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51、銀の錠前(2)



「な、なぜ! アーザッ——」


 副隊長の声が不自然に途切れる。エマは隠れるようにさっと寝転び、縁の端から見下ろす。


 血塗れた剣を振るっているのは、ディグナー少佐の次男アーザック騎士だ。逃げようとした副隊長の首根っこを掴み、引き寄せ、剣を腹に刺す。副隊長の口がぱくぱくと動いているが、何も聞こえない。刺されても悲鳴を出さない不屈の男かもしれないが、恐怖に顔を歪めている。確実に〈遮音〉が発動している。


 ……さて、どうするか。


 真っ先に考えたのは、ヨダカの養子ユナックの事だ。散歩仲間の彼をアンジトックへ連れて来たが、もし自分を探してこの場に来たら。


 さっと、背筋が寒くなる。ここからすぐに離れた方が良い。しかし、梯子をカタカタと下りなくてはならない。


 アーザックの行為がディグナー少佐の謀反ならば、エマも殺されるだろう。しかし、ディグナーはマリアの事を心酔している。彼は優秀で強い者が好みだからだ。ならばこれはマリアの命令だろうか。


 ……まあ、そうだろうな、とまた憤る。


 死体が転がる地面を目指し、何も考えずに梯子を下る。いつ音が聞こえるのだろう、と身構えていたが、最後の一段を降りても何も聞こえない。馬鹿真面目の〈遮音〉だ。範囲で限定し、聴覚を割り振りできていない。振り返ると、こちらを見る青ざめたアーザックとハドラックがいた。


 エマはしゃがみ、腸が溢れている副隊長の瞼を撫でて閉ざした。鐘を鳴らそうと、レバーを見たが乱暴に壊されている。ちっと舌打ちをして、呆然とする馬鹿を置いて、その場を去る。


 小走りで基地の端、崖際の昇降機に向かう途中、倒れた索敵隊三人が血溜まりをつくっていた。あの女は殺すしか能が無いのか、とざわざわと怒りが体を駆け巡る。


 昇降機に着くと、魔導術師であることを忘れた女と数人の技官がいた。


「エマ、久しぶり」


 到着した直後なのだろう。マリア・フィオリ大佐が着る白色の制服のズボンに皺がある。


「あら、顔色が悪いわよ。夜更かしでもしたの?」


 死ねよ、と心中で叫んだ後、長く息を吐いた。文句を言う場合ではない。キルクルスが出ているのだ。


「下に行きましょう」


 シャツのボタンを外しながらそう言うと、マリアはピクッと眉を動かした。


「どうして?」


「どうしてって……」


 鎧があるからだ。水翼船に積んである。それを船上で着て、いつも迎撃地点まで運ばれる。「悪いけど頑張って」そう言われて出撃するのだ。


「どうして、私たちが下に行くの? 何の用事があるの?」


 その言葉にエマは生唾を飲み込む。


 状況がやっとわかった。いや、索敵隊を殺している時点で理解はしていたが、納得できていなかったのだ。いくら何でもないだろう。その思いで、昇降機まで来るのに徹した。ぐつぐつと煮えた怒りが、すっと冷え込む。


 キルクルスがアンジトックへ来ているが、警鐘は鳴らさない。出撃の準備もしない。マリアはそう決めたのだ。


 彼女は白い手袋を外した。整然と彫った魔語を見せ、小指の根本、中指の第二関節、親指の爪を光らせている。おそらく〈睡眠〉の発動を意味する。エマの十六歳の体で気に食わない所——胸が大きいところ、脇毛や陰毛が濃いなど——があると、彼女は自分を眠らせて氷漬けにし、変更する。その前日に見る光の位置だ。


「エマ、返事をして」


 輝く豊かな金髪と、形の良い額。そこから続く鼻筋は、誰の目にも留まる横顔を造り、丁寧にひかれた唇の紅は白肌に唯一の血色を与えている。整えられた眉の下、双眸の色さえ違えば、公爵夫人になれただろう、と口を揃えて皆が言う。


 なれば良かったのにと、エマは心底思う。ああ、何故、この女に紫目が与えられたのだろう。魔導の門は開け放たれたのだろう。


 魔導術は火で焼きたい相手がいるならば、相手を焼く火にまず自分が焼かれねばならない。それは基本であり、皮膚が焦げるとはどういうことなのか、それを知らねばならない。溶ける皮膚に痛みを感じる時、何を思うのか知らねばならない。知らないで発動するなど甘い道ではない。


 しかし紫目はこの工程を飛ばす。先天的に魔導発動を約束されているからである。


 そして〈模倣発動〉。その刺青さえ彫れば、他人の人生を賭けた術を踏襲できる。加えて帝国は彼らの対価を代わりに受ける〈発動人形〉の使用を許可している。


 努力を喰らう化け物。神の申し子。馬鹿げた存在。特別な人間。凡人が願うのはただ一つ。人の心を持つ優しい人でありますように。


 しかしマリア・フィオリはその願いを薙ぎ払う。


 子宝に恵まれない貴族の待望の長子として生まれ、体に彫った魔語はせめてレースに見えるよう、他の者に彫らせている。



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