32、大罪(1)
目は閉じていたが、ずっと意識は続いていた。吐き気で上手く話せないだけで、呼びかける声も、荷台の車輪が石を弾くのも、移されたベッドの軋みも、鋏で衣服を断つ音も聞こえている。
身体を隅々まで点検されながら、名前を呼ばれ続ける。ヨダカ、と何人もの声が呼ぶ。強調や声色で、名前を呼んでいる人間はだいたいわかる。
しかしその中にいない。漠然とそう思った。誰かがその中にいない。
瞼を開けて、陽炎のように揺れる視界から順繰りに顔を確認する。
誰を探しているのかは、その人を見ればわかる。でもどこにもいないから、わからない。
誰かが目を閉じて眠って、と言った。その指示に従う。
目を開けると、見慣れた木板の天井があった。療養院の部屋だ。
顔を左に傾けると、薄いカーテンが引かれた窓がある。差し込む光は無い。空腹の感覚から、一日も過ぎていないだろう。おそらく半日か、そこらだ。日付が変わった深夜くらいか。
半身を起こし、身体を見下ろすと前開きの治療着だ。
右にはベッド脇のテーブルに突っ伏して、シナギが寝ていた。積み上げられた紙束がいくつもあり、その一つは雪崩を起こして床に散らばっている。
昼間の悪夢のような出来事が、舞い戻って来た。
ユナックの言ったイルビリアを母としたキルクルスの親子ごっこ。まるで思い出せないバーチとの過去。自領を裏切った事実。調停への不参加。そしてシナギへの不信感。
——あの女は誰よりもイカれてる。断言する。この島で一番狂ってるのはあの女だね。
ぎりっと奥歯を噛む。
あれはバーチが調停で優位に立つために、動揺を誘ったのだ。あんな女の言うことを、鵜呑みにしてはならない。
五年前、誰よりも献身的に支えてくれたのはシナギだった。目覚めたとき、すべてが様変わりしていた。顔や身体、故郷の地形、墓の数。自分は死に場所を見誤ったとさえ思った。すべてが過去になり、砂の落ち切った砂時計をひっくり返しても時は刻まれない。どうやってこの世界で生きていたのか、思い出せなかった。
だけど、シナギは昔と同じように笑顔をみせてくれた。自身も辛いだろうに、毎日病室に顔を出し、たわいもない話をして、時には外に連れ出してくれた。彼女と日常を過ごすことによって、日常が続くことを享受できた。前までの飛空兵としての情熱も野心も勇敢さも無くなった自分を受け入れてくれた。鬱々とした感情を押し固めて出来ていく新しい自分を、家族のように慕ってくれた。
信じるべきは彼女だ。何かを隠していようと、それは技官として職務だ。
シナギは腕を枕に、こちらに顔を向け、すうすうと寝息をたてている。目元には涙の跡があった。ベッドに腰掛け、頭をそっと撫でると、彼女は静かに目を開けた。おはよう、とヨダカが微笑むと、空色の瞳がカッと開き、白い手が伸びて肩を掴まれる。
「どうして勝手なことをするの!」
「…………シナギ?」
大声に驚く。かろうじて名前を呼ぶと、彼女は改めて覚醒したようだ。落ち着くために小さな口を閉じ、額に手を添え、辺りを見る。
「大声を出して……ごめんなさい」
「大丈夫?」
と聞くと、シナギは空色の瞳をヨダカに合わせた。じっと見つめられる。エマと親しかった魔導術師たちがする目だ。入れ物しかない思い出を見る平坦な目。彼女にそんな風に見られたのは初めてだった。
「もうぼくの体は大丈夫なのかな?」
虚な目に耐えかねて聞く。
「高熱は治ったわ」
シナギは立ち上がり、ヨダカの隣に座った。ヨダカの首元に手を伸ばし、喉元の骨をなぞる。
「わたし伝えたわ。背丈と同じく、喉の骨を元の形に変えたから、気を付けてって。声帯は形成されたけど、まだ使い方に慣れてないのよ? 喉を痛めることはやめてよ。煙草のこと忘れたから、大丈夫と思って強く言わなかったけど、どうしてまた吸っているの?」
「ごめん。癖が抜けてないみたいで」
「誰かに勧められたの?」
「いや、自分で酒保から手に入れた」
なぜ、と彼女は呟き、俯く。
「しばらくやめるよ。約束する」
シナギは返事はせず、床を見ていた。
「……泣かないと、抱きしめてくれない?」
「そんなことないよ」
シナギの後ろに回り、そっと腰を抱く。柔らかな彼女の髪に頬を寄せる。
「ヨダカ、嘘を付いていたよね」
「きみに?」
「ずっと一緒だと言ったのに」
「徴兵のときのこと?」
そのときシナギは八歳だった。三年で帰ってくると説明したのに、基地へ向かう荷馬車を泣いて追いかけて来た。転んで孤児院の白婦に捕まえられて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で叫んだ声はまだ耳にこびり付いている。
嘘吐き、嘘吐き! ずっと一緒にいるって言ったのに!
