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54、銀の錠前(5)



 ドスンと着地した。意外にも、背中が軽く痛むくらいだった。何かに包まれるように温かい。血が流れているのだろう。ああ、馬鹿なことをしてしまった。死んだ祖父母に会ったら怒られるだろうと思い、じわりと涙が溜まる。


 しかし聞こえたのは耳をつんざく怒鳴り声だ。


「てめえ、こんな時に馬鹿かよ!」


 ばちっと目を開ける。太陽を吸い込んだ焼けた肌の胸板があった。見上げれば、黒髪に赤い目。昔、つぶらな瞳ですねと言って、殺すぞと返ってきた男。ハモネイの主砲と呼ばれている。


「……ゼオ」


 辺りを確認すると、地上まであと十メートルの空中だ。ゼオが抱きとめてくれている。


「胸糞悪いことしてんじゃねえ!」


 彼は鎧を着る途中なのか、上半身が裸だ。その肌から感じる温度で安心し、そして援護隊が彼で良かった、と率直に感謝する。彼は足の装具だけ、常に身に付けている。気に食わない相手を硬い装甲で蹴るために。


 エマは死の恐怖が詰まった肺の空気を残らず吐き、高鳴る心臓を抑えるために口を開く。


「……これはね、身投げじゃないんだ。出撃だよ」


「じゃあ、正真正銘の馬鹿だな! 鎧が一つもねえ、どうせ酸素もねえ、んな出撃生まれてこの方見たことねえ!」


「……何でそんな馬鹿を助けたんだよ」


「昔、俺に賭けたよしみだ。そうじゃなきゃ、放っておいた!」


「なるほど。わたしは五万負けた分を、今取り返し——」


「てめえ! 負けたとか二度と言うなよ、クソガキ!」


 無作法に心得のあるハモネイ兵のくせに、五万賭けたおまけか、ビタビタに濡れたズボンには触れない。素直に礼を受け止めるとは思えないので、クソガキと言われる筋合いはない事を説明する。


「ガキと言っても、きみとそう歳は変わらないよ。そうだ、思い出した。わたしよりも年下——」


「うっせえ! そういう能弁垂れるところがガキくせえんだよ! 貴族らしく黙って助けた褒賞用意しろ!」


「わかったよ、そうする。だからガキみたいに叫ぶなよ。鼓膜が破れそ——」


「てめえ、ガキって言ったな! 落とすぞ、この野郎! 体で払わすぞ!」


「グルス族が婚前交渉か。この情報は民俗学者に売れるよ。さて、分け前はどうす——」


「てめえ、黙れっ! いい加減にしろ! 叩き落とすぞ!」


 ゼオが罵詈雑言を叫びながら降下すると、すぐに彼の副官が大きな体を揺らして駆けて来た。


「お久しぶりねぇ、エマ大尉」


 そう言って、片目を瞑る。


「カルロットさん、お久しぶりです」


 もう六十が近いというのに、カルロットの肉体は出会ったときのままに思えた。キルクロピュルスの影響ではなく、日々の鍛錬の賜物だろう。盛り上がった筋肉をローブの隙間から覗かせ、太い指で器用に〈冷却〉用の布を、ゼオの足に

巻いていく。


「こいつは鎧無しで飛ぼうとしたらしい」


「あら……、では出撃準備は速やかに行いますね」


 カルロットはにこやかに言いいながら術を強め、ゼオの足から冷気が上がった。処置が終わると、港に併設されている宿舎の扉をカルロットが開ける。抱えられたまま中に入ると、廊下には洗濯物がカーテンのように吊り下がっており、衣類の隙間で、鎧を付けるゼオ隊の面々がこちらを見た。


「よう、痩せっぽっち。久しぶりだな」


「ドミトマの木の瘤があるぞ。絵札でもやるか?」


「いいね。わたしは勝つまでやるよ」


 そう答えると、懲りてねえな、などと笑われる。


「じゃあ昔みたいに、有り金全部持って来いよ」


 返事しようと口を開けるが、ゼオが手で払った布が顔に当たり、塞がれた。タオルにしては長い。おしめだろうかと思っていると、廊下の一番奥でエマは下ろされた。


 ゼオはらしくなく、小声で言う。


「上で何があった? 何で警鐘が鳴らねえんだよ?」


「……それは聞かない方がいい」


「ちっ、助けなきゃ良かった」


 彼は近くの木箱に手を伸ばすと、鎧の下に着るキルトを出し、何事か考え始めた。


 宿舎に響く子供の声を聞きながら、知っている事を伝えるべきだろうかと迷う。しかし、どうやって伝えたら良いのだろうか。


 エマの勘が正しければ、マリアはキルクルスを上陸させるつもりだ。理由はヨダカとイルビリアの婚姻という意味不明なもので、詳細を考えようにも、煙草と酒と時間がないから無理だ。


