101.傷痕が残ったって笑ってみせて
もう二度と使いたくないと思いながら、結局は最初に飲んだのも含めて3回はお世話になっていることになる。
鼻の頭に皺を寄せながら、塗り込められるエルフの万能薬のにおいにヴェルは耐えていた。
「げっっっっろまず……」
薄めて飲んだシルヴィアでさえ思わずそんな言葉を吐き出してしまうほど、やはりその味は耐え難いようだ。まだ軟膏として使うだけマシなのだと、ヴェルは自分に言い聞かせた。
そんな彼女は見たこともないほど萎れた顔をしながら倒れ伏していたが、青く痕を残す脇腹へ新たに湿布まで貼られると冷たさに身を捩っていた。
「鎮痛効果は早々に出ると思います。見たところ、骨は無事なようですね」
「……確かに痛みはマシな気はするっす……」
「流石に"概ね"万能の薬ですので、骨折には効きませんから幸いでした」
彼女に手当てを施すエルフの女性は、最後に湿布を固定するための包帯を巻き上げる。見た目だけで言えば重症者だ。確かに軽傷とは言えないのだが。
時を同じくしてヴェルの手当ても終わる。傷が数ヶ所に及ぶため全てを被覆することはできず、塗り晒しの軟膏のにおいに暫く苦しめられるだろう。早く鼻が慣れてくれるのを祈るばかりだ。
ビオタリアに戻り即座に治療を受ける2人を落ち着きなく見守っていたアルヴィンが、ようやく人心地ついたようで膝から崩れ落ちた。
「よ、よよ、良かったぁ……大きな傷がなくて本当に良かった」
「わりと大きな傷だと思うけど」
「ヴェル、しっ!」
ボヤいたヴェルをシルヴィアが密かに叱咤する。命に関わるような傷がないという意味では実際、数日で治りそうな傷ばかりなのでヴェルも素直に従った。
「それにしてもアルヴィンさん、よく俺たちの場所が分かったよな。あんなとこに入り口があるなんて思ってもなかったというか」
「どうして人間の里があんな状態にされてたかっていう事も、ずっと引っかかっていたからね」
分厚い瞼を伏し目にして、アルヴィンは頷く。
さっきまで居たあの場所は、人間の里の地下に位置していた。
ヴェルたちが流された川は人間の里の近くを通りそこから流れが緩くなるらしく、目星は早いうちについたそうだ。
入り口は死体の散乱していた小屋の裏手側に存在し、惨状と死臭で倦厭している状態では決して見つけられない位置にあった。地上に出た瞬間、強烈なにおいに再び晒されたアルヴィンが吐いたのはまた別の話だ。
「人間とエルフの諍いが大きかったときに、エルフを収容するために使われていた場所だったらしいよ。不可侵条約が締結されてからは放棄されてたって言ってたけどね」
里の人間がそう話したそうだ。
ヘイの話を鵜呑みにするのであれば、彼の“毒"とやらがようやく抜け始めたのだろう。徐々に正気に戻り始めた人間たちが現状を理解できず、落ち着かせるのにもそこで時間を要したそうだ。
彼らはいま、延々と繰り返されていた日常動作と急激に突きつけられた凄惨な現場に心身が疲れ果て、大半が里で寝込んでいるのだという。
「ヴェルくんが任せてくれたおかげで、鏡像はちゃんと倒すことができたよ。また消えられたら厄介だったけどね……でも、急いで戻ったら君たちの姿が見えなくて本当に心配したよ」
その時のことを思い出したのか、泣き笑いのような顔でアルヴィンは言う。
「人間の里周辺に流れ着いたかもしれない予測は早々についたんだ。けど、最終的に1番役に立ったのはそれだよ」
「……どれ?」
「絆創膏だよ。それをくれた男の子が言ってたことを思い出したんだ、ほら」
アルヴィンが襟元からそそくさと取り出したのはエーテルリンクだ。彼の指には小さすぎるそれにアルヴィンが魔力を通せば、鈴のような音が鳴る。ただ、その音はヴェルが知っているものよりも大きく聞こえる気がした。
「その絆創膏、エーテルリンクの素材と共鳴するらしいんだ。魔力を通せば、その音が小さいか大きいかで大体の方角や近さが分かるらしい」
「んな馬鹿な……。なんで絆創膏なんかにそんな機能ついてんだよ」
「だっ、だだからそれをくれた子は副産物だって言ってたんだって。治癒術よりもそっちの効果の方が使えるからって、嬉しそうに話してくれたよ」
訝しげなヴェルの視線にアルヴィンはたじろぐが、嘘を言っているわけではないようで必死に説明しようとしていた。
