42、オルタナシア療養院研究所(1)
今日は暑いな、と別邸からしばらく歩いたヨダカは上着を脱いだ。丘に吹く海風が潜り込み、シャツを膨らませる。上着を小脇に抱えると、カチャと徽章同士が当たる。
怒りに任せて、フィオリ大佐へ言った要望が叶った音だ。
馬車での密談の二日後にはゴルグランド領クロッズ・ボーガネン大佐を乗せた船が着いた。
それから行われた聴取は、自分が「そうかもしれません」と言って事なきを得た。
フィオリ大佐は、ヨダカがエレノカを部屋に連れ込んだ可能性があるならば話は収まると示唆し、両者痛み分けの形だ。
内々に済ませと言ったことを守るためとはいえ、向かいに座るサリエの満面の笑みには舌打ちが出そうになった。
——お認めになって、大変清々しい気持ちですわ。お互い、飲酒には気を付けませんとね。
彼女としてはもっと面倒になると思っていたはずで、中央政府武官を呼ぶことなく揉み消すことができるのは、あちらにとって儲けしかない。しかし自分が拘束される機会を無きものとした嫌味か、と気付いた頃には会談は終わった。
——今後は気を付けて下さいませ。ヨダカ隊長。
どうして自分には禍根ある女性が増えていき、そうではない友人には引っ叩かれるのだろう。
その後、フィオリ大佐は馬車の中の凌辱を詫び、ディグナー少佐は中佐になるらしく機嫌良く酒を開けた。飛空隊の隊長が付ける徽章をヨダカの胸に付けるハドラックも心なしか浮き足立っていた。貴族二人とグラスを掲げ、琥珀色の酒を飲むと、何の前祝いですかと問いたくなる。
自分は、自分が思うより特別のようだ。
別邸から丘を登り、辺境伯邸の前を通り過ぎると、さらに上の建物が見える。高い木々は伐採され、腰丈程の低木が所々あるだけで、他は草が広がる。踏みならされた道の末、初夏の花が咲く小道の終わりにあっても、オルタナシア療養院は不気味さを抑えられない。
キルクルスの骨で組まれた頑強さが売りなのだが、青黒い表皮まで壁に貼り付けることはなかった。見慣れた自分でも、今の状況からここが隠し事で一杯の悪魔の城に見える。
扉の前にいる兵士に軽く挨拶をしながら煙草を吸った後、中に入った。朝の礼拝が終わった講堂には誰もいない。天窓の光は講壇に落ち、後ろの療神である羽根の生えた女神の前見頃を照らし、麗しい流線が出迎えてくれるだけだ。きみも飛べるなら手伝ってくれよと思いながら、左の廊下へ突き進む。
年老いた白婦たちが過ごす、繕い部屋の窓際を分けてもらい、木板にペンシルで下書きをする。小一時間経つと、連絡を入れておいた魔導術師シーダーが鼻息荒く部屋に入って来た。
ナイフを使うから来て欲しいと言伝したのだが、どうやら風呂に入ってきたようだ。彼に珍しく清潔感がある。加えて焼鏝で記した魔語を隠すために革手袋をし、ジャラジャラと金銀の指輪を嵌めている。
こちらは怪我をして出血したらキルクロピュルスが爆発するというのに、その指輪や手袋は格好付けて外された後、手当が始まるのだろうか。
まあ来てくれただけありがたいかと隣に座らせると、彼は暇だから読みましょうと言い、抱えて来た本を朗読し始めた。
「あの日、侯爵さまは言ったのです。昨晩渡した薔薇の花が萎れている。私が帰った後、流した涙で萎れたのでしょう。わたくしはそれを認めるしかなく、髪留めをするりと外す彼に抗うことはできませんでした」
老婦を口説くために練習したのか、なかなか上手い。最初から声を張っているのも耳の遠い者に配慮している。意中の白婦メイダに熱い視線を送るのは見ていられないが。
白婦たちは針仕事やレース編みをしながら、それすらもできない横たわった者は薄く目を開けるだけ、しかし皆笑みを称えて話を聞いている。途中でわからない言葉が出るとシーダーに質問が出て、その間に侯爵さまは生息子じゃないね、と感想が交わされた。
ヨダカはそれに加わらず、細工用のナイフで下書きに沿って荒く木板を彫っていく。
