98.アレキシサイミアの美学
蒼の閃きが躍った瞬間、確かに捉えたと思った。
けれど、実際にヴェルが切り裂いたのは半ばのみで右腕は彼に付いたまま。
深々と刻まれた傷口から漏れ出す赤が、だらりと下げられたヘイの指先を伝わり床を酷く汚し始める。
彼は今、咄嗟に逃れた先で驚愕に目を見開いていた。そんなにしっかりと瞼を上げているのは初めて見たかもしれない、狙って意表を突けたのであればいい気味だ。
ヴェルはヘイの手から離れ尻もちをついたシルヴィアの背を支える。
俯く顔には癖のある栗毛の影が落ち、表情を窺い知ることが出来ない。ヴェルよりも薄い肩は近付いてようやく分かる適度に小さく震えていた。
何も言えない。
耳障りが良いだけの慰めや共感なんて口にするべきではない。
彼女に投げかけるに相応しい言葉をヴェルは持っていないのだ。
だからヴェルはせめて、怒りすら見せない彼女の代わりに吼えた。
「ヒトが動けねぇのをいいことに放置しやがって厭味ったらしくべらべらべらべらと……煩ぇんだよお前は!」
「……動けているではないですか。無理しないほうがよろしいのでは」
「今ようやっと動けるようになったんだよ!」
実際、さっきまでは息をするだけで激痛に身悶えそうだった。口を挟むことなんて以ての外で、ヘイの口上を聞いていることしかできないのがひたすら歯痒く、憎かったくらいだ。
徐々に痛みが取れて安堵したのも束の間、あまりに腹立たしい科白に思わず体が動いたのだ。
ヴェルが動けないだろうとタカをくくっていた故か、逃れられたとてヘイの右腕は使い物になりそうにない。
けれどヘイの表情には苦痛の影も見当たらない。ただ、何度も確かめるように視線をヴェルの頭からつま先まで行き来させては「不可解だ」と首をかしげて見せるのだ。
「手応えとしても、確実に折ったと思ったのですが」
「俺らの丈夫さ舐めんなよ」
丈夫だ、など姉がよく言う常套句だ。
自身を省みないその文句を好いてはいなかったが、自らのしぶとさをまざまざと実感すると───まぁ、そこまで悪くないのかもしれない。
だからと言って、彼女のようにいつでもどこでも猪突するつもりはないが。
ヘイがあまりに驚いた様子なので、ほんの少しだけ不安になってそっと胸に手を当ててみた。
無論、痛みはもはや影も形もない。
ヴェルの無事を目の当たりにしてなおヘイは釈然としない様子だったが、やがて考えるのをやめたらしい。
「そう言うのであれば、そういうモノなのかもしれませんね。僕だって守護者の方と拳を交えたことなど数回程度しかありませんし」
「あるのかよ」
「これでも貴方よりは永く生きていますから。ですので、あまり熟練した守護者の方の相手はしたくないのですよ。楽しくはあるのですが、どうも生真面目が多くて揶揄い甲斐がありませんし───なにより」
黄金色の瞳が再び白い瞼の下に消えた。
「僕は貴方たちみたいに若い子どもを相手にするほうが好きなんです。挙動や言動で一喜一憂して、必死になって勝ち星を挙げようともがく様はなんとも可愛いではないですか」
「きっしょ」
心からの侮蔑を込めて吐き捨てた瞬間、ヴェルはしっかりと両手で剣を構えた。
強い衝撃は体の真正面で弾け、力を込めたはずの手から剣の柄が零れ落ちそうなほどの痺れを生み出す。それでもすんでのところで堪えることが出来たのは、なんとなく彼の動きを理解したような気がしたから、それだけだ。
ヴェルの動きの変化には、ヘイも思わずといったように声を上げる。
「おや、ちゃんと受け止められるじゃないですか。急にどういった事でしょう?」
「知るかよ!お前のカスみたいな文句に思わず力んじまったのかもな!!」
実際、腹に据えかねる言動の数々が重なる度に、森で対峙した時よりも力が湧いてくる気がした。怒りがリミッターを外したと言われても頷ける。所謂、火事場のなんとかに近いものなのかもしれない。
許せない、と、思うことがあまりにも多かった。
私欲の為に年端のいかない子どもを食いものにするのもそう、不要と認識すれば命ごと切り捨てる無情さもそう、同族だからという思い入れはないが……見知らぬ同胞が”物”のように扱われたこともそう。
そしてなにより、ここに来てからずっと勇気づけられていたシルヴィアの笑顔をああも曇らせたことも全て、全て。
許せなくて、憎々しい。
受け止めたヘイの脚を薙ぐように剣を振り払う。
