103.灰の頂き
報告からの聞き取り調査、からのちょっとした叱責。
解放された頃にはくたくたで、萎びた気力はもはや限界に近かった。
持ち帰った黒い物質のこともあり途中まではディクシアとクロスタも側にいたのだが、屁理屈でアーリィの手助けを率先したのはシリスである。ご丁寧にディクシアは正確に経緯を報告していたので少しの誤魔化しも効くものではなかった。
「アーカナイトから聞いてはいましたが……あなたは少々、面倒に自ら首を突っ込みたがる節があるようですね」
「はい、その……よく言われていました……」
「養成所では真面目な方で成績も良かったとは聞いています。が、感情を優先して突撃するのが玉に瑕だと」
「反省はしています……」
話はほんの2、3時間前に遡る。
帰還直後に運悪くグレゴリーに遭遇し「またシリスが突っ走った」などとクロスタが口走るものだから叱られ、報告した先では見ず知らずの大人に「鏡像が現れたのも結果論で、そもそも現地の問題に云々」と叱られ、レッセが救援要請を送ってから本部に呼び出されたというヴァーストに遭遇して叱られ。シリスのメンタルは既にズタボロだった。
ディクシアやクロスタも同様の行動をしていたので連帯責任である。けれど、やはり言い出しっぺの責任は重かった。
自分のみが呼び出しを受けたと聞いたとき、思わず卒倒したくなったくらいだ。自分の蒔いた種とはいえ、これ以上ガミガミと叱られるのはごめんだったのである。何時間もかけて延々と叱られ続けて意気消沈しない者なんて何処にもいない。
「外で待つぞ」
「……いいや、そこまで甘えるの悪いし」
だからクロスタの申し出は心強くて嬉しかったのだが、シリスは意を決してその申し出を断った。ただでさえ友人たちへのお叱りは自分のとばっちりの面が大きい。これ以上迷惑をかけたくはなかった。
そうか、と何処か残念そうに呟くクロスタと、自分の責任は果たしたと帰り支度を始めるディクシアの対比には苦笑しか出なかった。ある意味、いつもの光景に戻ってこられた実感がわいた。なんだかんだと喧嘩というか声を荒げさせた記憶は新しく、「嫌いだ」と思わず口走らせてしまった罪悪感とショックは絶妙に小さな棘となって胸をちくちくと痛ませていたのだ。出立前と何ら変わらない彼らの様子は、一抹の安心感となって棘の痛みを和らげた。
そうして話は冒頭に戻る。
呼び出された守護者の統括執行部───通称、本部の最奥に位置する部屋へ足を踏み入れたシリスは、目の前で書類の束に目を通す女性の言葉に粛々と頷いていたのだ。
白い壁に、背後には大きめの窓と晴れわたった青空。漏れ入る眩さに照らされる室内は模範的な執務室の様相を呈しているが、積み上げられた机上の書類や棚に並びつくすファイルの群れに反して手入れがあまりに行き届いていた。部屋の主の几帳面さがありありとわかるようだ。
「此度の現地への協力は、あなたの独断によるものだそうですね。何故、原則で我々が肩入れしないかわかりますか?」
「はい……協力する事象としない事象の不公平さを可能な限り無くすことと、鏡像への対処を最優先にすべきだからです……」
「教えは受けているようですね。では、あなたがその場の思い付きでとった行動が、その原則に反した事というのは理解していますか?」
「重々、理解しています……」
淡々と言葉を連ねる女性の声音は落ち着いていて、責める色など全くない。だが感情を露わにしないその様子が逆にシリスの居心地を悪くさせた。
シルバーブロンドの髪はよく目を凝らすと白髪が混じっているが、全体に色合いを調和させて見窄らしさなど一切ない。
齢60を超えているとは思えないほど真っ直ぐに伸びた背筋に、老いを感じさせない眼光を灯すアッシュブルーの瞳。
最奥に位置する部屋に座すこの女性こそ守護者という種を束ねる執行部の総裁、マリア・アッシェンクレストそのヒトであった。
正直、軽い気持ちでアーリィの手助けをしただけでトップの守護者が出てくると思わず、シリスは内心ひたすら小さくなっているのである。あくまでも、内心。姿勢だけはしっかりと正したままだ。
「シュヴァルツ」
「はいッ!」
突如名前を呼ばれ、シリスは伸ばした背筋が千切れてしまうのではないかと思うほど上体をビクつかせた。
学び舎である養成所とはわけが違う、自分たちは既に成人した大人なのだ。何を言われるのか、どう叱られるのか、お咎めでも受けねばならないのだろうか。最高位の立場の相手を前にして、ただただ緊張だけがつのっていく。