 それに丘の上で起きたことを馬鹿正直に言ったら、この宿舎にいる者は口封じで全員殺される。マリアがやらなくとも、帝国のためと言っていた以上、ハモネイ辺境伯や共闘軍が始末する。何となくではなく、そう確信している。


 ふと、視線を感じて見上げると、ゼオがこちらを見下ろしていた。


「なあ、エマ。警鐘が鳴らねえのも異常だけど、お前がそこまで焦るのも異常だ。絵札で有り金スったときしか見たことねえ。子爵大佐の侍女のババアが負け分払いに来たときだ。何があったんだよ? 何で警鐘が鳴らねえんだ? アロイライは出撃しねえのか?」


 ゼオは真摯に問うてきた。


 彼が少尉や隊長になれたのは、他者の利害を考えられるところだ。度が過ぎればお人好し、聖人となれば博愛と言われる心が少しはある。


 そんな彼が獲殺される予定を立てる訳にはいかない。


「……揉め事があったとしか言えない。でも、ゼオたちが飛んでも問題ないはずだ」


「いや、大有りだ。俺たちは今回、撃墜の確約がねえんだよ。俺たちが仕留めちまったら、後から共闘軍のジジイ共に、クソ程嫌味言われんだよ。なあ、あのデカブツは仕留める気があるんだよな?」


 エマの胸ぐらを掴んでゼオが睨む。デカブツとはヨダカのことだろう。


「あるに決まってる。絶対に彼は来る。ここは彼の故郷だ。でも、上で……モタモタとしているから、わたしは飛び降りたんだ……」


 ゼオは胸ぐらを離し、何度か頷く。そしてキルトを羽織った。


「なら、いい。面倒くせえし、時間がねえ。単純な話にしようぜ。俺は共闘軍に所属する、クソガキ準男爵の馬鹿な命令に逆らえなかった。それでいいだろ?」


「……うん、ありがとう」


「俺はお前が死のうが、それでシラを切り通すからな。装具は付けてやる。あとはお前の好きにしろ。それから、てめえは貴族だ。俺が怒られるんだから、ここで着替えろ。無駄に部屋覗くなよ。で、鎧はどこだ?」


「予備が昇降機の横の小屋にある。でも厳重に保管されていて……鉄扉だし、鉄箱に入っている。見張りは……いないと思うけど」


「鉄か。サザメ! 昇降機の横の小屋ぶっ壊せ! 中にあるエマの鎧持って来い! お前が気に入る魔導具があったら、ちょろまかしてもいい! 駄賃だ! もちろんエマ大尉殿が責任を取る! ……だよな?」


「うん。冗談抜きで、あれは身投げじゃない。出撃だ。命令は……まだ出てなかったけれど」


 はんっと、短く笑われた。


「好きな男の故郷のために焦ったのか?」


「昔から言ってるが、それはきみの勘違いだ」


「どうだかな。おい、誰かキルト着るの手伝ってやれ! お前は早く脱いで、早く出てけよ」


「わかってる。ありがとう」


 ゼオが洗濯物の間へ消えると、シャツや下着を脱ぐ。これからやるべきことは、まずユナックの行方だ。おそらくこの近くにいるはずだ。そう考えていると、女が洗濯物の間から現れた。


 自分の背丈では、おんぶ紐で強調された胸元にまず目がいく。視線を上げて薄い茶色の目、丸い鼻に刺さった飾り、髪を隠すように巻かれた布を見る。数本垂れている黒髪には緑が混じっている気がした。年のころは二十五、六か。彼女は繁々と、エマのあばら骨がういている体を見た。そして鼻で笑った。背の赤子も輪唱するようにケタケタと可愛らしい声をあげる。


