43、オルタナシア療養院研究所(2)
別邸の自室で封蝋された手紙を開ける。ユナックの担当教官アシオン・ブルノース中尉が書いた文章は賛辞に溢れていた。飛空兵を持つ親への気遣いだろう。自分は養父であるが飛空兵でもある。そう思って読み進めると、それに気遣う言葉があった。将官学院卒業の報告だが、同級の飛空兵の中で首席であることや、他領との交友を重んじた挿話が盛り込まれ、なかなか面白い。
窓に虫除けの芳香袋を吊るすユナックに声をかける。
「きみは人を殴ったことがあるのか」
そう言う自分も数回はある。飛空兵になる前、連れがふっかけられた喧嘩に巻き込まれ、飛空兵になった後、ハモネイ兵にいちゃもんを付けられた。どちらも防衛の意味で拳を振るうしかなかったが、手紙の文章を見る限り、ユナックが先に手を挙げている。
「……まあ顔ではなく、腹ですけれど」
「同じだよ」
ユナックはそこに注目するのですか、という顔をしている。
「理由はだいたい想像できる。面倒をかけたね」
ヨダカは見かけは十六だが、中身は三十五という特異な存在だ。しかも人の身体を借り、記憶が無くなった飛空兵。それが彼の養父なのだ。噂を聞いたのが下衆なら揶揄いたくなる。
喧嘩したことをあなたに言わないで欲しいと言われましたが、との文章。今まで気付けなかった自分が情け無い。
「ぼくの代わりに喧嘩をしてくれてありがとう。ユナック、卒業おめでとう」
「……はい!」
月が変わり、ユナックとイルビリアは少尉補になった。将官学院の課業から解放され、ユナックは自分の補佐としていろんな雑務を行ってくれる。むしろディグナー中佐はユナックに説明した方が早いと判断したのか、彼を通して説明される。
やることは少ないが、キルクルスの戦果記録や戦闘準備について、一つ自分の文章で考えを残せ、と言われた。具申書とやらだ。装備について書こうと思い付いている。
それはまだ良い、とヨダカは手紙を畳みながら思う。やる気は微塵も起きないが、机に積まれた貴族向けの教則本をめくるよりもマシだ。
ブルノース教官のように、家族へ子供が飛空隊に入隊したことを知らせる手紙を書かなくてはならない。一通は自分に向けたものになるが、もう一通はアンジトックから密航を企てた伯爵夫人に宛てる手紙だ。転がったペンシルを持つ気にもなれない。
項垂れるヨダカとは違い、ユナックはもう一つの机に座り、候補生の課題の添削を始めた。
「やはり魔導術師に言われると、安心しますね」
彼はヨダカが調停のために辺境伯邸で詰めている折、掃除にかこつけて部屋に魔道具や術布がないか調べたという。
そして先日副官となったシーダーに事情を話し、先程もう一度洗ってもらったのだ。洗濯部屋や調理場など、外から出入りがあるところは術布があるが、曲者を探知するもので珍しくないという。
「ジョルグ殿が言ったように、ぼくは信頼されているのかな」
露店市の帰り、馬車で蘇った記憶から察するに、自分は密会の常習犯だったのだろう。疑われてもおかしくはないのだが、部屋や衣服などに、術布や刻印の類は見つからなかった。
「シナギ准尉がいらっしゃるので、裏切るとは考えていないのでは。あと……術布があったら、大尉はすこ ぶる機嫌が悪くなりますよね」
「誰だってそうだろ? 自分の部屋だ」
「シナギ准尉はそれが嫌なんですよ。五年前、お怪我が良くなった頃、大尉に魔導術師と護衛がわらわらと付いていたでしょう」
「あったね、そんな時期」
どこへ行くにも十人はいる大所帯だった。挙句、酒場にも入って来ようとしたから、コクトにも敬遠されていたのだ。
「それで苛々とされているときは、僕でも話しかけ辛かったです。シナギ准尉が話しかけても素っ気なくされていて、彼女は呆然と立ち尽くしていました」
そんなことがあったか、と思い返すが覚えていない。
「それで、彼女が王族ごっこをやめさせてくれたのか?」
「おそらく……。彼女は准尉にしてはかなりの権限を持っているように感じます。地下の奥に部屋もありますし」
「優秀で勤勉だからじゃないの?」
