急激になくなった。
「ノーヴェ、さすがに顔はダメだってば!」
「ごめんなさぁい……」
「母さんも!自分の重さぐらいちゃんと理解してよ!」
「酷い、シリスちゃん……重いって言った……」
「大人なんだからこの子たちより重いのは当たり前っしょ!!ほらみんな、どいてどいて」
強い口調で叱責が飛んで、すごすごと腹の上の重みが離れていく。それに追従するように身体中にかかっていた圧が徐々になくなり、ようやく身を起こすことのできたヴェルは救いともいえる声の主を見上げた。
自分と似た顔が呆れをいっぱいに浮かべている。その小脇に抱えられた末弟は叱られたことで僅かに涙を滲ませていた。
「別に顔じゃなかったら全然良いんだけど。あ、母さんは別な」
「酷いよ!?ヴェル君!?」
母の抗議の声を無視して姉に腕を伸ばせば、シリスは軽く溜息を吐いてからノーヴェを差し出した。彼を受け取って抱き上げると、泣きそうだった顔が嘘のような笑顔に変わる。
首元に抱き着いてくる子ども独特の暖かさは、家に帰ってきたという実感をより強くさせた。同時に、最後に見た子どもの顔といえば泣き顔ばかりだったと思い出す。
そう、子どもはこうやって笑っているべきなのだ。それは時にお互い喧嘩をして泣くことや怒ることもあるかもしれないが、大きくなるまでは周りの温かさに包まれて笑っているだけでいい。しがみつく小さな手で触れる世界は優しさに満ちていて欲しい。恵まれた環境での綺麗ごとだとは理解しているが、幼いきょうだいを持つ兄としては当然の願いではないだろうか?
密かに❘弟を抱える腕に力を込める。そんなヴェルに気付いたのか、呆れた顔を浮かべていたはずのシリスの表情はいつの間にか和らいでいた。
「……おかえり、ヴェル。ご飯食べよっか。みんなで君を待ってたんだからさ」
彼女の言葉を皮切りに、下の方で元気よく「お腹空いた」の大合唱が始まる。
緩んでしまう口元を引き締めることも忘れ、ヴェルはシリスから差し伸べられた掌を軽く叩く。
「ん。ただいま」
小気味の良い音が玄関のホールに響いた。
「ヴェル、ようやく帰ってきたね!待ちくたびれたよ」
「全然待ちくたびれたように見えねぇんだけど」
広々としたダイニングと併設された広々としたリビング。そこに設置された広々としたソファの上にくつろいだ姿で沈み込む父親は、たった今まで読んでいただろう本をゆっくり閉じて脇に置いた。ヴェルの後ろでシリスが「置きっぱなしにしないでよね」と釘を刺す。
眉尻を下げながら”今日は”すぐに本棚へと本を返した父親は、静電気で乱れた髪を整えながらヴェルの前まで戻ってきた。双子と同じ色の金髪の下、やや分厚い眼鏡の奥で柔和な濃茶の瞳が優し気に家族の姿を映していた。
「待ってたのは本当だよ。シリスが帰ってきて暫くは、君も帰ってこないかと玄関でずっとリリエと立ってたんだから───4時間くらい」
「長くね?絶対嘘じゃん」
「正確には3時間半くらい。途中で椅子持って行って座ってたけど」
「まじかよ」
「まじだよ」
再びシリスの呆れ顔。彼女が嘘を吐く必要なんてないので本当の事らしいが、そこまで待ってもらっていたという嬉しさよりもまずは引いてしまうのも仕方ないだろう。
「ねぇ、ウィル!聞いてちょうだい。シリスちゃんったら私のこと重いって言うの!」
「羽のように軽い君を?」
「そう、酷くない?」
最後にリリエがリビングへ入ってきたと同時に始まった茶番を無視して、双子は❘弟妹たちを連れてダイニングへ向かう。職場でのことは知らないが、両親は揃うとこうやって茶番を始めるのだ。相手をすると疲れるだけなのでさらりと躱しておくに限る。❘弟妹たちも養親の様子にもう慣れたもので、ヴェルの「座るぞ」の一言で2人を置いてさっさと双子について食卓に着いた。