蒼い軌跡は天井から降り注ぐ弱い光の中にあってもなお眩い。勢いのまま振りぬけばヘイの身体は後方に傾ぎ、それを追うように更なる斬撃をみまう。
未だ精彩を欠かずともヘイの動きは格段に鈍くなっていた。それでもヴェルの目で追うのがやっとだが、見えずに翻弄されていたことを考えればずっと良い。
鋒がわずかに白髪を掠める。
刃の風切り音だけを残し、ぱら…と散った数本の白を横目に、ヘイが感嘆を漏らした。
「ああ、ヴェルさん!素晴らしいではないですか、動きが見違えるようですよ!」
「腕切られてまで嬉しそうにしてんじゃねぇよ!」
「切り落とされたならまだしも、ハンデだと思えばこの程度丁度良いスパイスだと思いませんか?」
「……てめぇ、マジでイカれてやがるな」
片腕を使えずともなお、ヘイは笑みを浮かべてヴェルの攻撃を躱していた。その口角は初めて出会った時から寸分も変わらぬ角度で上がっている。
どう見ても遊ばれていた。
けれど、ヴェルとて闇雲に武器を振り回していたわけではない。
「おっと」
綽々と避けていたヘイの背がトン、と棚のひとつに当たり、余裕のあった動きは刹那の静止を見せる。
そう、このホールには至る所に棚があった。それもしっかりと床に固定された棚が。
三方を絶妙に塞ぐ形で並び立つそれは、追い詰めるになんと最適だろうか。
無闇に剣を振ったのではない。ヴェルにはよく分かっていたのだ、無策に突っ込んでもヘイに十分届かないことを。
彼にその刃が触れるには、十二分に油断を誘うのが必要不可欠だった。さっきも今もヘイに傷を付けることが出来たのは、ヴェルがこれでもかと弄ばれた後だったのだから。
だから”遊ばせた”。
怒りに任せているように見せて、ヘイが逃れる先を少しずつ誘導していった。
勿論、彼への怒りも苛立ちも間違いなくあったが───小手先を効かせるのは得意だった。ヴェルは力でと勢いで捩じ伏せる脳筋とは違うのだ。
「もっと痛い目でも見て反省しやがれ!」
鋭く空気を裂く剣尖。
繰り出された刺突は真直でも、身を捩るには場所が悪い。
「これはこれは……」
さしものヘイも完全に避けきれるものではない。
そう、思っていたのが甘かったのだ。
金属が硬いものを穿つ音。
微かに反響するその音は人体を捉えたものとは程遠く、ヴェルの手に伝わる感触もまた硬い。
「ぐ……」
予想に反した手応えに指が硬直する。その瞬間、《上から降ってきたヘイが無防備な剣の腹に着地した。
必然、彼の体重が柄を握る掌だけにのしかかり、思わぬ重力に負けた剣先は項垂れるように下を向く。
弾ける金属音。
鋒を支点として、衝撃に弱い部分へと一気に集中した力点は容易に蒼の中心を砕いた。
粉々と散る破片は魔力の伝導性を失い、急激に色を失って鈍色へ。
ヴェルの瞳がその光景をスローモーションのように捉えたときには、既に剣先に引きずられた身体は前に前にとつんのめっていた。
しくじった、と、理解した瞬間。丸まった背部に圧力が加わり一気に床へと引き倒された。
「か、はっ」
重々しいものが背中の上に圧し掛かり肺を圧迫する。それが、ヘイの足だというのは見なくても理解ができた。
「残念ですねぇ。着眼点は良かったと思うのですが」
高い位置から降り注ぐ、憐憫交じりの声が忌々しい。
「周りを見ていないと思っていました?ヴェルさんが小賢しく悪態をついて、無作為に剣を振り回したと見せ掛けたように───僕も同じく遊びに夢中になっているように見えたでしょう?」
「ど、けよ……!重てぇ、な」
「惜しむべくは、逃げ道が"上"にもあるのだと直ぐに思い至れない経験の浅さと……甘さの残る判断ですかね。貴方、僕の肩を狙ったでしょう」
憐憫に、ひと匙の呆れが混じった。
「一瞬、どこを突き刺すか迷いましたね?駄目ですよ、ヒトだからと躊躇っては」
図星を突かれてヴェルは喉を詰まらせた。
その通りだったからだ。
どれだけ外道でも、どれだけ倫理観を欠いても、ヘイはあくまでヒトだった。無機物がヒトを真似た偽物を倒すのとはわけが違う。
砕けてただの鏡に戻るだけの鏡像ではなく、
ヒトは、殺せば死ぬのだ。
「ヒトを守るのが守護者だとしても、僕みたいなのは例外だと指導されてるでしょうに」
「自分で言うかよ……っ」
そう、確かに守護者が守るのは白の世界の秩序でありヒトそのものである。
だからといって無作為に誰しもを守るわけではない。ヘイらのように守護者へ敵意を向ける相手まで守る義理も道理もない。
害なすものは排除も余儀なし。