「身体は大丈夫ですか」
「へ?」
だから全く予期していなかった質問に、目の前の女性への礼節も忘れて間抜けな声を上げてしまうのも仕方のない事だった。
「特定因子欠損症の発作を起こしたと聞いています。もう問題はないのですか」
「あ……はい、予備薬を飲みました。帰宅したら両親にも報告して1度診てもらうつもりです」
「そうですね。リリエたちにはそろそろ話が行くようになっているはずですから、今頃はあなたたちの帰りを待ち侘びているでしょう。それはもう首を長くして……玄関先で待っているかもしれませんね。気になり始めると落ち着きがなくなる2人ですから」
当たり前のように母の名が彼女の口から流れる。両親のことを理解している様な物言いはシリスに疑問を抱かせるには十分だった。
「母と父を……ご存じなんですか?」
「リリエもウィルも、私が指導官だった頃の教え子です。2人とも優秀な子でしたが───手に余ることをしでかすのも日常茶飯事でした」
あなたのようにね、と呆れの混じった言葉で指摘されてシリスはへらり、と愛想笑いを浮かべることしかできない。両親と似ていると言われて悪い気はしないが、あまり良い面として挙げられているわけでない分だけ複雑である。
「特にリリエは飛びぬけて頭が良い反面、際どいラインを見極めるのがそれはもう上手で……いえ、この話は余分でしたね。気になるのでしたら帰宅して本人に聞きなさい」
「は、はい」
唐突に始まった母の話はかなり気になるが、そう言われてしまってはシリスも頷くしかない。
静かに深く息を吐き出すマリアは厳しい印象を崩さないものの、当初感じたような張り詰めた緊張感はない。両親の知り合いだと分かったからか、それとも、ヴァーストが自分や弟に対して見せるような態度に近いものを感じたからだろうか。単なる厳しさや苦々しさだけではない、一種の情が感じられたことが1番大きいかもしれない。
書類に目を落としていたマリアがようやく視線を上げる。
凪いだアッシュブルーに、シリスを咎める色など含まれていなかった。
「呼びつけておいて手を止めず、失礼をしましたね。昨今、問題が山積みなのですよ。あなたたちが持ち帰った黒い石のような物も含めてね」
「あれって、やっぱりリンデンベルグで見つけたのと同じ物なんですか?」
「その見解が強いですが、詳細は全体に向けて発表します。追っての報をお待ちなさい」
背筋を伸ばしたまま、机の上でゆっくりと指を組むマリア。彼女の仕草は緩慢ながら、老いというよりも落ち着きを孕んでいる。
だからだろうか。聞きたい気持ちは山々なのだが、シリスは大人しく彼女の言葉に従って口を噤んだ。それと同時に、釈然としない疑問が湧き上がる。
「あの、総裁……何か処罰とかお叱りの言葉とかを頂くわけじゃないんですか……?」
もし何かあるとすれば、開口一番に告げられてもいいはずである。総裁ともなれば多忙だろう、たかが一介の守護者と簡単な話をするためだけに呼びつけたとは考え難い。たとえそれが、かつての教え子の娘だったとしても。
「アーカナイトにも余分に説教されたと聞きましたよ。小うるさいあの男の事ですから、私が続けて言えることなど残っていないでしょう」
「小うるさいって」
「そう思ったことは無いのですか?」
「いえ、まあ、その……ないと言えば嘘になるんですけどぉ……」
「正直なのは良いことです。アーカナイトの干渉さえなければ私からの叱責が飛んでいました」
アーカナイト、とはヴァーストの姓だ。両親に対するのと同じく親しげだが、彼は執行部の教育機関長であるのでまだ納得はしやすかった。恐らく年齢もマリアに近いので元より顔見知りである可能性もある。
最上に位置する上司の手前、嘘を吐くわけにもいかないと躊躇いがちに本音を零してみれば、存外目の前の彼女は口の端をほんの少し緩めた。親とはまた違う、見守られているような情を感じる。早くに亡くなった祖父母の記憶は朧げだが、もし存命であるならばこんな感じだったのかもしれない。曲がりなりにも上司に当たるマリアにそんなことを思うのは失礼にあたるのかもしれないが。
───そう考えると、ヴァーストが自分や弟に対して向ける目も似たようなものであるからして、彼にも祖父のような感覚を抱くかといえば……そんなことは無なかった。やはり、口煩さは親しみやすさにおいて不要な要素なのかもしれない。
