06、我人である(4)
ユナックの興奮剤投与が終わると、魔導術師が白い兜を持って来た。バイザーはまだ上がっているが、被ると兜の厚みで横目でものが確認できなくなる。
肩まで覆う喉当ては鎖骨を補強して開けた孔に楔で固定する。喉当てと兜の境に術布が巻かれ、また固定の魔導術がかけられる。この術布の色は個人によって違う。ヨダカは赤地に黒色の魔導語が書かれている。意匠のテントウムシに合わせているのだ。
「キツくないかね?」
「はい。問題ありません」
魔導術師のシーダーの確認に応答する。熱湯を一気飲みしたいがために魔導術師になった変わり者の老漢だ。黒い外套からしわくちゃで刺青だらけの手を出して、ヨダカの下腹部の装具をコツンと叩く。
「ここはキツイだろう? そうだろう?」
「ええ、まだ若いですから。すぐにキツくなって困ります」
シーダーはケラケラと笑った。それに混じってコクトもディグナー隊長も笑っている。ユナックは笑わない。彼の隣に女子候補生がいるからか、それとも興奮剤の効きが良くて他人事ではないからか。
なんにせよ、このシーダー魔導術師の下品なやり取りは出撃準備完了の合図でもある。
「ヨダカくん、鎧の中は汚さぬようにな」
シーダーなりの激励に頷くと、彼は背を向けた。入れ替わりで、青い術布を首に巻いたイルビリアが列に加わる。彼女のバイザーだけは口元に空間を作り、先が尖っている。猟犬面というものだ。
「イルビリア候補生、意気込みでも言っておくか?」
ディグナー隊長がそう言うと、彼女は一歩前に出る。くるりとこちらを向き、垂直に立つその姿は、飾られた鎧兜の人形のようだ。
「全力を尽くします」
その短い挨拶の間、彼女はヨダカの目を見ていた。見つめ返す表情を取り繕う間もなく、索敵隊が一斉に誘導鐘を鳴らし始める。手回しの鐘は腹に響く低音を出し、浮上したキルクルスの注意をこちらに向ける。出撃の合図だ。後ろの飛空機に乗り込む。
キルクルスの軟骨で造った飛空機は十人ほどが乗れる。動力は魔導術だ。飛空はその中でも最高峰。一生を費やしても発動できるものではない。発動の確率を上げる過程において、〈陸からの剥離と空への癒着〉を行い、自身の身体に魔導語を書き、運が良ければ百人に一人が到達するという。
アロイライ領の魔導術師には一人しかいない。ナリーという女性が発動させる。ヨダカがはじめて挨拶をしたとき、こんなに物静かな女性が、空への羨望から足を切り落としたとは思えなかった。分厚い眼鏡と猫を愛でる彼女は右の足首より下と、左の膝より下がない。自らの意思による〈陸からの剥離と空への癒着〉の実行である。自身で欠損させたことにより、療養院には属せない。その功績は軍部が代わりに称えている。
「ナリー、よろしく頼む!」
とディグナー隊長が言う。彼女は機尾の蓋のない木箱の中に座っている。にこりと笑い頷いた。猫を撫でる癖なのだろう。膝の上に置いたクッションを触っている。
「ディグナー隊長、今夜は風が多くありません。七分の飛空時間です」
ナリーはそう言った。飛空隊員にとって風が弱いのはありがたいが、飛空機にとってはそうではない。七分とはいつもの半分の時間だ。昼の出撃が加味されているのだろう。ナリーは雛のように徐々に目を閉じていく。彼女はあくまで動力であり、操縦士は別にいる。
飛空機が射出機に押し出された。床の窪みに座り、横壁のバーを掴む。機体の頭が持ち上がり、重心が後ろに傾く。石弓と同じ原理で飛空機を発射させる。上向きに設置されたレールを通り、高度を得て飛ぶのだ。
「発射!」
と声が上がった。ぐんと身体が後ろへ傾き、コクトの装甲とガチっとぶつかる。機体がレールを滑る音が短く聞こえ、出入り口に扉はないため風が不作為に身体にぶつかる。
短い滑走の最中、開口部の端にいる索敵隊が誘導鐘を落とし、耳を押さえているのが見えた。ディグナー隊長も気付いたようだ。危険を顧みず、飛空機から身を乗り出して確認する。
機体が水平を保つ頃、彼は特に繕う様子なく機内に状況を伝えた。
「残念。二体目が出るようだな」
「戻りますか?」
少し振り返った操縦士が言う。
「いや、基本的なことは変わらないだろう。イルビリアが命綱を付けて一体目を撃墜する。二体目は残りの者でやる。通信、それで確認してくれ」
ディグナー隊長は魔導術師に命じた。
「まあキルクルスのよくあるデートだな。俺も明日が楽しみだよ」
コクトは全く普段の様子を崩さずに言った。
確かに珍しいことではない。深海の母体から離された子供が共連れで浮き上がったのだ。昼に出たのは小さかった。軽くて先に出たのだろう。三体離れたうちの二体が、今から出てくるのだ。三体連続でないことは幸運だろう。