板はすぐにユナックからもらったが、木目の節が気に入らず、けっきょく自分で見繕うことにした。
別邸の倉庫に将官学院用の備品箱があるのだが、あまり質の良いものがなく、酒保ならあるかと思ったが、要塞の入り口の前にあるので行きづらい。
十年前はどうしたか、と思い返すと同郷の知己に材木屋の息子がいたのだった。シナギがランプーリのオルタナシア研究所に来ることは彼に聞き、使う物だからと勧められ、木板を祝いに渡したのだ。
今はシナギの秘書官をしているツタイに伝信を送ると、今朝良質な木板が木箱いっぱいに別邸に来た。
露店市が終わりましたね。我が上官の機嫌が直る大作を望みます。
ツタイの走り書きのメモをみて、ため息を吐いた。シナギと露店市に行く約束は果たされず、そのおかげで良い木板を手に入れられた。皮肉も良いところだ。
荒く下書きを彫り終えると、鼻を啜る白婦たちの音が耳に届く。
「ああ、侯爵さま。アルフレッド。わたくしの愛しい人。もう二度逢えないとわかっているのなら、掴まれた腕を振り払った。いえ、それを後悔して生きるのは今の悲しみと同じなのでしょう」
侯爵さまは殴られずに済んだのか、と木屑を窓から外へ払い、伸びをする。鳥が餌だと勘違いしたのか、数羽飛んで来た。
ピチチと抗議の囀りを聞きながら、さらに細かな部分を彫るため、細いナイフを取り出す。木なら彫れるか、と飛空兵になってはじめて故郷に戻ったとき、下働きをしていた金物屋の親方に餞別でもらったものだ。
角の立った部分を少しずつ削る。下書きに見た想像との差異が浮かび上がると、調和を取ろうと手を止める。親方はどうやって想像のままを形にしたのだろうか。そのつもりはないのに、どうしても少しずつズレてしまう。そのズレも生かしているのだろうか。
目に汗が入り、手で拭おうとして革手袋の手に止められた。突然、朗読が止まったことに白婦たちの視線も刺さる。
見れば、自分の手は木屑だらけだった。拭えば瞼が細かに傷付き、キルクロピュルスで溶けていたかもしれない。
ストラ島の初夏は蒸す。それを邪魔だと言った親方の言葉を思い出した。
これは密約の小道具を作っているに過ぎない。そう思い直すと、シーダーの朗読を聞きながら、作業を進める。
辺りが薄暗くなると、白婦たちはそれぞれが持つ蝋燭立てをヨダカの前に置いて行った。要らないと言ったのに、体の硬直した白婦まで誰かの形見の髪留めを渡される。白婦をまとめるアカシアに返さければ、と思うが木板を眺める体は動かない。
「ヨダカ、夕食じゃ。どうする?」
「うん」
「昼を食べんから、腹が減って力が出んか?」
この日で終わらせられた木板はまだ半分も彫れていない。そして全く気に入らない。
「……別邸で食べるか? どこか悪いか?」
シーダーの声音にさすがに申し訳なくなる。
「いや、ここで済ますよ。すぐ行く」
木屑に息を吹きかけると床に飛んだ。窓辺に座り、半身を外に出すと、煙草を取り出す。口に咥えると、シーダーが革手袋を外し、指先に灯した炎を借りる。
ここに来たもう一つの用事を済まさなくてはならない。
「ねえ、シーダー。ぼくは金はあんまり渡せないし、魔導書の購入先に伝手はない。でもぼくの魔導副官になってくれたら、こういう機会を度々つくろうと思う。どうかな?」
ふんふんと鼻息を鳴らすと思ったが、シーダーは鎖骨まで伸ばした髭を撫でるだけで、目線を逸らした。
「……ジョルグ殿の言ったことを、お前は信じるのか?」
すっとみぞおちが冷える。まさかここであの馬車について触れらるとは思わず、言葉が出ない。
「よくは聞こえんかったが、あの人は最後はっきりと言ったなあ。途中から聞いているのがバレてたんじゃな」
知ってたのか、と震えた声が出る。シーダーは頷く。
「〈隠匿〉はさすがにできんが、〈遮音〉ならわしもできる。それを破ることも学んでおるよ。ジョルグ殿は勘付いておられた。しかし、わしじゃから強気だったのか。最後、聞かせるように語ってらしたなあ」
「きみに強気って……どういう意味で?」
