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37、大罪(6)



 荷馬車の最後尾に向かい合わせでユナックと座る。外側に一人分のスペースをつくると、馬のいななきに物音を隠しながら、サリエ少佐の魔導副官ジョルグがのっそりと座った。


「一つ、挨拶の代わりに愚痴を言ってもよろしいでしょうか。もし僕が明日を迎えられたら、尻の穴に綿を詰め込んでも、身じろぎ一つで敷布が赤くなるでしょう。今だって尻に皮袋を縫い付けてここにいるんです。おしめで事足りぬほど血便がダラダラと出てるんです。ヨダカ大尉、あなたが思うよりも僕は命をかけてここにいます。飛空兵よりも希少な紫目の僕がですよ。だから協力的になってもらいたい」


 血便は魔導術の対価なのだろう。ヨダカの隣に座ったジョルグは青白い顔だ。紫の唇は小刻みに震えている。一面に魔語を施した灰色のローブには血痕がいくつも付いている。


「安心してください。僕の声も姿も、他のみなさんには見えない。蛾に幻影させた紙に触れたお二方しか、僕を認知できません。それでもハドラック殿には不安でしたので、カミュウリ殿の〈書記〉に僕の〈隠匿〉を強化する術を練り込みました。紙の血文字を見ることで発動できるものです。まあ、その術が最大の負担なのですが」


 ガタン、と荷馬車が動き始めた。その揺れで催したのか、ブブブとジョルグは屁を出した。話を信じると血便か。


「僕は他人の術を〈模倣発動〉できる紫目ですけど、他人の術に自分の術をねじ込むなど無理なのです。しかしね、やれないことはない。現に先人の魔導術にはある。それを模倣すれば良い。だけど発動人形ありきなんです。僕一人でやるなんて、正気の沙汰ではないのです。でも発動人形を連れて潜入などできません」


 発動人形とは魔導術の対価を擦り付けられる人間である。紫目には特別に所有が許され、罪人で構成させる。


「どれだけ無理矢理なことか例えるならば、ネズミの死骸に路上の吐瀉物を乗せ、梅毒の経血をソースとしてかけたディナーを美味しいと言って食べるのと同じです。明日生きているとしたら奇跡でしょう。しかしサリエ隊長は微笑んで僕の尻に皮袋を縫い付けました。大尉と腰を据えて密談するには仕方ないことだわ、なんて笑って。本当に今死んでもおかしくない。でも僕は死にたく無い。今死ねば〈隠匿〉は不解呪となって永遠に解けない。あなた方二人にしか僕の死体は見付けられない。そんなコマ遣いにされるのは嫌だ。僕にはまだ叶えていない切望がある」


 ですので、とジョルグは強く言う。


「駆け引き無しで、なるべく早く済ませましょう。後世ですから」


 ヨダカは口元を手で隠しながらため息を吐く。サリエは恐ろしい女だ。紫目とは彼が言うように希少であり、ストラ島には二人しかいない。その一人を瀕死にさせている。


 ヨダカが押し黙っていると、ジョルグの刺青だらけの手が伸びてきた。何のつもりか唇を触られる。しかし他の者の手前、反応はできない。ジョルグの人差し指が口内に入るが、されるがまま耐えるしかない。


「魔導術の発動時は手元が光るので、お口を借りました。これでヨダカ大尉の話声も我々以外に聞こえなくなりましたよ。ユナック殿はこの紙に口付けを。大尉、渡してください」


「ぼくもその方法が良かったよ」


 と口元を隠して言ってみるが、他の者は反応しない。


 そこではたと気付く。これを解除できるのは発動したジョルグだけだ。


「お察しのとおりです。しかし駆け引きは無しです。終わり次第、解除します。早く済ませましょう」


 今はそれを信じるしか無いか、と渡された小さな紙片を床に落として靴で踏んだ。それをユナックの方へ伸ばし、彼も靴底で受け取る。手で隠し紙を拾いあげ口に当てた。


「気分が良いものではありませんね」


「ぼくよりマシだよ」


「ユナック殿、紙は食べてくださいね。残るとまずいので」


 ユナックは苦笑いする口に小さく丸めた紙を入れた。それを見届けると、ジョルグは高らかな笑い声をあげる。


「まさか、僕に演者の才能があるなんて!」


「……どういうことですか?」


 ジョルグはぷくくくと笑いながらも血便が出ているようだ。笑い声とともにむき出した歯茎すら正気なく青黒い。

 

「駆け引き無しなど、嘘に決まっているでしょう? 死にかけの僕はそんな甘っちょろいことを言っている場合ではないのです。あなた方の声を奪って、対等というものですよ。声のないまま、屋敷へ戻ったらどうなりますかねえ? フィオリ大佐は容赦なく問い正すでしょう。ありとあらゆる方法で!」


