05、我人である(3)
夜半の鐘は誰でも良い思いをしない。赤子は起きるし、酒は不味くなるし、眠気で身体は重い。
ヨダカは本を閉じた。ランプーリ要塞の飛空隊仮眠室には数冊の本が置いてある。どれも前にいた飛空隊員の持ち物で、図鑑ばかりだ。特に花の図鑑が多い。
本を棚に戻すと、ベッドで寝ているコクトを起こす。彼が寝たふりをしているのは承知だが、声をかけないとヨダカが叱責される。
「コクト、行こう」
「あと十分は寝れる……」
「十分後に行ったら大問題だよ。鐘が鳴ったら、二分後には上にいないといけないんだぞ。ユナック、きみも起きてるね?」
「……はい」
普通の兵士ならば飛び起きて身支度をするのだろうが、飛空隊員は低体温でありそれが起因して、寝起きがすこぶる悪くなる。
「ぼくは先に行く。君たちも急げよ」
通路側の扉を開けると、イルビリアとばったり会ってしまう。彼女も驚いたようだ。
「急ごう」
そう言って彼女の前を早足で進む。他に二人の女子候補生を連れ立って、隊舎の区域から上へ登る。
「君は上にいると思ったよ」
「上で寝付けず、仮眠室で待機を命じられました」
「そう。夜中の初陣なんて、大変だね」
平然としろ、とヨダカは自分に言い聞かす。今の言い方は同志としていささか冷めたいぞ。
辺境伯邸を見下ろす位置、要塞上部は飛空機の発射場になっている。イルビリアが登場すると、すぐに研究員に囲まれた。ヨダカの元にはシナギが来る。
「寝てた?」
「うん、まどろんでた」
本を読んでいたことは伏せた。眠れないと言ったら、眉間の皺を深くさせてしまう。
他の研究員達が衣服を脱ぐの手伝ってくれる。ヨダカはベルトを外して、下着を取る。
身体中に空いた穿孔に夜風が吹き込む。ヨダカの一六五センチの背丈で、六十個。各隊員の小指を基準とした大きさで、装甲するために骨も貫通している。こんなに穴の空いた身体で、コクトはよく恋人ができたものだ。
薄めのキルト生地でできた肌着を着込む。鎧の部品を当てがい、穴の上下から白い楔を打ち、最後に魔導術で固定する。肌着ごと貫通させる楔を金槌で仮止めする音は、避難警鐘と混ざる。
「砲身が真新しいね」
傷一つない白い籠手が取り付けられた。
装甲は体重の二割程度でまとめられている。火砲を打ち出す籠手は砲身と呼ばれ、他の部位よりも大きい。よく磨かれており、鏡のように光を反射している。
シナギは微かに笑った。
「これ、新作」
「馴染みがいいね。テントウ虫の絵も上手だ」
ヨダカも笑顔で答える。関係性の濃密さを知る研究員たちの前では無礼講が許される。
「シナギが彫ってくれたの?」
「そうだよ。四葉も添えたの」
手の甲には小さく丸い虫が四葉に乗っている。テントウムシ虫は自分の識別記号だ。意匠は胸に、背中に彫られている。
「忙しいのに……。ありがとう」
シナギの眉間の皺がスルッと消えた。照れたように笑う。
白い骨の装甲で肩から下が固められると、黒い外套を来た老夫たちが正面に来た。
「魔導術の発動をします」
六人の魔導術師がそれぞれの楔に固定の術をかけていく。複数いるのは彼らが死ねば担当した楔が外せなくなるからだ。打った楔が更に奥を目指してギチギチと鳴り、薄紫の光が灯る。
全ての工程に痛みはない。その理由をヨダカは聞けていない。長らく飛空兵をやっていても、一向に聞きたいとは思わなかった。痛みすら共感できない悲しみはまだ胸に刺さっている。仕組みを聞いてしまったら、それすら感じなくなる気がする。
楔が完全に打たれると、老夫たちは次の兵に向かう。見ればユナックだった。コクトを探す。いない。
「シナギ、コクトはいるかな?」
「いるよ。金槌で、叩かれてる」
よく聞けば、出撃準備の喧騒の中にカンカンと響く音がある。警鐘は終わっているし、普通あんな音がするほど楔は叩かない。近くに行ってみると、一人の軍人が楔を殴っている音だった。
「ヨダカ……助けてくれぇ」
コクトはまだ眠いのか、半目であくびをした。これくらい無頓着になれれば、とヨダカはある意味で憧れている。