相手にされないとみるや2人も直ぐにふざけるのを止めて子どもたちと共に席に着く。彼らの表情はやや不満気だが、もはやシュヴァルツ家の風物詩ともいえる光景である。
食卓に並ぶ料理の数々に感謝の合掌をすると、特に幼い弟や妹は真っ先にカトラリーを掲げた。おしゃべりもそこそこに黙々と食べ勧める彼らを見ていると、ヴェルをかなり待っていたというのも本当らしい。「先に食べておいても良かったのに」なんて無粋な事は口に出さず、気遣いに心の中で感謝をしながら久々の家族揃っての団欒を味わった。否、この場にいない者もいるのだが。
「レティシアちゃんは部屋?」
「おでかけって言ってたよ」
「そう……残念だなあ」
2番目に幼いシュモネの返事に母・リリエは肩を落とす。
シュヴァルツ家の実子のひとりでもあるレティシアは15歳。所謂、反抗期の真っ只中であった。ヴェルも可愛い実妹の顔を見たかったのは山々なのだが、なんとなく自分にも覚えがあるような時期だったなと納得はしていた。
───と、いうよりも気が立った野良猫のように触ると爪を立てるレティシアに構い倒して痛い目を見たのも2、3度どころの話ではない。気紛れで言葉を交わしてくれる事があるのがせめてもの救いだが、反抗期なんてそんなものなのだ。
「やっぱりシリスが作ったものは美味しいね。久々にちゃんとしたものを食べたよ」
「ウィル??」
「あ、いや、失言だ。リリエが作るものも栄養があってとても素敵だよ」
母からの含みある笑顔に、父が慌ててフォローを入れる。が、「美味しい」と表現しないあたり大体の想像がつく。
「母さん……何でもかんでもミキサーにぶち込んで栄養剤もどき作るの、まだ懲りてないの?」
「懲りるだなんて!バランスを考えてるし、何より液体に近いほうが吸収に効率良いんだから」
「味が問題だって言ってんだけど。もしかしてあたしたちがいない間、ずっと?」
「喉元過ぎればって言うでしょ。ねぇ、みんな?」
呆れたようなシリスの言葉も右から左へ。
さらりと流したリリエは幼い子どもたちに同意を求め───
「……う、ん」
「おなかは、まぁ、いっぱいになるよ」
「僕あれ嫌い。シリス姉のご飯の方が100万倍くらい好き」
───返ってきたのは半ばヴェルの予想通りの返答だった。
「でもお母さんのレシピ、あれしかないから……」
「あれをレシピっていうのやめろよ、冒涜じゃん」
「何か買って食べるって選択肢なかったわけ?」
「だって食材はあったんだから勿体ないじゃない!」
方々から反発を受け、リリエが年甲斐もなく拗ねた顔を見せた。
ヴェルが物心つくころから"コレ"なのだからもはや諦めたほうが早いのだが、気を抜くと家族団欒の席にすら濁り色の液体を出してくるのだ。
リリエとウィルは医師であり特定因子欠損症治療の第一人者だ。無論、特定因子欠損症が専門というだけでその他の病に精通していない道理もない。要は腕がある分、多忙なのだ。研究と治療に日々を費やし、朝早くから仕事に出ては夜も遅くに帰宅する。
必然、家事の諸々は疎かになる。必然、しわ寄せが向かった長子の双子が両親に代わって家のことをこなす腕を身に着けた。
家事代行を依頼していた時期もあったのだが、2人だけで事足りる様になり始めてからはそれもなくなってしまっていた。だからといってヴェルは特に不満を感じたことはない。両親の研究のおかげで自分を含め多数の特定因子欠損症患者が普通の生活を送れるのだから、むしろ尊敬をしているくらいである。姉も同じように思っているだろうという自信がヴェルにはある。
ただ、調子に乗ることは目に見えているので、面と向かって伝えた事はない。
