04、我人である(2)
ヨダカは着替えを終えると、指示通りディグナー隊長の元へ向かう。
遺跡はエントランス部分は吹き抜けの二階建てだか、その奥は横に長い。地上で言えば平屋建てだ。機密を取り扱う場所。不可侵の聖域。オルタナシア療養院研究所。そこで日夜、化け物と戦う人間について研究が進められている。
南北に通路が伸び、部屋が無数とある。古代の王宮ではないか、と言われているが、本格的な調査はされていない。本国から来る学者団は遺跡よりも兵器の情報を欲しがる輩が紛れている。ヨダカも壁のレンガに付いた黒いシミは、不届者の血だと脅されたことがある。
心液検査を辺境伯邸で行うのも、ここからなるべく遠ざけるためだ。志願兵にネズミが紛れ込んでいればここを目指すので炙り出せる。阿鼻叫喚を聞く邸宅の使用人はたまったものではないが。
よって、この奥の間ではランプに油を差すのも、便所の掃除も貴族や将校でも自分がやらねばならない。こま遣いできる部下などはいない。
温厚篤実と言われるアロイライ辺境伯でも、研究を漏らす者には実用的なサーベルをもってして叩き斬る。同胞が金に目が眩み骸となる手間を避けるべく、必要最低限の人間しかここには入れない。アロイライ領がストラ島の他領と渡り合えるのは、研究所が出す成果があるからだ。
薄暗い廊下を進み、軍旗が貼られた扉を拳で打つ。応答を聞いたあと、挨拶と共に入る。
秘書官もいないため、部屋は騒然としているが、ヨダカに掃除を命じないのは彼の人柄によるところだ。
アロイライ辺境伯軍飛空隊隊長リイロ・ディグナー少佐、男爵である。彼は人懐こい牧羊犬のようだ、とシナギが評した。朝日のような金色の瞳をヨダカに向けて細める。五十手前の年齢に見合う風貌だが、笑顔は溌剌としている。ヨダカの愛想笑いの見本は彼だ。
勧められた革張りの椅子に座ると、彼は書斎机にペンシルを置く。
「ヨダカ、悪いが今から待機だ」
「夜に伯爵夫人との逢瀬の約束があったんですが」
「ああ、夫人は俺に心変わりしたんだ。残念だな」
お互いのつまらない軽口を披露したあと、ため息を交わす。
「夜にまた出るんですか?」
「大きさからそうだろうな。ありゃまだ幼体だったよ。ハモネイが早々に援護の営業を寄越してきた。こっちの足元見やがって」
ハモネイ領は潤沢な飛空隊員が自慢である。残念なことに、激戦地と呼ばれるアロイライ領の飛空隊は現在、ヨダカ一人しかいない。ハモネイから借りた少尉が常駐しているが、それでも二人だ。援護に回れる候補生はいるが、仕留め切れるだけの力はない。今日のように連続でキルクルスが出現する場合、領の境にこれ見よがしに駐屯する飛行隊に要請をかけ、待機してもらう。これがアロイライ領の今の迎撃体制である。
「誰が出るんですか?」
「コクト少尉と、ユナック候補生だな。女子候補生を四人温存しているから、そこから二人」
「イルビリア候補生は?」
「その名前、出しちゃいます?」
「出しちゃいます」
おっさん同士で何をいってるのやら、とヨダカもディグナーも笑った。
「今夜、デビュタントだ」
ヨダカは喜ぶべきだ、と閉じた口を動かそうとする。飛空隊でいうデビュタントは候補生の本隊の入隊を示唆する。一人でキルクルスを仕留められるだけの力はあるかの確認である。
自分の負担が軽くなるのだ。それはよかった、と言え。そう命じても言葉は出なかった。
「本当に調子が良いらしい。研究員たちも太鼓判だ。さっきの出撃でも出力は一番だった」
「今夜も出撃できるくらい……ですか?」
「ああ。ほんとうに特別なお姫様だよ」
ディグナー隊長に勧められるまま、細巻きをもらう。彼がヨダカに煙草を教えた。煙を吸っている間は沈黙が許される、と。
「お前には俺から伝えておきたかったんだ。彼女が単独撃墜を成功させれば喝采されるだろうからな」
「……シナギ、准尉は知っているんですか?」
「シナギ准尉は今の会議で知らされているだろうな。直前で言うことになって、申し訳ない」
「ディグナー男爵閣下、謝らないでください」
「急に突き離すような態度になるのは、昔から変わらんな」
「子供扱いをしているのは、そちらですよ。前もって言って頂ければ、ぼくは……」
細巻きを吸う。チリチリと外紙が燃える音が聞こえた。
ヨダカはまだ長い細巻きを消す。最低限の挨拶をして部屋を出た。元来た道を戻る。
オルタナシアにまた孫娘を斡旋され、がらんどうとなった療養院の講堂を抜けて外へ出た。ファミの遺体はないし、彼女の垂らした血痕も消されている。