「黙りなさい」
ぴしゃりと言ったのは楔を金槌で容赦なく叩く女性だ。軍服の肩飾りよりも美しい金色の髪に、先天的な魔導を示す紫の瞳。マリア・フィオリ大佐だ。子爵当主でもある彼女は研究所の所長兼、魔導術隊の隊長である。本国にも轟くその美貌は、いつになっても衰えない。どうしてあの子爵令嬢が結婚できないのか、と言うのは共に仕事をしたことがない者たちだ。人里を襲う魔獣の方が可愛いと言ったのは、コクトだったか。
「今夜は一分遅かったから、明日一日、装甲を外さないわ」
「そ、そんな‼︎」
コクトは悲鳴をあげたが、フィオリ大佐は金槌を無造作に床に放り、魔導術を発動する。濃い紫の光がコクトの楔に灯り、吸い込まれていく。
「人を助けるための、鎧を罰の代わりにするなんて……」
「黙りなさい。あなたがハモネイ領の兵士ではなかったら、わたしは丸坊主にして耳を引きちぎって、給金など与えていないわ。でもね、待っていなさい。アロイライに兵籍を移す手筈が整ったら必ず実行してあげる。それまでにカツラと耳を用意しておくことね」
コクトは嘆きながら、研究員たちに連れて行かれた。
何度このやり取りを見たか、とヨダカは呆れる。これに巻き込まれたくないので、鐘が鳴れば急ぐのだ。
こちらに気付いたフィオリ大佐は額に溢れた髪を直しながら言う。
「こんばんは、ヨダカ大尉。この前、研究所に来たときはお茶でもしましょうって言ったわよね? いつ来るの?」
シナギと顔を見合わせた。
「二人でお伺いしましたけれど、追い返されましたよ」
「あなた、ディグナー中佐に煙草だけじゃなくてつまらない軽口も仕込まれたけれど、嘘は軽口にはならないわよ」
「パンを食べながら、第五水球体を解体してましたよ」
とシナギが言うと、フィオリ大佐は考え込む。あのガラス玉はキルクルスの一部だったのか、とヨダカは思った。よく食事をしながら、そんなことができるものだ。
「……それ、一昨日?」
「ええ。一昨日の昼時です。差し入れのナッツ菓子は僕らからです」
「あら、やだ。私、別の人にお礼を言っちゃったわ」
「食べてくれたのなら良かったです。またお伺いしますね」
「ええ、是非。紅茶をご馳走するわ」
ヨダカもシナギもそんな日は来ないだろうと、笑う。
「ところでお忙しいのではないですか?」
「ここまでくれば、あとは落ち着いていられるかが問題になるくらいよ」
フィオリ大佐の手は魔導語の紋様が描かれている。まるで黒いレースを纏っているように美しい。その人差し指を右耳の赤い石にかざす。周囲の音を拾っているのだ。
「キルクルスの大きさも平均的、雨もない、風も凪いでいる。飛空機は整備完了、覗き見していた他領の野良猫も捕まえた。素晴らしくブチ殺しがいのある月夜よ」
フィオリ大佐は子爵らしく貴族のアクセントでそう言った。ストラ島では淑やかさは歳を重ねると失われるのですね、とは口が裂けても言えない。
「ヨダカ大尉、アロイライ辺境伯もいらっしゃるけど、緊張しないでね」
「善処します」
彼女は白い軍服の裾を翻し、本日の主役イルビリアを囲む人集りに向かった。
シナギがコツンと装甲を叩いて何か言った。格納庫の扉が開かれる音が、彼女の声を掻き消す。口元に耳を寄せる。
「お祈りしたい」
ヨダカは頷く。重くなった腕を伸ばし、白い籠手のテントウムシに彼女の手がのる。飛空機を射出機に乗せる整備士たちの掛け声のなか言葉を聞く。
「山羊小屋の旦那さんが、祝いの席でチーズをスープにかけてくれた。私、びっくりしたの。だってどんどんかけてくれるから。旦那さん、私の驚く顔を見て、かけていたのよ。それに気付くまでずいぶん時間がかかかったわ。だって明確な答えがないんだもん。でも、その仕組みを理解した途端、チーズは少なくなったの」
シナギは一言一句間違えないように言った。これはヨダカとシナギの儀式なのだ。出陣の前の儀式。
「ジールさんだ。覚えてるよ」
麦芽酒の泡の髭をちゃんとハンカチで拭う人だ。孤児院の子供たちに腸詰肉を振る舞って、自分の分が無くなるお人好し。