とにかく何が言いたいのかというと、母は料理が壊滅的にできなかった。父もできないのだが下手に作ろうとしない分、母よりマシである。
そんな2人に家のことを任せると彼らの食事がどうなるか……わかってはいたのだが仕方のないことだった。残された弟妹たちには大変申し訳なかったのだが。
「ま、でもシリスちゃんのご飯が美味しいのは私も同意。明日はヴェル君の作った朝ごはんが食べたいな」
「何?明日は朝遅くて良い感じ?」
「なんと、明日も家にいるのです。たまにはヴェル君たちが家にいるときも休み取ろうかなって」
嬉しそうに笑うリリエの顔はツヤがある。普段ならば薄く化粧を施した下に薄っすら隈が見えたりもするのだがそれもない。あまり長々休みを取る事もない両親が連休を満喫しているのが窺えた。
賑々しい場はあっという間に過ぎ、満たされた後はウィルの用意した茶で一息つく。父は茶を淹れるのだけは上手いのだ。
とりとめのない話を交わしつつ幼い順から母と父が寝支度に連れ出していく。徐々に家族の姿は減っていき、ダイニングに残るのは双子だけになった。
陶器の擦れる音。
横でがちゃりかちゃりと高い音を立てて泡の立つ食器が重ねられていく。割れないように慎重に、それでいて手早く積み上げられていく皿をヴェルは上から順に手に取って流しで泡を落とした。
姉が皿を積み上げるのも、ヴェルがそれを取るのも同じ速度。無意識にも息の合った作業は、2日間程度しか家を離れていなかったのに何となく懐かしさを感じさせた。
「ヴェルはさぁ」
皿洗いの手を止めずシリスが口を開く。
帰って来てからというもの、何か聞きたそうにしていたのはヴェルも気付いていた。それが恐らく、自分が聞きたいことと同じだろうということも。
「発作出なかった?特定因子欠損症のやつ」
「やっぱシリスも?」
「あ、やっぱり?確かに薬飲んだよね」
自分と同じ翡翠色が向けられる。
専門として2人の体調管理を担う両親ならいざ知らず、弟妹たちも居る場では話ができなかった。
ひとえに、せっかく笑顔で出迎えてくれた家族の顔を少しでも曇らせたくなかったのだ。特にヴェルにとっては子どもの泣き顔と不安な顔が記憶に新しい。
必要な話だ、どうせ後ですると踏んでいた。だから家族団欒の席でくらい楽しい話ばかりしていたって良いだろう。
「母さんたち、ヴェルの事もめちゃくちゃ心配してたからずっと玄関で待ってたんだよね」
「3時間半は異常だって。てか、もしかして母さんたちにはもう話してるわけ?」
「話したというか……」
どこか歯切れの悪い返答にヴェルは片眉を上げる。
「先に連絡があったの」
最後の皿を拭き上げて棚に直すと、寝かしつけが終わったのかリリエとウィルが丁度ダイニングへ戻ってきた。
話が聞こえていたのだろう、シリスの代わりに答えるリリエの眉は下がっている。
「シリスちゃん、任務先でトラブルに巻き込まれちゃったみたいで。だけどマリアさんが少し話をしたいからってすぐに帰してもらえなかったの」
「だから簡単な伝言だけは先に届いてたんだ」
「ヴェルくんの時と同じように玄関でずっと待ってたのに、シリスちゃんったら綺麗に躱わすのよ?」
「マリアさん……?」
リリエの言葉は横に流し、ヴェルはいましがた出た名前を反芻した。またまた不満げな空気が突き刺さるが、適度なところで母をあしらわないと話が進まないのはいつものことだ。
「総裁だよ。母さんたちの元指導員なんだって」
「今もずっとお世話になっているよ。君たちの薬の改良には、執行部の認可を受けなければいけない項目もいくつかあるからね」
ほら、とウィルがカウンターに置きっぱなしの紙を開いて見せる。上部に使用認可証、と書かれた紙はパッと見ではすぐに頭に入ってこないような固い言葉と、聞いた事もない文字の羅列で埋められている。