丘を下り、アロイライ辺境伯邸の脇にある門扉からランプーリ要塞に入る。検問兵は見慣れた顔ぶれで、二、三言葉を交わし、持っていた煙草を差し入れとして渡した。このままだと全て吸ってしまうだろう。今夜は仮眠室で待機だ。他の者もいる部屋を白煙で満たすのは無遠慮過ぎる。
崖に沿わせ海面まで続く白亜の壁は、療養院と同じくキルクルスの骨を枠組みとし、骨粉の塗壁でできている。もともとあった海運拠点の防衛要塞を改修したものだ。その縦に長い基地の一画に飛空隊の隊舎はある。
「俺はハモネイには戻らねえぞー!」
そんな奇声にも似た大声が聞こえた。食堂を覗くと、海側の外廊下には幾人もの候補生が出ていた。声の主を確認しなくてもわかる。
「コクト少尉がまた駄々をこねてるの?」
人だかりに誰かまわず言うと、金髪を風になびかせたユナックが敬礼をした。それに気付いた者たちも手を額に当てる。なおざりの敬礼で返す。
「はい。また駄々をこねていらっしゃいます」
それに思わず笑ってしまった他の候補生を割って歩いて来る少女がいた。
苦手だな、とヨダカは思う。そうやって他者を退かして来る彼女の強気はやはり好まない。
目の前で見事な敬礼をしたのは、イルビリア・アロイライ。伯爵令嬢だ。辺境伯の姪に当たる彼女はうら若き十七歳の淑女である。薄い金色の髪を丁寧に結い上げ、瞳はまさに貴族と言わんばかりのロイヤルブルー。それに飽き足らず、神は優れた容姿も彼女に授けた。非の打ち所があるとすれば、真面目過ぎるところだけだ。ヨダカが今敬礼を返さなければ、一昼夜敬礼をしているような少女である。まだ本隊に加わっていないのに、戦場の女神と称される彼女にヨダカは敬礼を返した。
「ヨダカ大尉、お話があります」
「どうぞ、イルビリア候補生」
「俺はー、ハモネイなんて帰らねえからなあ!」
「私は今夜、単独撃墜の任務が決まり————」
「俺はー、アロイライにー、恋人がいるんだー! 引き離すならー、死んでやるー!」
絶叫に会話が止まる。コクトが少尉でなければ、イルビリアは叱咤しているであろうが、真面目ゆえに声の方を睨むだけだ。
「先にあれを何とかしよう」
そう提案して、候補生たちをかき分けて進む。
「コクト少尉、叫ぶのはやめてくれないか」
欄干に座る少年は赤と金のマダラ模様の髪だ。初めて会う者はギョッとするだろう。
染髪禁止の軍規を破り、勝手に耳たぶに穴を開けて耳飾りを付ける。最初の頃は将校たる者がそんな態度ではいけない、とヨダカは諭し続けたのだが、もうやめた。独房で謹慎させても「ハモネイだったら鞭打ちだけど、アロイライは優しいなあ」と笑うコクトにかけかける言葉はもうない。
「ヨダカ! 俺、今度こそハモネイに帰されちまう! イルビリア候補生が本隊に入ったら、俺なんていらねえじゃん!」
「帰ってくれるなら静かになって嬉しいよ。でもそんな話は聞いてない。残念だけど」
「ほんとか⁉︎ 嘘じゃないよな⁉︎」
「ああ。本当に残念だけど。それにしても、なんで海に叫んでたんだ?」
「さきほど今夜の作戦が下達されたんですが、同じくしてハモネイ領の飛空機が到着したので、興奮されたようです」
ユナックが述べる理由に納得する。
コクトが隊舎の門限を破って、町娘の家に泊まったときには、ハモネイ辺境伯軍の人間によって更生のために連れ戻された。ほとぼりが冷めて戻って来たときは、泣いて喜ぶほど郷里に愛着のない男だ。今更帰郷するなど、海に落ちて死んだ方がマシなのだろう。
「海に叫び続けても、飛び込んだとしても、連れ返される理由が増えるだけだよ。叫ぶのも落ちるのも便所にしてくれ」
これでも彼は古参である。おそろしく風格がないだけで、歴戦の経験はここにいる誰よりも多い。無下にはできない。しかしヨダカのようにぞんざいに扱う者は多い。
「あの! ヨダカ大尉、お話宜しいでしょうか?」
イルビリアがそう仕切り直した。しかしコクトが欄干から降りて彼女の元へ向かい、手を取りぶんぶんと握手する。
「イルビリア嬢、デビュタントおめでとう! 万歳! 俺は日給だけで充分だから、俺の分まで宜しく戦ってくれ!」
イルビリアはコクトの手を振り払い、冷めた目を彼に向ける。
「……コクト少尉はご興味ないかもしれませんが、私が本隊に配属されれば、少尉となりますよ?」
「きみは優秀だから、俺なんかすぐに抜かれるだろうな!」
「少尉になればストラ島域共闘軍規に則り、規範違約報告書を作成できます。コクト少尉をハモネイ領へ強制送還するため、あらゆる物的証拠を共闘本部へ提出します」
「そ、そんな殺生な‼︎」
「冗談だよ。ディグナー隊長が許可しないよ」
ヨダカの言葉にイルビリアはむっとした。まさか本気か、と頬を掻く。