「……感情は我々ヒトが持つ尊い宝でもあります。振り回されるのはさておき、あなたが現地の金鷲人を救いたかったという気持ちを完膚なきまでに否定しては、我々がヒトであることを否定しているようではありませんか」
ですから、と細められていた目元はいまや圧を与えるようなものではなく、心のまま素直に動くシリスの若さを眩しがるようでもあった。要は、受け手の心持ちひとつで変わるだけでマリア自体は初めから厳しく接しようとする気持ちなど微塵も存在していなかったのだ。
「あなたの心を大事になさい。けれど、程々にですよ」
「……はい!」
特にディクシアは養成所時代、マリアのことを厳格さと寛容さを兼ね備えた人格者だと評して尊敬していたが、直接言葉を交わしてようやくその意味を理解した。
「良い返事です。残る用事は、これを」
机の上に積まれていた紙束の1番上に置かれていた封筒が差し出される。何も書いていない、封すらしていないので正確には”封”筒ではない。開けて中を覗き込めば、直ぐにだって中身がわかってしまうだろう。
受け取ったシリスのグローブ越しの感触でもわかる。中身は折りたたまれた紙だ、それもおそらく数枚にも満たない程度の。
「制限物資における使用認可証です。ちょうど手続きも終わりました」
「使用認可証、ですか?」
「ええ、特定因子欠損症の抑制薬に手を加えたいそうですよ。知ってのとおり原因が分からないこの疾患に対しての根治薬はありませんから」
それはシリスも十分に知るところだった。
実際には原因自体は分かっている。血液中の何らかの因子の欠乏により眩暈に頭痛、嘔気に倦怠感、そんな如何ともし難い症状を引き起こすという事までは。その何らかの因子というのが未だに不明なのだ。
判然としていない因子の特定、及び付随する諸症状を抑制するための薬の研究を進めている第一人者───それが、双子の両親であるリリエ・シュヴァルツとウィル・シュヴァルツであった。
「届けさせれば良かったのでしょうが、あなたが本部に来ているのであれば渡してしまったほうが早いでしょう」
「そんなに急ぎなんですか?」
「症状抑制の薬は日々研究が進んでいるといえ、ふとした拍子に効能が薄れてしまう可能性もあります。今回のあなたのようにね。リリエもウィルも、早く改良に着手したいと思いますよ」
そう言われてはぐうの音も出ない。実際、月1で十分効力を発揮するはずの抑制薬を飲んでから半月ほどしか経過していないのに発作が起こってしまったのだから。
ああ見えて几帳面な部分もあるヴェルが目を光らせて飲み忘れに注意を払っていた。シリス自身、間違いなく内服したといえるのだが結果は今回のとおり……である。
薬はあくまで一時しのぎであり、絶対ではない。
それでも間違いなく、血脈を侵すこの病に対して有用であることは間違いないのだ。
血筋とは枝葉のように末広がる。で、あるからして自分たち以外にもこの厄介な病を抱えて生きている守護者は多かれ少なかれそれなりの数が考えられる。それが目に見えてわからないのは、両親が手掛けた症状抑制の薬が功を奏しているからに他ならないと言えよう。シリスとヴェルだって普段生活をしている分には健常な他者と何ら変わりはなく、患っていることを知っているのは親しい友人くらいのものだ。無論、妹たちのように血を分けていても症状が発現しない例も十分にあるのだが。
まったく面倒なものを抱えて生まれたとは思うが、幸いなのは直接として命を奪うような病ではないことだ。遺伝性の疾患であるからして弟は元より、自分たちの知らないところで同様に症状に悩まされることのあっただろう祖先を考えると文句を言いたい気なんて起こらなかった。
だがそこに思い至ると、心に引っかかりを覚える一点が不意に頭をもたげる。
「ヴェルは───弟に関しては本部に何か連絡が入っていたりしませんか?」
「残念ながら私の元には届いていませんね。あなたに関しては持ち帰ったモノの関連で私まで連絡が届きましたが、本来、一個人の体調諸々は私の管轄外ですから」
「それは、そう。ですよね」
そもそもの話、総裁であるマリアが新人である自分の体調を直接気遣うこと自体が異例中の異例なのだろう。
双子とはいえ、他人。男女差もさることながら体質も決して同一ではない。例えば頑強さ。単なる打たれ強さという意味でもなく、風邪だってヴェルの方がよくひいている。酒に関してもヴェルの方が弱いということはこの前に身をもって知ったばかりだ。
されど、妙なところで一致するのもまた双子だった。