多分、それが今回使用許可のおりたモノ、という事なのだろう。それにしても、なにか紙が放置されていると思ったが大事そうな書類をこうも雑に扱うのは如何なものか。
総裁という立場の相手が両親と旧知なのは驚いたけれど、だからといってポンポンと貰える書類ではないだろうに。
「シリスが発作を起こしたって聞いて、ヴェルも同じようになってないか気に掛かってたんだ」
「父さんの予想通りだったみたいだよ」
「そうか……。配合は変わってないから、単純に薬に慣れてしまったというのもあるかもしれないね。君たちは症状が重い方だから」
シリスの返答に、ウィルは難しい顔で顎に手を当てた。
「後で採血だけしても良いかい?取り敢えず、予備薬で一旦対処できるようなら暫くはそれで様子を見てほしい」
「はぁい」
「……ん」
父の言葉に素直に頷くシリス。
ヴェルだけは採血の単語にやや抵抗感を感じた。今思い出しても腹が立つ、張り付けた笑みが脳裏を過ぎる。それでも自らの身体といえ、門外漢の2人には両親に委ねる以外の選択肢がないのだ。
頷いた双子に向けてウィルは表情を崩して彼らの肩を叩く。
「大変だっただろう?今日はゆっくり休んで、明日また話を聞かせて欲しい。ほら、リリエもいつまでも拗ねていないで」
「もう流石に拗ねてないわよ」
呼ばれたリリエも、シリスとヴェルを順々に軽く抱きしめる。
「明日の朝ごはん楽しみにしてるね」
「いつまでそれ言うんだよ」
小さく笑いが起きる。
リビングで時計が鳴った。丁度時間としてもキリがいいようだ。
採血のために自室へ戻る両親の後をついて行こうとして、ふとヴェルは自らの腕に目を落とした。
一目見て目立つようなものではなかったが、太々とした針が刺さった痕は目を凝らさなくてもすぐに分かる。
ひとつだけの赤い湿疹のような、確かな痕跡。
話は明日でも出来る。だが、その痕を見ていると記憶にこびり付いた笑みと───郷愁を孕んだ紫紺の瞳がどうしても浮かんで止まらない。
「なぁ、父さん母さん」
だから聞きたかった。これだけは今、聞きたかった。
「単眼鬼に知り合いが居たりする?」
何と聞くのが正しいか迷った末、ヴェルから出たのはそんな問いかけだった。サーヒラ、という名前を出せばよかったかもしれないが、それが本名かもわからない。
自分の記憶に無ければ、彼女を知っている可能性があるのは姉と両親だ。けれど自分が分からないのに、物心ついた時から一緒にいる姉が知っているとも思えない。現に、問いかけの意図が掴めなかったのかシリスは不思議そうな顔でヴェルを見ていた。
両親は顔を見合わせ───
そして、2人して困惑した表情をヴェルに向けた。姉と同じく、質問の意図が全く掴めないという顔だった。
「単眼鬼って、あの単眼鬼?何かあったの?」
「……いや、いいや。なんか知り合いと勘違いされただけだと思う」
そうだ。そもそも彼女はヴェルのことを知っていそうで何も知らなかった。わざわざ年齢や家族構成を聞いてきたということは、ヴェルの人物となりを把握してないということだ。
それに、種族が大きく違えば見た目では同一人物か判断を誤ることがある。肌の色と髪の色、目の色さえ同じであれば誰かと間違えてる可能性だって大いにあった。
サーヒラはヴェルの名前を一切呼んでいなかった。もし知り合いであれば、名前くらい知っていたっておかしくないだろう。
モヤモヤとした部分をそうやって自分で納得させて、曖昧にヴェルは笑う。
「明日時間あるんだろ?まぁ、その時聞いてよ」
誤魔化されてはくれないだろう。
それでも、ヴェルの言葉に一理もあって両親も姉も躊躇いながら頷いた。