46、オルタナシア療養院研究所(5)
左腕の厚みが戻ると、見舞いの許可が降り、午後の病室は賑やかになった。メリアンを筆頭に女子候補生が来て、イルビリアが酒保から煙草を手に入れたと渡されたが、その本人は少尉補としての仕事があるらしく不在だ。
「お茶はいるかい?」
アカシアがポットとカップを持って病室に顔を出した。たとえ入院していても水差しの水を飲め、茶が飲みたければ食堂に来な、とばっさりと言うのに。珍しい事もあるものだと思ったが、横たわる自分の枕元に煙草の包みを見付けてカッと目を見開く。
「ちょっと、ヨダカ! あんた療養院で煙草を吸うつもりかい!」
「アカシア、これは見舞いの品だよ。さすがにここでは吸わないよ」
「嘘吐きだねえ。この前、下の繕い部屋でスケベジジイと一服したのは匂いでバレてんだよ。今度吸ったら、尻を蹴るからね!」
そう言ったアカシアは女子候補生たちがお茶汲みの手伝いを申し出ると、ふわりと顔を綻ばせる。子供が生きていれば歳の近い少女たちだ。ヨダカには向けない慈しみを感じる目で、熱いから気を付けるようにと話している。
アカシアのわかりやすい贔屓を眺めながら、三日前の出撃の時に見たしおらしさは幻覚かもしれないと感じる。そうだとしたら、いきなり彼女の名を叫んだ自分はさぞ気味が悪かっただろう。
女子候補生に茶が行き渡り、アカシアが退室すると約束の話を始める。話はユナックが十歳のころ、サリエ少佐との出会いからにした。もちろん誇張するのは忘れない。歳の差の恋愛話は平穏で安心と富を与えるものか、劇的で耽美で波乱に満ちてなくては。もちろん劇的を選んだ。
「十一歳のとき、ユナックがぼくに相談したきたんだ。友達がある年上の女性から求婚された、と。好きかどうかわからないけれど、胸がドキドキする。だから断れなかった。どうしたらいいか。友達思いのユナックは涙ながらに話していた」
まだ開始から十分だというのに、廊下から靴の音が聞こえる。走るのを我慢するような足音なので、入ってくる人物はわかった。メリアンとアデルが顔を見合わせてクスクスと笑い、ユナックが汗を光らせて扉を開けた。
「ノックがないぞ」
彼は病室の全てに焦っていた。各自の持つカップの茶の残量を見る。それで幾分落ち着いたのか、制帽を取り起立の姿勢をつくる。
「失礼しました。自分にとっては有事に近い心境でして」
それから女子候補生たちを睨む。
「メリアン、僕も一緒に行くと伝えたはずだが⁉︎」
「お言葉ですが、時間が合えばお知らせしますと申しました。今、ルイズの追試で女子は手隙になりましたから、私たちは一足先に来たのです。ユナック少尉補は試験監督ですので、誘うわけには……」
メリアンはしなしなと芝居がかった声で言った。
「それはイルビリア少尉補に代わってもらうことくらいできる。だから隊長、僕も同席の許可をください」
茶を一口飲んで、肩をすくめる。
「遠慮してもらいたいな。きみがいると、サリエ少佐の正気を疑う話しかできなくなる」
「それが事実じゃないですか! 僕が被害に遭っていることを伝えてください!」
致し方なく同席を許すと、ユナックの訂正が都度入れられ、やはり事件性を帯びる話に転身してしまった。自分はサリエがどれだけユナックを本気で愛しているのか階級でわかるが、他の者はピンと来ないだろう。この集まりがゴルグランドの耳に届くとマズイので、簡潔に早送りで進めるしかない。
そういった仮初の気楽な時間はその日で終わった。腕の包帯が取れれば、やらなくてはならない事と直面する。ヤケに近い気分なので、ユナックをからかうことで気が紛れるかと思ったのだが、盗人行為を赤ん坊の頃から知っている女性に働くのだ。何をしても気は紛れない。
翌日の昼食後、療養院を退院にした足で一旦外に出て煙草を吸った。
今日を含め、サリエ隊が出立するまであと五日だ。投げ出したくなるくらい時間がない。しかしやれる事をしなければ、馬鹿みたいな未来が迫り来る。
手筈は整えてある。一昨日、シーダーにシナギへ言伝を頼んだ。お茶でもどうか、忙しいなら地下に行く、と。それはいつも通りすんなりと了承を得た。先触れを出せば、日時などの変更はあれど断られたことなど一度もない。
煙草の煙を吐くと、丘を駆け上る海風が白煙を散らす。
自分は特別故にシナギから寵愛のようなものを受けているのだろうか、と考える。フィオリ大佐は魔導術を発動できた唯一の飛空兵エマに甘かった。五年前に姿を借りたヨダカにはからきしだが、エマは大佐にねだり高い魔導具や本を貢がせていた。しかしそれでも地下へ入れる権限は無かったはずだ。
自分が地下に入れるのは何か意味があるのだ。それが何にせよ、もう後戻りはできない。エレノカに悲哀を想う軍人を簡単に殺した連中に協力しているのだ。無能な者は邪魔だろう。
ふと冷静が舞い降りる。
もし木板の情報をサリエたちが読み取り、何かに選ばれている自分が邪魔者になればどうなるか……。