「それで護衛の数を減らせられるでしょうか? ちなみに彼女が叙勲したアンヴルブ栄冠勲章はそこらの平民には与えられるものではありません。そう考えると、それなりの地位は手にしていると思うのですが……」
ジョルグが狙いを定めるくらいには重要なのだろうが、考えてもわからない。
「金持ちになるのなら、ぼくの部屋に炉くらい造ってくれないかな」
「溶かされるのが、鉄だと良いですけど」
ふっと笑ってしまう。
ジョルグの言ったことや、自分たちのしていることで、暗澹たる気持ちになることはあるが、一人で抱え込まないというのはお互い助かっている。
それにしても、と白紙の便箋に目を落とす。
「ユナック、困った。本当に一文字も書けない」
「そうですね……。あ、ブルノース教官の挨拶をそのままお使いになって、要件を差し込めばいいのでは?」
確かに、とヨダカはまた手紙を封筒から出す。彼は家名がある貴族だ。しかも本土から来ているとユナックは言っていた。
「……書けそうだな。イルビリアの担当教官とは違うんだよね?」
「ええ、違います」
しばらく手紙を書いていると、扉が叩かれた。予兆が出たぞ、要塞待機じゃ、とシーダーが副官らしく、顔を覗かせる。
「大尉、お手紙を仕上げてください。僕で荷物をまとめます」
「ユナック、これからは隊長とお呼びせんとな」
シーダーにそう言われて、ユナックはシャツを畳みながら嬉しそうに詫びた。
「ヨダカ隊長、木板はシナギ准尉に届いたようじゃ。空から花が降ったかのような笑顔だったと、ツタイ秘書官から言伝を受けた」
テントウムシを二匹と油菜の花を下部に彫ったのだが、十年前より酷い出来栄えだった。それを誤魔化すようにアカシアから青いレースのリボンを寄付と称して買い取り巻いたのだが、何よりだ。
「……あとは盗むだけか」
「その前に化け物を倒さんとな。ほれ、行くぞ」
要塞に向かうと、入り口にある哨所で止められた。いつもは代筆を頼めるのに署名を求められ、中に入ると廊下ですれ違ったゴルグランド領の白婦から蔑みの目線をもらう。
要塞下部でユナックと昼食を食べていると、イルビリアは別階層で待機すると連絡が入った。護衛隊の顔馴染みの小隊長が言いにくそうに告げる。エレノカの件は自分で決めたことだ、と思っても居心地は悪い。
既に懐かしい海に張り出す廊下に出ると、洋洋と広がる海原に索敵船が三隻浮かんでいた。もう一隻、だいぶ沖にいるというので、まだ浮上はしないのだろう。
煙草を取り出すと、男子候補生がいないことに気を緩くしたのか、将官学院を卒業したからか、ユナックも来て珍しく煙草を口に咥える。
「それ買ったのか?」
彼は真新しい発火器で火を付けている。この魔導具は術者の不解呪を利用したものだ。火を起こす媒介である二つの石に〈発火〉を発動したまま死ぬことで永年燃え続ける。
その石と石の間に、〈発火〉の不解呪を程良く解いた板を挟み、その板の抜き差しで、火を着火消火する。板に不完全な解呪を発動した者が死に、また不解呪となる。
一度でそれなりの数の発火器が出来るらしいが、なかなか値の張る魔導具だ。ガンドベル帝国では許可なく製造ができない。本土の紫目を囲う一部の貴族が作っている。
「共闘軍の尉官への支給品で頂きました。大尉と同じですよね?」
「そうだったかな」
手元の四角い懐中時計ほどの発火器を見る。蓋を横にずらすと解呪板が外れ、中央に空いた穴の中で発火が始まる。蓋には一面に蔦の葉を細かく彫った。やはり昔の方が上手いなと思っていると、ユナックはつるりとした発火器をこちらに差し出す。
「ほら、同じ形のものですよ」
なるほど、とヨダカは思う。
「……名前、彫ろうか?」
「いいんですか! お願いします!」
ユナックはぱっと表情を明るくした。元々そのつもりだったくせに、と笑う。
「兎はいる?」
ユナックの眉が上がった。緩む口元から煙を吐く。
「できれば、耳の垂れたまだら模様の子兎を——」
「あら嬉しいわ。ユナック少尉補」
その猫撫で声にユナックの肩がびくりと跳ねる。
声のする真上を見ると、薄紅の髪がなびいていた。上階の外廊下から薄笑みのサリエ少佐が覗き込んでいる。
「あの子が気に入ったのね。私も好きよ。ここに連れて来て良かった。サリーも喜んでいるわ」