「イルビリア候補生、コクト少尉は必要だよ」
「でも、こんな将校がいたら下に示しが付きません!」
きみと二人きりの本隊なんてごめんなんだ、とヨダカは言いたい。しかし今日一人でキルクルスを撃墜せねばならない彼女を慮る。
「下に示しが付かないのは、将官学院を出ていない自分も同じだよ」
それどころか徴兵がする訓練も受けたことはなく、叩き上げとも言えない。ただ化け物に適応しただけなのだ。
今は妙薬と呼ばれるキルクルスの心液を飲む、心液検査に通過した候補生は十人近くいる。キルクルスの骨で作った人工骨に変える手術は成人する十五歳以降に行われ、それと並行して援護訓練を重ね、将官学院に通い、十八歳で本隊に入隊する。これがストラ島での飛空隊候補生の在り方だ。それもつい最近のことである。やっと地盤が固まったのだ。
これ以前の者たちは心液検査を通過するだけで将校となった。その触れ込みで人を集めるためだ。多領土に遅れを取っていたアロイライはとても急激なやり方で飛行隊を増やしては失い、高額な恩給を家族へ支払い、すべて解決としていた。
「何よりアロイライ領の海岸が周期に当たっている間は、慣れた隊員が一人でも多い方がいい。さらに理由を重ねたいけれど、名ばかりの将校で平民の自分にはこれ以上は見当たらない。だから君が納得できないなら、止められない」
自分の言葉に伯爵令嬢は口を結んだ。利他的であることが自利である、という小難しいアロイライ家の家訓でも思い出したのだろうか。
「……申し訳ありません。出過ぎたことを言いました」
もっと噛み付いてきてくれたらどんなに楽か、とヨダカは煙草を吸いたくなる。
「わかってくれたら、いいんだっ……⁉︎」
ドスンと背に何かがぶつかった。驚いて振り返ると、間近に美しい黒髪がある。
「シナギ、准尉? どうしたんですか?」
「ヨダカ、わたし知らなかったの。今夜のこと知っていたらもっと、ちゃんと話してたわ」
「ああ、自分もさっきディグナー隊長に聞きましたよ。あなたもさっきの会議で聞いたんでしょう?」
男女が抱き合っている様は候補生たちを野次馬に変えた。色めき立つ少年少女は歌劇でも見るかのように注目する。
「あの待ち伏せはご機嫌取りじゃないの。あなたに会いたかったから。なかなか、会えないから……」
意味深な台詞だ、とヨダカは苦笑した。
同郷のよしみ、同じ孤児院出身、歳の離れた兄のように慕ってくれている。それ以上ではないことをどう周囲に伝えようか。候補生の中でも、年長のユナックは事情を知っていると思うが、彼が一番楽しそうにこちらを見ている。
「シナギ准尉、隊舎での男女の過度の触れ合いはなりません」
すぐ隣から声が出る。シナギはヨダカに抱きついたまま、いつもある眉間の皺をさらに深くしてそちらを見た。
「……ご機嫌よう、アロイライ伯爵令嬢」
「都度、申し上げていますが、その呼び方は軍内では必要ありません。イルビリアとお呼びください。さあ、ヨダカ大尉からお離れください」
ぼそっと三角関係ってやつだ、と言った候補生がいる。あろうことか頼みの綱のユナックだ。君は語り手のように事実を説明するべきじゃないか、と言いたい。本当に言ってしまおうか、と思ったそのとき、ポンと肩を叩かれた。コクトだ。
「解散、解散! これ以上は子供は見るんじゃねえ! 金取るぞ! それに候補生諸君、学院から課題が出てんだろう。勉強しないと、ヨダカ大尉より女を侍らせれねえぞ」
「侍らせてはいないってば」
しかしそれで散り散りになったので、良しとする。イルビリアはコクトに引きずられるように去って行った。
候補生がいる以上、少佐であるシナギを敬う必要があるが、それでは彼女の目から溢れるものを拭えない。
「シナギ、ぼくは大丈夫だよ」
彼女の目から溢れた雫を白い手袋で拭う。大きな空色の瞳は揺れて、また雨を生み出す。
「明日、休みがもらえたら港へ行こう。船が本国から戻って来ただろ? 露店市で新しい本やお菓子が出るよ。見に行きたいんだ」
「……わかった。夕方なら大丈夫」
「じゃあ必ず休みを取るよ。迎えに行く」
「約束、守ってね」
もちろんだよ、と彼女を軽く抱きしめる。会話を聞いていない者から見れば、少年が年上の女性に甘えているように見えるだろう。……いや、実際にそうかもしれない、と思った。
シナギが自分に縋ることで、イルビリアという特別なお姫様を許したふりができるのだ。
自分たちの故郷は海沿いにあった。アロイライ領とゴルグランド領の境。関所のある街だ。それを壊したのはイルビリアである。
それでも彼女は許される。
そして今夜、その愚行は喝采で上書きされるだろう。