荷馬車の幼馴染たちに色男め、と笑わられた。目頭が熱くなっていたので、誤魔化すのに苦労した。
「それもそうだけど、ヨダカが十五のときにわたしに何も言わずに七日間、鉄の買い付けに行った」
「あったね、そんなこと」
「そこであなたは秘密をつくってきたわ」
「秘密?」
「その秘密のせいで、もう一つ嘘となったことがあるの」
「なんだろう? たしか、ゴルグランド領だったね」
他領に行くのは初めてだった。親方の荷物運びに着いて行くだけだったが、浮足だった。
ミルド共闘軍基地に程近く、ハモネイ領にも近い鉱山に行ったのだ。親方の知己が鉱石を卸していて、宿は近くの街に取っていた。
帰路に着く日、親方が土産を見る間、ヨダカは賑やかな大通りを散歩していた。他領の堺とあって交易が盛んな街で、軒を連ねる店を眺めているだけでも楽しかった。
そこで、瞳をくれ、と叫ぶ声がしたことを思い出した。
往来のど真ん中で、刃物を手に持った黒いローブの魔導術師がいた。陶器が並ぶ店に一直線で走って行く。その先には身なりの良い女性が二人いた。一人は背が高く、飴色の髪の毛を結っていて、瞳は——。
「ヨダカ?」
肩にもたれた彼女の顔がこちらに向く。
「どうしたの?」
「……なんでもないよ。上手く思い出せないんだ」
嘘を吐いた罪悪感より、突如として蘇った記憶に心が揺れる。そんな顔を見られぬように、シナギを強く抱き締めた。
どうして忘れていたのだろう。いや、まるで廊下の壁にいきなり扉が現れたようだ。元々扉はあったというのに、自分にとって壁の延長でしか無かった。そこに扉があり、部屋があることに思い至らなかった。むしろ無意識に見ないようにしていた気がする。初恋と繋げてたまるか、と。
なんせヨダカの知る彼女は、いつも悪虐の楽しみを滲ませて、こちらを見る。視界に入れたら最後、魔導銃を背負い直し、軍靴をカツカツ鳴らしながら歩み寄り、悪態混じりの挨拶を披露する。毎度毎度、よく思い付くものだと感心するくらい、侮蔑の言葉を並びたてる。四年前、出逢った時からだ。それから一貫して、睨み、嘲笑い、突っかかり、罵り、煽り、馬鹿にされてきた。一貫してだ!
そんな女になる少女に、十五の自分は目を奪われた。暴漢を止めようと、すぐに走った。しかし少女たちは手近な瓶を投げ付け、他の大人たちが暴漢を取り押さえた。ヨダカは少し離れた場所から見ているしかなく、近寄ろうにも声をかけようにも、まるで勇気は出なかった。明らかに家柄の良い少女だった。染み一つない真っ白なブラウスが眩しかった。見下ろした自分の服に、もっと身綺麗だったら、と心底思うだけだった。
「……きみはその秘密を知らないの?」
「ええ。ヨダカはそれまで、わたしのことが一番大切だと言ってくれたのに、七日離れていただけで、もう二度とその言葉は聞けなくなった。ずっと聞きたかった。怖くて聞けなかったけど、教えて。ねえ、何があったの?」
打ち明けなくては。そう思うが、打ち寄せる波のように不安は足元を湿らす。
さらにクズ捨て場で踵を打って笑う女が邪魔をする。燃えるような炎の瞳で彼女は言った。
ちゃんと考えろ、と。
「鉄の、鉄の買い付けだよ。それ以外は、賑やかな街を見たくらい。なんで知りたいの?」
「それがわかったら、もう一度わたしのことを一番大切だと言ってくれると思うの」
「今でも一番大切だよ。かけがえなのない家族のだと思ってる」
「……ほんとに?」
「そうだよ」
それは本当のことだ。彼女の幸せを願っている。それはアンジトックが無くなる前から、変わらない。
しかし自分は様変わりしてしまった。
一ミリとして野心がなく、単独撃墜も、叙爵も、隊長も、どうでもいいと思ってしまう。鬱々とした怒りを溜め込んで、強心剤を飲んで出撃する。
頭の中で、炎に照らされて出来た影がトントンと踵を打つ。おかしくて吹き出して笑う。情景がざあっと流れ、ぷつんと消える。
あの頃の自分は、きっと……。微塵も覚えていないが、ユナックの言ったことは本当なのだろう。
——その方に惚れていることは明確でした。十二の僕でもわかるくらいです。
自分は十五の初恋をどうにか叶え、すべて忘却し、その情熱は今なお置換できるものがないほど、大切なものだったのだ。
もう少し、ちゃんと、考えなければ。
シナギは何故、それを教えてくれないのか。