「了承が取れた。みんな酸素を吸いながら聞いてくれ」
バーの下にはキルクルスの骨の箱が備え付けられており、その中にはガラス瓶が入っている。中身は液体に触媒を入れて作り出した酸素だ。ガラスの管からそれ吸う。シナギが言うにはこの薬液は錬金術師が様変わりした結果の産物だと教えられた。いまいちピンとこなかったが、これを吸うと身体がぽかぽかとしてくる。全身のキルクロピュルスが蠢いている気がする。平時心拍四十五の身体がお湯を張った樽に入ったかのように温まる。
「二体目の援護の順番を差し替える。飛ぶ順番はユナック、ヨダカ、コクト少尉、ミオン、アデルだ。コクト少尉、寝るなよ。復唱する」
夜中ということを抜きにしても、酸素を吸うといつもコクトは半分寝ている。許されるのなら自分も眠りたい。他の者もそうだろう。みな血色良くなっている。
「なお攻撃後は自力の飛空で戻って来てもらう。イルビリアが全力で撃つ以上、すぐに処置が必要だ。アデルの降下後、この機体は要塞を目指す。君たちは安全な艀で待機し、連れ立って陸を目指すこと。ヨダカ大尉、取りまとめてくれ」
「了解」
「ではイルビリア、準備はいいか?」
イルビリアは斜め向かいに座っている。バイザーを下げ、彼女の特殊性を示すかのように、猟犬面の口元には酸素供給の管が四つ差し込まれている。
「あの、ヨダカ大尉に昼間できなかったお話をさせてください」
それを断ることは誰にもできない。なんたって今宵は特別なお姫様のデビュタントだ。
「どうぞ、イルビリア候補生」
そう言ったあと、ヨダカは舌で口の中に興奮剤が残っていないか探した。
イルビリアは酸素の管を外し、バイザー上げた。自分の目の前に屈んで立ち、見下ろされる。こちらを見る深い青の瞳は、藍色の瞳孔と相まって、まるでキルクルスを海に閉じ込めているようだ。
「この単独撃墜任務を成功させた暁には、明日よりランプーリ港で催される露店市へ御同伴頂きたいのです」
「……はあ?」
そう言ったのはコクトだ。
堅苦しい言葉を紐解くのに時間がかかったが、つまり二人で露店市に行きたいということだ。まさかの誘いに放心する自分に代わって、返事はディグナー隊長が言う。
「イルビリア! 降下だ!」
「考えておいてください!」
そう言うと、イルビリアはバイザーを下げ、躊躇うことなく、空へ飛んだ。
「……姫さん、頭イカれたのか?」
コクトが囁いてきた。彼はイルビリアのせいでヨダカの故郷が破壊されたことを知っている。
「……引率、という意味ではないでしょうか? イルビリア候補生はなかなか外出の許可が得られませんので」
ユナックが恐る恐る言った。彼もイルビリアとヨダカの関わりは知っている。彼女なら同伴ではなく引率と言えることも、彼はわかっている。
これ以上まわりに気を遣わせれば、さらに苛立つのは自分だ。
「じゃあ、みんなで行こうか」
いつもの調子で笑みを浮かべる。
はたして……どういうことなのだろうか。
イルビリアは今日で禊が終わるとでも思っているのだろうか。
彼女は心液検査を通過していない。
人口骨手術も未実施である。
ある意味で生身の人間だ。
変革剤という薬の投与で、身体の中身を化け物と同化させた研究所の大成である。飛空隊に入れず吐くほど泣いた白頭巾のアカシアのように、戦士たる闘志と覚悟があれば道は拓くことを今夜、真に証明する。
しかし、その礎となったイルビリアには、五年におよぶ投薬は知らされていなかった。
彼女は気付いたら、化け物になっていたのだ。それを知って逃げても、誰も彼女を責められない。
逃げた先で乗った船がキルクルスに襲われ、彼女を救うために迎撃が遅れ、上陸した化け物に大量の人間が飲み込まれても、それが自分の郷里でも、やはり責めるべきではないのだ。
だったら逃げきってくれたほうが良かった、とヨダカは思ってしまう。つまらない冗談など聞きたくなかった。
「切り替えろ! 二体目の浮上が早い! イルビリアの火砲後、降下だ!」
ディグナー隊長の喝で引き戻される。酸素の管を離し、バイザーを下げる。先鋒のユナックが入り口に立つ。
一瞬、太陽が現れたのかごとく、周囲が明るくなった。その薄青の閃光はイルビリア特有の色だ。見事、撃墜したのだろう。
「共食いの前に仕留めろ! ユナック、降下!」
ユナックが空へ飛ぶ。ヨダカは立ち上がり、飛空機のふちに立つと、ディグナー隊長が背中をバンと叩く。
「大丈夫ですよ」
「それなら、いい」
もしもこの出撃に意味があるのなら、それは八つ当たりだ、とヨダカは飛空機のへりを蹴る。
やっと出撃できた……