シリスが今回薬を飲んでいても発作を起こしたように、彼も同様の症状に襲われていないか。それがずっと気にかかっていたのだ。守護者という種に生まれ、危険の多い外務員に名乗りを上げた時点である程度の覚悟はしているつもりであるが、家族なのだから気がかりなのは仕方がない。
余程のことがない限り無茶をするタイプの男ではないので大丈夫だとは思っているものの、あの如何とも言い難い症状に悩まされていないかという一点だけでも心配に値する。
見習いであるうちに、ヴェルがしつこいほどに内務希望を出せと煩かったのにも理解は出来ていた。
それでもこの道を選んだのは何故かと言われると、単に外の世界に興味があったからというだけではないのだが。
「シュヴァルツ、連絡がないうちには待つしかないのです」
「……はい、理解してます」
諭すような声音で言われて、頷く。
マリアの言うとおり、今のシリスにできるのは待つことだけなのだ。どうにせよ、任期はシリスと同じく2日間だと聞いているからには今日中には帰還するはずで、何かあるならば今日中に家族へ報が届くはず。ならば、いつまでもただ突っ立っているわけにもいかない。
渡された封筒を胸元にしまい込む。部屋に沈黙が下り、話の終わりを察してシリスはマリアに向かい一礼をした。
「わざわざご心配いただき、ありがとうございました」
「ついでの用事を、と、呼びつけたのは私です。用はこれだけですから、早く帰ってあげなさい」
再び一礼。そわつく足を何とか無理やり抑えながら踵を返したシリスの耳に、入室当初は緊張を誘うだけだった声が届いた。
「私も暇ではありませんが───それでも時々、顔を見せに来てくれると嬉しいとリリエたちに言っておいてください。時間は作りますから、久々にゆっくりとお茶が飲みたいと」
「はい、きっと喜ぶと思います。お母さ……母と父も、最近は忙しくてなかなか家に帰れてなかったので」
「ええ。あなたと弟も……よければいらっしゃい。この部屋は広いですから」
温かみのある、声音。
振り返ったシリスの目に映るその女性は、不器用ながらも慈しみを湛えた顔で微笑んでいた。
「楽しみにしていますよ」
「っはい!」
叱られてばかりで散々だった心に、その優しさは雪解けのように広がる。
さっきまでの消沈が少し晴れた気がして、シリスは元気よく返事をすると軽くなった足取りで部屋を出たのだった。
「……寂しく思えますね」
ぽつり、と零した声に答える者はもういない。
輝く金の髪も翡翠を嵌め込んだような瞳も、教え子たちの面影を色濃く宿したその姿はすでに扉の向こうへと消えてしまった。
この場に残るのは、マリアただ1人。
最後、あの子に言ったように最奥の総裁室は広い。1人ならば広すぎると思えるほどに。
「慣れているとは思ったのですが」
忙しくはあれ、総裁室はなにも閉ざされているわけではないのだ。必要に応じて執行部の守護者が仕事に訪れる事だって珍しくない。
けれどこの地位に上り詰めた頃。
その頃はまだ、総裁ではなく一個人としてのマリアを訪ねてくる者がいた。
それがいつからだろう。1番の教え子たちは子が生まれてから徐々に顔を見せる数を減らし、友人は歳を重ねて足が遠のき、ヴァーストは同じく執行部所属とはなったが───。
……やめねば。仕方のないことをつらつらと思い出してもどうしようもない無力感に苛まれるだけなのだ。そんなこと、とうの昔に理解しきった事ではなかったか。
嘆息。
総裁という肩書にふさわしく質のいい素材でできた柔らかな背もたれに深く身を預ける。仰いだ天井は白く、外の光を受けて眩しい。光を遮るように瞼を下ろせば、浮かぶのは先ほどこの部屋を出て行った少女だった。
否、任務を受ける年齢という事は成人しているという事だ。少女というにはやや年嵩があるだろう。
「大きく、なりましたね」
瞼の裏に浮かんだ彼女の顔がマリアの知る顔へと滲むように変化していく。
輝く金の髪が眩しい男と翡翠を嵌め込んだかのように鮮やかな瞳の女の腕に抱かれる、あどけのない命。子を持たなかった自分に後悔はないが、それでも密かに1番可愛がっていた教え子たちの子ともなれば孫のようにも思えてしまって。
「双子と言いましたか。もう1人とも、会いたいものです」
あのとき、何故もう1人を連れて来なかったのかは忘れてしまったが。
きっと、彼女の弟だというその子も同じ色を宿しているのだろう。
輝く金と、鮮やかな翡翠の───。