確かにそれは十分に教わっていたことだった。けれど、たとえヘイにどれだけの憎らしさを感じたとして───躊躇いなく生命を奪うという選択を、ヴェルは取れなかった。
その結果が、これだ。
「悔しいですか?そうですよね。直前まで"いける"と思っていたのでしょうから」
「馬鹿に、しやがって……」
「ああ良いですね、実に良い」
背にかかる重心が動き、声が近付く。
視界の端に白がチラついた。
「ねえヴェルさん、僕がどうしてわざわざサポーターになったか分かりますか?」
ヘイが問う。碌な理由でもないだろうし知りたくもなかった。
拒絶の意味も込めて黙り込むが、ヘイは彼の様子などお構いなしに語る。
「僕はね、自分が感情の機微に疎い分、ヒトの表情を見るのが好きなのですよ。蛇鱗人は残念ながら表情筋が乏しい種族なんです。口角を上げるか下げるか、そんな程度しかできませんからね」
「だから……そんな、うさんくせぇ顔ばっかなの、かよ」
「辛辣ですねぇ。常に真顔よりもとっつき易いでしょう?」
その分あの出来損ないは、出来損ないな分だけまだ表情がありましたねぇ。と、しみじみ呟く姿は自らが手にかけたことなど無かったかのように白々しい。
「サポーターとして様々な場所を巡り、いろいろな方の表情を眺めるのはとても楽しい事でした。趣味だといっても良いくらいです。とりわけ僕が好きなのは、落差です」
「落差、だと?」
「ええ。さっきまで笑っていた者が泣き、泣いていた者が怒り、そんな対極に近い感情の揺らぎが顔ひとつで表せてしまうのは興味深くはありませんか?」
覗き込むようにしてヴェルの耳元で語る声は粘度を伴い、こびりつき、胸の内にくすぶる不快を徐々に大きくさせていく。
楽しそうなのに冷たさを感じるのは、その声の奥にある感情が共感でも哀れみでもなく、ただ純粋な興味と好奇心だけで満たされているからだろう。
まるで対等な相手ではなく、虫の反応を観察しているかのように。
「そしてそんな激しい感情の波を一瞬で途絶させる絶望───その瞬間は何にも変え難い」
陶酔混じりの声だった。
本当に心からそう思っているのだというのが伝わる、そんな声。
「感情という殻が剥がれ剥き出しになり、取り繕いも、努力も、すべてが無意味だと悟るその刹那……ねじれた顔、崩れ落ちる声、そして無力さを悟った目。まるで一枚の絵画が完成するようで美しいではないですか」
ヴェルの肌が粟立つ。
破綻した倫理は、こうも気味が悪いのか。ヘイの言葉自体は理解ができるのに、その内容を理解することを脳が拒んでいた。理解をしたいとも思わなかった。
「だから、サポーターという立場を利用してレベリオンに加担したときには、大変興奮したものです。なにせ、その表情をこの手に余るほど生み出すことができるのですから」
「気持ち悪ぃ……。マジで、イカれてんな」
「ふふ、誉め言葉として受け取っても?」
心からの侮蔑を込めて吐き捨てても、ヘイには一切響かなかった。
「落差はあればあるほどいい。特に、シルヴィアさんのように周りのヒトまで照らす方ほど、その差がより顕著になってとても素敵な表情を見せてくれるのでしょうね」
「てめ、そんな事の為に……」
「あんなに響くとは思っていなかったのですが、想像以上に琴線に触れる話題だったみたいで……あぁ、早く顔を覗き込みたいものです」
彼女は今、少し離れた場所でちょうどヴェルたちに背を向ける形になっていた。肩を震わせていたシルヴィアがどんな顔をしているのか、それはヴェルにもわからない。
けれど家族を引き合いに出されることがどれだけ苦痛かは、身を以って知っているはずだった。
気味の悪さもさることながら、湧きあがる怒りに身じろぎをする。
「早く見たいのも山々なのですが───それよりも先にヴェルさん。貴方のその怒りに満ちた顔も、崩れる時はとても魅力的なのでしょうね。」
ヘイが退く気配はないが、力を籠めれば重たい体はわずかに持ち上がる。
あと少し、あと少しが足りない。
「どうやったらその感情を刮げ落とせるのでしょうか?ねぇ、教えてくださいませんか?」
「───……あああ、もう!!」
せせら笑うようなヘイの声がさらに近付いた、かと思えば、背中の重みが瞬時にしてなくなる。
「ほんっっっとー--にどうしようもない奴なんすね、あんたは!」
凛とした声が呆れと怒りを含みながらその場に響き渡る。
意気消沈し、声を出す気力も失ったと思われたシルヴィアが仁王立ちでそこに立っていた。