 挨拶をしようと、急いで記憶から名前を引っ張り出す。


「セレナ夫人、お久しぶり」


 すると、女は顰め面になり、両方の掌をこちらに向ける。ストラ島特有のブナの実の刺青があった。実を守る厚い皮が花のように割れ、中央に硬い殻で覆われた堅果がついている。グルス族に吸収されたネネム族だ。


「あたしはヨーミイ。セレナは前の前の奥さん。あたしは前の夫と八人子供作って死なれたから、ゼオとは別れない。さっさっと後ろ向いて。キルトの紐結ぶから。で、あんた誰?」


「……これは失敬。わたしはエマ・フィオリ。金ボタンの将校だよ。訳あって、ここで出撃準備をさせてもらう」


「ふうん。どこ出身?」


 背を向けた彼女は料理中だったのか、何かを炒った香ばしい匂いがした。


「アロイライ領、ビスガット。父はイマルク、母はソフィ。ディグナー男爵家より命じられた、歴とした墓守の家の生まれだ。兄妹はいない。髪と目の色は、父方の祖父から譲り受けたが、わたしの知る限り、彼は魔導術はやらなかった」


「あんたは植物魔導をやるの?」


「……わかるんだ?」


 誰一人として言ってないのに、何でわかるんだ、とエマは鼻腔が膨らむ。


「そう。わかる。おばあちゃんと同じ体臭がする」


 匂いに敏感となると、料理魔導に精通している者か。


「切望は〈連なり〉?」


「いや、〈開花〉」


「ちっ、貴族ってやっぱり嫌い」


 ぴくぴくと鼻が膨らむ。ユナックは行方知らずで、アンジトックへは危機が迫っているというのに、初対面の人間とこのような会話で興奮してしまう。


 料理魔導を愛する者からは〈連なり〉は歓迎され、〈開花〉は食えぬ草を生やすなと毛嫌いされているが、とエマは唇を舐める。


「ヨーミイ、聞いてくれ。父方のおばあちゃんが〈開花〉ができる魔導術師だった。対価が屁か糞になるまで練り上げて、発動に成功したんだよ」


「糞に血は混ざる?」


「最期は多少混ざってた。しかし、七十六まで生きた」


「……それは凄い。あ、思い出した。昔、おばあちゃんが、アロイライに花畑のお墓があると言っていた。あんたのおばあちゃんの名前は何?」


「アンルー」


「それだ、その方だ」


 くくっとエマは口を隠して笑う。


「アンルーは夕方、プープー屁を鳴らし、墓場に種を撒くんだ。子供たちは皆、墓石の前で笑い転げ、腹が減り、家に帰る」


 ヨーミイは正面に来て、薄茶の瞳でじっとこちらを見た。


「継ぎたかったんだね」


——子供は笑うのが一番よ。


 歯を見せず、上品に笑う祖母の言葉だ。しかし切望のために、下品を貫いた魔導術師の言葉。


 急に核心を突かれると、思い出が駆け巡る。そうエマは学んだ。


「……昔はね」


 不思議だなと思った。ヨーミイはマリアと同じく、勝手にエマの大切な部屋を開けたのに、全く嫌な気はしない。


「あんた、本当はいくつ?」


「三十五」


 ヨーミイはキルトを着せていた手を止め、両手を見て数唱する。


「四十まであと五年?」


「そうだよ」


「あんたが魔導の門を開けること、あたしは願う」


 ヨーミイはそう言うと、両手でエマの頬を包んでくれた。胸が熱くなる。


 魔導術師は四十という年齢が引き金なのか、目覚めなのか、魔導の門が開かれるとされる。二つの術しか発動できなかったエヴダマ大導師も、一つも発動しない落ちこぼれだったディディ女史も、四十歳から紫目を凌ぐほどの術を数々発動させた。


「……ありがとう。きみも新たな魔導の門が開け放たれること、切に願う」


 そしてエマは首を振る。素敵な出会いに感動している場合ではない。手早い彼女のおかげで、もう着替え終わる。


「ヨーミイ、ユナックという少年を知らないか? 探してるんだ」


「その子はあんたとすれ違いで村に行った。警鐘が鳴らないから、みんなに知らせに行った。あたしの一番上の息子アレジェと走って行った」




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