「そ、そういえば、それを貰った頃とエーテルリンクの精度が良くなった時期が近いから、彼ってもしかしてエーテルリンク研究班の家族とかだったりするのかも」
「───そいつ、もしかして草みたいな頭してた?」
「く、草……。いや、綺麗な緑の髪はしてたけど」
疑ってかかっていたものの、話を聞いているとヴェルの脳裏に1人の男の姿が過った。
アステルだ。
ディクシアの異母弟で、自分たちの友人の1人。
ディクシアよりも感覚的な天才肌で、現行のエーテルリンクは彼の作り出した理論に基づいて作られていると言って過言ではない。表では彼の名前などどこにも知られてはいないが……これに関しては彼らの複雑な家庭事情に関わるので、わざわざアルヴィンに語ることでもないだろう。
きっと今も、ガイアでいろんな道具をいじりながら自分たちの土産話を待っているはずだ。
まさかこんなところで彼の話を聞くとは思っておらず、ヴェルは深々とため息をついて項垂れた。
「ヴェル、大丈夫!?」
「いや、なんかちょっと納得しただけ」
急な彼の行動に肩を支えたシルヴィアに大丈夫と返し、ヴェルは友人に思いを馳せた。
思い出せば、かつてアステルがエーテルリンクに関しての新しい発見がどうのという話を嬉々としてしていた記憶がある。ディクシア以外には複雑すぎる話だったので、姉とクロスタと共に聞き流していた記憶が。
アルヴィンと出会ったのはそんなときだったのかもしれない。
予期せぬところで友人に救われたのだという感謝と、少しでも話を聞いてやれば良かったかというちょっとした罪悪感が胸を占めていた。
ヴェルの反応に疑問符を浮かべていたアルヴィンだったが、疑いは晴れたのだと理解したようだ。ホッと安堵の溜息をついてからエーテルリンクを仕舞い込んだ。
「そんな感じで音を頼りに君たちの居場所に目星をつけて、あの貯蔵庫の裏手に入り口を見つけて…….あとは知っての通り、君たちの所へ駆けつけることができた」
もう少し早く見つけてあげられれば、とアルヴィンは再び後悔を口にする。
「アルヴィンさんたちが来なかったらジリ貧で、きっと、もっと大変なことになってたっすよ」
「同感。めっちゃ格好良く見えたし」
2人がそう言えば、眉尻を下げながらもアルヴィンは照れ臭そうに笑った。
「でも、本当に大変な思いをさせちゃったね。思った以上に、ややこしい相手だったみたいだし。組織的っていうこと自体、今後一層気を付けなきゃいけない話だけど……レベリオンかぁ」
太い指がたるんだ顎をなぞる。
治療の間に、既にひと通りの説明は済ませていた。
革命者と名乗った彼らのことも、エルフの子どもを攫った理由も、既に死んだと言われた守護者のことも。
ヴェルたちも、鉄扉のひとつから干からびたような死体があったという話を聞いていた。それが件の守護者なのか、それは調べてみないと分からない。
ヘイとサーヒラは共に姿を消し、少しでも事情を知っているはずの構成員は大半がサーヒラの放った術に巻き込まれ事切れていた。
あっさりと切り捨てられた彼らも不公平を感じて自ら構成員となったのか、それとも蛇鱗人の男のように甘言に釣られたのかも分からない。運良く生き残った数人も話せるような状況ではなく、彼らから話を聞き出せるのはしばらく後になってからだろう。
あの場から回収した、黒い物質。ヴェルがリンデンベルグで見たものと同じように見えるそれが、本当に同じものであるのか、本当に鏡像を誘い出すものなのか……それも分からない。
明確になったことに比例して、不明確なことも増えていく。リンデンベルグのときと同じだ。
晴れない霧に、胸のモヤだけがつのる。
重苦しく落ちる沈黙。けれど、それも長くは続かなかった。
「相手の姿と目的が分かるだけで上々っすよ!」
ぱん。と、シルヴィアが手を打った。
「例外はあるかもしれないっすけど、下っ端のヒトたちは黒い仮面を付けてる。ヘイや、あのサーヒラってヒトの姿は分かってるから今後見かけたら先手必勝で組み伏せれば良い。あとは───コヴェナントもどきを作ることが目的なら、その素材にされてるヒトたちに警戒を促すっすよ。エルフみたいに」
拳を作り、歯を覗かせて笑って見せる。
力を込めた瞬間、彼女は「いたた」と小さく呟いたが笑顔は一切崩さなかった。
「相手がポータルを自在に使おうとしてるなら、各々の世界の問題だからって見過ごすわけには行かないっすよね?」