消されるのだろうな、とヨダカは煙草を捨てて踏む。しかし、まあ、それは仕方ない。
自分が死に、他の飛空兵が助かるのなら、ユナックや見舞いに来てくれたアデルたち、それからオレンジ色の瞳も溶けないのだ。だから本望に近い。故郷を潰した身でこれ以上、我儘は言わないつもりだ。
でもかなり足掻くだろうな、と予測する。失禁して命乞いをして、泣き叫ぶのだ。サリエの欲しがるユナックの成長期に起きた秘密なんて簡単に話すだろう。で、その後死ぬのだ。帝国に反旗を翻す覚悟を持った奴らは振り下ろした剣は止めない。
そうならないように祈るしかない。やるべき事と知りたい事が重なっているのだ。
命くらいしかめぼしい財産がないのは辛いな、と笑いながらまた療養院の扉を開ける。
講堂に入り、その奥、祭壇横の小部屋に進む。初夏の空気を吸い込むような暗い縦穴があり、檻のような鉄籠の昇降機で塞がれ、床には僅かに闇の淵がみえる。
見張りの騎士に籠の扉を開けてもらい乗り込む。
「降下、開始」
騎士の一人がレバーを引き、地下に短く鐘が鳴る。それが合図となり、地下にいる魔導術師が術を発動、鉄籠が地下に降りていく。
どれくらい深いのか聞いたことがあるが、海面より深いとしか覚えていない。乗っている時間は三分ほどだ。ゆっくりとそして静かに動く。壁や鉄籠を吊る鎖魔語が微かに光り、地上が遠のく。ガタン、と昇降機が止まると穏やかな声がする。
「あら、坊ちゃんでしたか。お帰りなさい」
鉄扉を開けて左を向けば、ニコニコと笑う白髪の老婆のオルタナシアが丸椅子に座っていた。
「ただいま。聖女オルタナシア」
「わたくしの孫娘とやっと結婚してくれると聞きましたよ」
「ぼくにはもったいないって」
彼女との挨拶は決まった内容だ。孫娘はもうすでに結婚して孫がいるくらいの年齢だが、彼女にとっては楽しい思い出の詰まった時代で止まっている。
「ここは冷えるね」
地下は夏の暑さとは無縁だ。特にキルクロピュルスに寄生された体は体温が低く、寒さに弱い。屈んでオルタナシアの丸椅子の前にある火鉢に木箱の炭を足していると、彼女の氷のように冷たい手で頬を撫でられた。
「坊ちゃんは優しいですね。よく働くと噂で聞きますし、良い人です」
「……オルタナシアには負けるよ」
痩せ細った指と、黒いローブから覗く骨張った手首。ちゃんと食べているか過去に聞いたが、曖昧に微笑まれただけだった。火砲を撃たないキルクロピュルス適合者にとって、食事はあまり意味を為さないという。彼女も娯楽程度に酒を飲む程度らしい。
「そうだ、葡萄酒は受け取った?」
「ええ、ええ。とっても美味しく飲んでます。ありがとうございます」
「また持って来るよ」
オルタナシアは五十年前からずっとここにいる。この遺跡として発掘された昇降機を動かせるのは、彼女しかいない。この地下はおよそ千年前の代物である。発動術者が死ねば、どんな魔導具でも他者の使用は絶望的となる。不解呪という強固な呪いが起こるためだ。千年も前のそれを解呪し、自分の魔導術にしたオルタナシアしか、昇降機は動かせない。その輝かしい功績で聖女と列席した。
彼女の冷たい手を握り、僅かばかり温めた後、奥へ進み研究所の鉄扉を開ける。黄色い砂岩の煉瓦が積み上げられた吹き抜けのエントランスには慌ただしく歩く技官で溢れていた。
遺跡の基礎部分は、全て不解呪によるものらしい。〈固定〉や〈凝固〉という術を不解呪という死で塗りたくってできた空間は喧騒で満ちている。技官の話し合う声は飛空兵の死を目指したものであると考えると、此処ほど薄ら寒い場所はない。
しかしこの砂岩に囲まれたエントランスや吹き抜けの部屋にいる者は、廟海を飛空兵が越えられないことを知らないだろう。ジョルグ殿は貴族でもその秘密を知って殺された者がいると言っていた。
知っているとしたら、この奥、不可侵の領域。勘違いだろうと、手違いだろうと、勝手に入った者は厳罰に処される。部屋を持つ技官以外に招かれる者は、奥に部屋がある技官の秘書官か、十五歳で骨を替える飛空兵の候補生か、茶を飲みに入る自分だ。
ジョルグの言った自分の特異性にため息が出る。いや、あと一人いたな、とヨダカは奥への扉の前にいる人物に声をかける。
「アミージェ先生!」
バタバタと行き交う技官を避けて奥への鉄扉に辿り着くと、頭の丸い帽子から垂らした黒い布で顔を覆う小柄な老婆は振り返った。
「ヨダカ大尉。これはこれは嬉しい方だこと。よくぞお戻りになりました」
「お久しぶりです。今からシナギへ会いに行くんですよ」
「あら、まあ。シナギ准尉にお茶を頼まれたのは、あなたの分ですか」
アミージェはフィオリ大佐の錬金術の師である。大佐が彼女を先生と呼ぶので皆からも先生と呼ばれる。
老いた騎士に見られる中、二人で奥へ行くための署名を終えると、手前の鉄扉が開いた。歩を進めるともう一枚扉がある。五、六人で満員の狭い部屋だ。通って来た扉が閉まり、鍵が掛けられると、奥の石戸が開かれる。