 ヨダカは深いため息を吐いた後、煙草を口に咥える。怒りよりもジョルグの鬼気迫る雰囲気に気圧された。


 こうなるとさすがに腹を括るしかない。都合が悪くなったら、ディグナー隊長に全て吐露して謝り倒し許してもらおう。そんなことを言っていた朝方が懐かしい。


 馬車に乗る前まで声が出ていたのをハドラックは知っている。ユナックの頬に止まった蛾に魔導術が込められていたと訴えても、何のために声を奪われたのか詮索すれば、カミュウリの〈書記〉も洗われるかもしれない。シーダーは血文字に他の血が混じっていることを見抜いていた。ジョルグと同じ紫目の魔導道術師マリア・フィオリ大佐が見落とすとは思えない。


 カミュウリの名が出ればハモネイとの調停で負けたことに焦点が向けられそうだ。ズルズルと芋蔓のようにそこまで調べられると、サリエに協力した武官アルバロが炙り出される。そうなれば彼は確実に処刑だ。拷問死だ。もれなく自分たちもそれに準じた処罰が下るが、一番酷い死に方をするのはアルバロだろう。


 煙草に火を付けると、煙を吐き出す。

 

「悪いことしか思い付かない」


 ユナックも同じだ。顔色が悪くなったのを気取られないように膝に顔を埋めている。


 ジョルグはふふん、と笑った。


「この島で起こるのは往々にして悪いことだけですよ」


「そもそも目的は何ですか? どうして命を賭けてまで、ぼくに接触したいのです?」


 サリエ少佐は優秀な魔導副官が死んでも構わないくらいの覚悟を持っている。自分たちを取り入るのが、それに匹敵するとは思えない。


「ある木板を盗んで欲しいのです」


「木板?」


「書類を留める板ですよ。机がない場所でも書けるように使うものです。よく見るでしょう?」


「それは……誰のものを盗めと?」


「あなたが盗める相手ですよ」


 空色の瞳が頭を掠める。


「……シナギ准尉ですか」


「ええ。フィオリ大佐の物でも良いのですが、紫目の魔導術師でしかも子爵で大佐です。寵愛を受けていたエマ大尉なら可能でしょうが、亡くなられていますからね」


「盗んでどうするのですか?」


「木板を下敷きに書いた文字を魔導術で全て再現します」


 あの、とユナックが俯いたまま声を出す。


「木板は定期的に変えていると思います。そういう魔導術があるのは僕でも知っていますから、アロイライ領の将官生すら半年に一枚は変えます」


「もちろん、承知しておりますよ。でもね、ユナック殿は埃取りのブラシを買い替えずに、ブラシの毛だけ交換したことがおありですよね?」


「な、なんでそれを……」


「サリエ隊長はあなたのことを何でも知りたがるのです。話を戻しましょう。ブラシを買い替えないのは柄に兎の彫刻があるからですよね? ヨダカ大尉が器用に掘った愛らしい尻尾の兎がいるからですよね?」


「はい……そのとおりです」


 こいつらどこまで探っているんだ、とヨダカは唇を舐める。


 シナギの書類留の木板にはヨダカが彫刻したテントウムシがいる。それは彼女が技官になった十四歳のときに渡した十年前からずっといる。


「言いたいことはわかりました。でもさすがに対策はしているでしょう。元の木板の上に違う木板を乗せて、それを交換するとか……」


「それも承知の上です。もし、そうだとしたら読み取れる情報は僅かになるでしょう。でもやる価値はある。そして僕ならできる。まあ、ここで死ななければですが」


「しかし新しい物を贈っても、古い木板はシナギが処分しますよ。理由を付けて持って帰るなんてできない」


「きっと捨てません」


 そうユナックが言った。


「残しておくと思います」


「僕もそう思います。十年も使っているのですから」


 ジョルグも同意する。


「……フィオリ大佐に怪しまれたら、終わりですよ」


「そこに関しては自信がありまして、彼女はシナギ准尉しか信用していない。そしてシナギ准尉が慕ってているあなたにも甘い。それに盗むといっても四、五日の間でいいのです。新しい木板を贈ってから様子を見て、数日後に古い木板をそっと持ち出し、また返すのです」


「それでも地下の研究所の自室に保管されたら、手も足も出ない」


「あなたなら入れるじゃないですか。シナギ准尉やフィオリ大佐と茶をするためだけに、地下の研究所に入れる人間など、この島であなた一人です。どれだけそれが特別なことか……!」


 語気を荒げるジョルグから目を逸らし、息を吐く。とうに消えた吸殻を道へ投げる。


 荷馬車の後ろは幌が無く、夜風が髪を撫でる。丘を上る馬車が大きく左に曲がると、港街の灯りが遠くに現れた。蝋燭やランタンの光でできている輝きだ。揺らめく炎の色。


 何故自分がこんな危険なことに足を突っ込んだかと言えば、知りたいからだ。重要なことをひた隠すのが、許せないからだ。まだ人混みで殴り倒される方が気分はいい。わかり易い怒りの的が用意されていた方が。


 親指で顎を撫でると短い髭の感触がした。


「わかりました。知りたいことを教えてくれたら、従います」


 ああ感謝します、とジョルグは祈る仕草を見せた。



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