「そ、そそそりゃあそうだよ!あんなヒトたちが自由に世界を行き来するなんて、ど……どんな問題を起こすか分からないし」
「じゃあ守護者の協力も得られる可能性が高いって事っすよ。それだけで、光明が見える気がしないっすか?」
疑問の形を取ってはいるが、シルヴィアの言葉は確信に近い。希望の方が多いのだと、心から信じているかのように。
「サポーター……は、ヘイみたいなのが居たから一度人材を見直した方がいいかもしれないっすけど。協力し合えば、立ち向かえるっすよ」
実際にヘイもサーヒラもあの場で無理に事を為そうとはしなかった。手傷のことがあるといえ、圧倒できるのであればあの場で"素材"のひとつであるヴェルやアルヴィンに手を出してもおかしくなかったはずだ。
だから、とシルヴィアは続ける。
「アルヴィンさんは大袈裟も大袈裟に報告してほしいっす。守護者のみんなが慌てて動かなきゃ駄目なくらいに、ね?」
最後に見せたのは、ほんの少し悪い笑顔。
シルヴィアの弁に暫く目を点にしていたアルヴィンだが、数秒に渡って彼女の言葉を飲み下し、考え、そしてやがて肩を振るわせた。
「はは、あはは、き、虚偽報告は後で怒られるから嫌だなぁ」
「虚偽じゃないっすよ。事実を大袈裟に言うだけっす」
「そうだね、うん。そうだ。彼らが逃げてしまったからには、きっとこのままでは済まない話だから」
逃げたからと、おとなしくしているとは限らない。それどころか、今後もまた同じ事を繰り返す可能性の方が高いのだ。
しっかりと頷いてアルヴィンは立ち上がった。
「じゃあ君たちの怪我は一旦大丈夫みたいだし……。僕は、子どもたちの様子を見に行ってくるよ」
「私たちも───」
「い、い……いや、やっぱり大勢で行くべきじゃないでしょ?僕はオーベロンさんたちと今後の話もしたいし、少しだけ先を譲ってくれるかな?」
つられて立ち上がりかけたシルヴィアは、アルヴィンの言葉に中腰の姿勢のまま止まった。
子どもたちは救出されたのちに一箇所に集められ、オーベロン含む少数のエルフで治療にあたっていた。
まずは親元へ返すのが理想だったのかもしれないが、痛みと恐怖のトラウマを身を寄せ合って耐えていたからか互いに離れようとしなかったのだ。
だからと言って親を全て集めようとすれば、複数の大人に恐れをなした子どもたちはパニックを起こした。結果、オーベロンを含む最低限の大人だけで対応するしかなかったのだ。
アルヴィンも本当に遠目から様子を見るだけなのだろう。大人しくシルヴィアは腰を下ろした。
「歯はまた生えるし、永久歯も治療でどうにかすることだって出来るらしいよ。でも……」
「無かったことにはならないしな。トラウマなんて、そう簡単に治らないだろうし」
「それでも、皆様の助力で子どもが無事に帰って来たことは本当に感謝しております」
2人の治療を終えて、後方で静かに待機していたエルフの1人がそう言った。
「幸い、先に連れ出された数名の大人も、お2人を探す過程で見つけることができました。全てが全て元通りというわけにはいきませんが、最悪の事態を免れたこと……本当にありがとうございました」
深々と揃って頭を下げられたじろぐヴェルの耳に、シルヴィアが近寄って囁く。
「ほら、笑って」
何かと思えば、急にそんな事を言われてさらに戸惑う。こんなに深々と頭を下げられるのも慣れていなければ、結局は子どもにトラウマが残った事を思えば笑顔で返すのもお門違いだと思ったのだ。
けれどシルヴィアの考えは違うらしい。
「折角良かったと思ってくれてるのに、仏頂面で終わらせる気すか?」
見本を見せるようにシルヴィアは笑った。
「笑うっすよ。まだ大変なことが残ってるとしても……この先はきっと大丈夫だって安心させてあげないと」
直近、飽きるほど見た笑みに良い記憶はあまりない。口角を上げるだけの白々しい笑顔が浮かんでは、まだ脳内にこびりついている。
けれど───けれど、目の前で屈託なく歯を見せる顔は確かに眩いほどに輝いていて、そうなのだろうか?とついつられてしまうのだ。
「……どう、いたしまして」
勧めに倣って口角を上げてみる。
わざわざ笑顔を作ろうとすると頬は引き攣り、見えてない自分でもぎこちないというのは嫌でもわかった。
それでも顔を上げたエルフたちはヴェルとシルヴィアを見ると、同じくぎこちないながらも笑顔を浮かべるのだった。