「あのときのこと鮮明よ。その旦那さん、私を子供でないと判断したとき、確かに哀しそうにしたの。ねえ、大人って子供を共有しているのかしら。私は山羊小屋の旦那さんの子供ではないのに、あの人ったら、私に同情したの。大人になった私に悲しみを向けたの。さようなら、って聞こえた。私もいつか言うのかしら。さようなら、って」
「シナギ、さよならなんて言わせないよ」
彼女はポケットからハンカチに包まれた一粒の赤い丸薬を出して、ヨダカの口へ入れる。
ここまでが二人の習慣だ。ヨダカはシナギがなぜこの儀式を始めたのかはわからない。しかしなるべく彼女のしたいようにさせたい。
「怪我、気を付けて」
「うん、行ってくるね」
シナギに背を向けて飛空機へ走り出す。
フィオリ大佐と研究員たちはイルビリアをまだ囲っている。その横をすり抜けて、飛空機の前で待機する。中にはすでに操縦士が乗っていた。
アロイライ辺境伯の激励でもあるかと思ったが、それもないようだ。発射場の隅の方に、騎士で固められた護衛の中で立ち見しているだけだ。
「フィオリの婆さんが余計なことするな、って隅に追いやったんだ」
隣のコクトが囁いた。ヨダカは念の為、釘を刺す。
「フィオリ大佐は集音の魔導術を使えるよ」
「今なら何言っても怒られやしねえさ」
覚えていたのか、と苦笑する。
「あの婆さんが辺境伯閣下に事あるごとに噛み付くから、ディグナー隊長が板挟みで老けてくんだ。あのくたびれ具合。ろくに家に帰れてないのは見てわかるだろ? お可哀想に」
「コクト中尉、聞こえてるぞ」
目の前にいるのだからそうだろう、とヨダカは笑った。
イルビリア以外はすでに整列している。索敵隊が海側の開口部にいるのでわからないが、キルクルスを海面に確認できるだろう。
ディグナー隊長の元へ飛空機の整備士が来て、短い言葉を言った。それに頷くと、彼は話し始める。
「飛空機の射出準備が整った。キルクルスは平均的な大きさで一匹だけだ。それをイルビリア候補生が撃破する。必要があれば、君たちが援護、あるいは追撃する。いつもどおり通信を聞き逃さず、方角を失わず、冷静を心がけてくれ」
「そして、できるだけすんなりと降下しろ、ですよね?」
コクトがこちらを見て茶化すように言う。
「順番を守ってるんだ」
「そういうことにしといてやる」
普段の無作法で破天荒なコクトだが、潔さは良い。ハモネイ領の精鋭たちに磨かれたのか、自暴自棄の進化なのか、装甲に不備があったら、海へキルクルスへ真っ逆さまというのに、躊躇いなく空へ飛べる。
コクトを挟んで並ぶ候補生たちも降下の訓練は十分に受けているので、すんなりと降下する。ここにいる者で、海に落ちた恐怖はヨダカとユナック以外は知らない。
「ユナック、念の為に打つぞ」
青ざめてガチガチと装甲を鳴らしているのは、コクトを挟んで並ぶ彼だ。
副官がペンシルのような器具をディグナー隊長に渡す。先に付いている針をユナックの首元に刺した。その間、ユナックは短い言葉を繰り返している。
飛行兵には「我人である」という言葉がある。
飛空機から海へ飛び降りるのは、自分の意思なのだ。決して他者がそれを強要すべきではない。なぜならば、自分たちは人間なのだ。兵器でも、化け物でもない。それを示すために、出撃の降下は自身の勇気に委ねられている。
クソ喰らえ、とヨダカは口に入っていた興奮薬を噛み砕く。
自分が飛ばなければ、道で臆病者と石を投げられるだろう。飛ばなければクズなのだ。敵前逃亡を死罪として許さぬ軍に、戦うしか選択肢のない自分のどこに、人間性があるのだ。
道徳など利便でしかない。捏ねくり回して都合のいい形にするだけだ。人が造るものはだいたいそうだ。そこに飛空隊を入れたいがために「我人である」と言わせているだけだ。
おまえはもう人間ではない。そう言ってくれた方がマシだ。そうしたらすべて関係なくなる。
でもたぶん自分は全てを断ち切るなどできないだろう。
口の中で錠剤が溶けていく。今日は葡萄の味か、とヨダカは味わった。シナギが造る興奮薬はいつも甘い。