ユナックは上を向き、挨拶を忘れて首を傾げる。
「サリー? いえ、ロミでは? この前僕が名付け親になったはずです」
「あのあと改名したの」
彼女は事も無げに言ったが、明らかに今だろう。サリーとはサリエの愛称だ。
そんな彼女と目が合うと、お互いおざなりの敬礼を交わす。
「こんにちは、サリエ少佐。兎の名前は彫っても良いのですか?」
「ご機嫌よう、ヨダカ大尉。もちろんよ。僕の愛するサリー、と彫ってちょうだい」
僕の発火器ですよ、と隣のユナックが抗議する。
「ねえ、ユナックちゃん。サリーが会いたがっているわ。前の茶会であなたから貰った餌が特別美味しかったみたいなの」
するりと後ろから、ユナックに手が伸びる。サリエ隊の女性准尉たちだ。
「サリエ様のお茶会ですよ。来るでしょう?」
「あの方がお茶を入れますわ。飲むでしょう?」
「焼き菓子もありますの。食べるでしょう?」
ユナックは体に絡まる腕に顔を赤くした。しかし少尉補になったからか、強気に払う。
「ま、前のように椅子が一脚しかなくなるなら、ご遠慮します!」
キャハハ、と三人は甲高く笑う。何があったんだ、とヨダカも笑ってしまう。
「不思議だったわよね、あれ」
「でも同じ手は使わないわ。楽しみね」
「ディグナー中佐は許可したみたいよ。行きましょ」
「ヨ、ヨダカ大尉も行きますよね⁉︎」
「ぼくが行けると思うか?」
あ、と呟くと、ユナックはロロマリー准尉とニーナ准尉に連れて行かれた。
残った女の長い黒髪が風に揺れ、香油の匂いが鼻を掠める。顔立ちは猫のような印象だ。
「エレノカ准尉はお元気ですか?」
メユウ准尉にそう聞くと、彼女は煙草を取り出す。黄色がかった緑の小さな瞳をヨダカに向けながら、薄い唇で煙草を咥える。
「大人しく謹慎しています」
サリエ隊は昔から距離感が狂っており、メユウは自分の右に体を沿わせて立った。ヨダカは左手に煙草を持ち変える。
「どこの部屋にいるのか知りたい?」
「教えてくれるなら、知っておこうかな。絶対に近付かないようにできる」
「行ってみたら、私の部屋かもしれない」
「ベッドが消えるのを見せてくれるんですか?」
サリエ隊で煙草を吸うのは彼女だけだ。エレノカの次にわりと、僅かに、まともに話せる。
「昔から思うけど、なんであなたみたいなのがモテるんだろ」
ヨダカの首を指でなぞりながらメユウは言った。
「モテる? ぼくが?」
「ほら、やっぱり何もわかってない」
考えてみようとすると、メユウに鼻を摘まれる。
「あーあ、私ならこの鼻をへし折ったのに」
「きみを連れ込まなくて正解だったよ」
彼女の手を払うと、心配そうに見ていたディグナー中佐の魔導副官ハドラックが話に入る。
「メユウ准尉、この階層はアロイライの待機所でして……」
「あら、ハドラックさん。ご機嫌よう」
メユウはまだ長い煙草を捨て、体を寄せる先をハドラックに替えた。片目を瞑り、口を窄めて音を出すおまけ付きだ。ハドラックは顔を背けて空咳をし、シーダーはわしにもぉとねだる。
彼女の特徴である四白眼は魔導術師にとって最高の吉相で、白葡萄色の瞳は高名な魔導術師の妻に多いという。
「モテるって言うのはきみのことだろ」
「シーダーさん、あなたの隊長って本当にわかってない」
困っちゃいますよねえ、と我が魔導副官は鼻の下を伸ばすので、髭を一本抜いてやる。すると、メユウは小指を軽く唇に当て、髭を抜いた箇所に当てる。
「ひどい隊長さんね」
「……シーダー、砕けた腰をすぐに治すんだ。メユウ准尉も人の副官を誑かすのはやめてくれ」
彼女は肩をすくめる。
「ほんと、どの口が言うんだか。とにかく、あの子を二度と食事に誘わないでよ。あの子が誘っても断って。わかった?」
頷きながら手を挙げると、メユウは去って行った。
今すぐ髭を全て毟ってくれ、と懇願するシーダーをかわしながら、新しく煙草を付ける。
サリエはどういう教育をしているのだろうか。メユウのあれが自然だと周囲に思わせるために、いつから仕込んだのだろう。
ヨダカはポケットに手を入れ、彼女が忍ばせたメモを触る。