「ジョルグ殿と故郷が同じならと、本人に何度か酒の席で漏らしたことがある。その度、ハドラックたちには睨まれて怒られるんじゃがな」
その口ぶりからシーダーは他言していないのはわかった。しかし、どうしても貴族の紫目が思い浮かぶ。
「フィオリ大佐は何か気付いたかな」
「いいや、それはない。子爵大佐に向かって不敬だが、断言できる」
シーダーは黒いローブから金の皿を出した。髭をぶちぶちと無造作に抜くと、皿に乗せて左手の人差し指に紫の光を灯した。髭に炎が着くと、右手の人差し指で消してゆく。彼が頻繁に行うことだ。はじめて見たときは急いで水を持って行ったが、切望に必要な日常なのだと笑われた。黒くなった人差し指に冷却布を巻き、そして目を閉じて小さく祈る。具体的に何に祈っているのかはわからない。彼は火事で家族を亡くしたとしか、ヨダカは知らない。
一連の作業が終わると、シーダーは自分を見た。
「紫目にもいろんな人間がおる。神しか与えることのできない果実は、奪うことも、拒むこともできない。貪るように食べる者もいれば、皿の上で腐らせる者もいる」
シーダーは冷却布を巻いた指に視線を落とし、独白する。
「わしは軸まで食べるあの方が好きだのう。指に染み込んだ汁を飲むために、指まで食らうほどの、あの方を尊敬しておる」
〈遮音〉を破ったとしても〈隠匿〉で消したジョルグの最後の別れを見ていないのだろう。一昨日の会談にも来なかった。
「生きているといいけど」
「生きておるさ。頭一つになっても切望を叶えようとする人じゃよ」
それから沈黙が降りた。一つ返事だと思っていたので、言えることが見つからない。親指で顎をなぞっていると、シーダーが言う。
「お前さん、もしや髭を剃ったか?」
「……わかるの?」
露店市に行った晩から意を決して自分で剃っている。まだ顎下に数本なのでどうにかなっているが、昔みたく首に向かって無数生えてきたらお手上げだ。そうなる前にシーダーを副官に添えたくてここにいる。
「いや、なんとなくじゃ。わしに〈剃毛〉を頼まん日に、よく集中を切らしておったからの」
「……そうだっけ?」
そうじゃよ、とシーダーは微笑む。
「覚えておるか? 金細工の菱形の、ユユウティカに似たオレンジの硝子石を嵌めたペンダント飾りじゃ。あれを仕上げるために、お前はわしを三日間買った。フィオリ大佐にもディグナー少佐にも、わしに大嘘こかせて暇を取らせ自室に隠した。十年前かの。ミルドの基地へ行く前だったか。何が憑いたか、まともに寝ずに酷い顔なのに、完成したときのお前さんは勃起するほど凛々しかった」
やめろよ、とヨダカは笑う。
「あの飾りもまこと美しかった。魔導具以外で見惚れた細工は初めてじゃったよ。有り金全てで買うと言うてもお前は譲らんかったが、まだあるのか? わしは気が変わっとらんぞ。メイダさんに贈りたいからのう」
「……わからない。探してみるよ」
そう言ったがオレンジ色の硝子を嵌めたのなら、もう手元にはないだろう。それにしても、有り金全部で買うという言葉によく自分は有頂天で売らなかったものだ。
「無かったら、また造るよ」
記憶にない宝飾に見惚れているシーダーには、それを超える物を渡したい。そう思うと、立ち上がって上着を羽織る。金のボタンを嵌めて、制帽を叩いて頭に乗せると、自分の知る限り、彼へのはじめての敬礼をする。
「アロイライ辺境伯軍兼ねて共闘軍飛空兵ヨダカ大尉は、魔導術師シーダーに魔導副官を命じる」
「承知!」
勢いの良い返事に右手を差し出すと、しわくちゃな手が握り返した。
「女性のいる隊になると思うから、下品な言葉は慎むように頼むよ」
「股にぶら下がる古木に誓って善処する!」
ヨダカは笑って肩をすくめる。
「誓う先が終わってるけど?」
「な、何を! まだ終わっとらんぞ! 断じてそれは言い切れる! お前の握った右手が証人じゃ!」
そういうところだからな、と言いながら、地獄で笑えることがあるだけマシだと思った。




