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31、落日のはじまり(7)



 辺境伯邸で翌日の昼まで軟禁され、基地に戻った。

 新たな編制ではイェグスは他隊に異動となり、部屋を移る彼と、保管しておいた上物の葡萄酒を開けて飲んだ。残りはそのまま渡す。


「もう売るなよ」

「飲みかけを売るかよ。一人で寝酒にする」


 そう言って笑う彼は軽い拷問を受けたらしい。額に黒い稲光のような跡が残っている。オヴィット隊長曰く、最後までバーチを庇っていたとのことだ。ハモネイがグスル族と講和を選んでいる以上、下手に殺せないことを逆手に取ったのだろう。


「お前は生かされている。今死なれたら、間者を始末したと思われかねない。それを留意して生活しろ」


 オヴィット隊長はそう言って、バーチの部屋を隊舎の最上階である三階に指定し、魔導術師と同室にした。


 日を追って濃くなっていく目の下とは逆に、隊舎の中で脱走の噂はすぐ薄れた。六人の飛空兵が階級特進で去ったことを和ませるような話題として使われただけだった。


 一ヶ月後、オヴィット隊はゴルグランドへ遠征となったが、バーチは構成から外された。魔導術師の監視下でまた軟禁となる。ルーエン少佐がサリエを警戒する以上、当然の措置だ。


 その他の隊も全て出払い、暇を持て余す飛空兵生は酒場に行っている。いつかのように静かな夜が続いた。


 隊舎の部屋で、魔導術師の寝息を聞くと、机の上のランタンを灯す。それを窓際に置いた椅子に置き、ぼんやりとベッドの上に座って眺める。


 踵を地面に打つ機会は無くなり、ポケットは空になった。


 ルーエン少佐の聴取では姉から貰った櫛さえ没収とされ、ペンダントは魔導具と疑われ、少佐の軍靴で踏み潰された。宝石だと思っていたオレンジ色の石は硝子細工で、魔導術師が丁寧に拾い集め、指輪とともに灰皿で焼かれた。


 聴取が終わると、あの荒唐無稽な考えは忘れろ、と少佐は言った。凝り固まった怯えがあると、何でもそこに繋げてしまうものだ、と。


 しかし、バーチはルーエン少佐の直感がどうしても無視できない。

 だからバーチは思い出を黒炭にする灰皿の炎へ、ギールルを焚べた。

 優しい姉たちを、活発な妹たちを、甘え上手な弟を、再会のたびに涙を流す父母を。


 そして、願った。

 彼と自分の秘密を知る、強かで狡猾な彼女の訪れを。


 自分が狼なら、月に遠吠えを響かせるだろう。代わりに灯した窓際のランタンがどれほど目印になるかはわからない。しかしきっと、彼女は訪れると信じた。


 部屋の中を這いずり廻る追憶に、目の下を濃くしていると、キイっと扉が開いた。


 部屋に静かに入って来たサリエ少佐は、バーチが膝を抱えるベッドのふちに座った。同室の魔導術師は不自然に眠りこけ、それを紫目の副官ジョルグが確認している。


 一歩も外に出てはなりません、と魔導術師は昨日からピリピリとしていた。少佐になったサリエが共闘軍へ挨拶に来たのだろう、というバーチの予測は当たったのだ。


 なおざりな歩哨や手薄になった隊舎とは言え、彼女たちがやっていることは密偵だ。しかし二人に緊張は感じ取れない。あるのは余裕と微かな笑み、憐憫を浮かばせた目。


「……佐官になるのは、大変でしたか?」


 バーチの問いにサリエは笑った。


「とてつもなく。体も心も全て費やしたわ」

「ゴルグランドは謀ったのですか?」

「いいえ。足の装具は独占したけれど、あんな惨劇をする畜生ではないわ」

「それなら、アロイライのユナック候補生の長期派兵はできそうですか?」


 脈絡無くそう言うと、サリエ少佐はピクッと眉を動かした。ジョルグはぷふぅと笑う。


「隊長、やはりこの方にはバレてますねえ」

「……バーチちゃん。面白い話を手に入れたのよ。ルタハトの宝石と呼ばれたアロイライ伯爵夫人をご存知? あの日、彼女は娘と共にアンジトックから本土へ密航を企てたの。彼女らを捕まえるために警鐘を鳴らさず、キルクルスを野放しにしたのよ。特にね、伯爵令嬢を救うためよ。イルビリア・アロイライ。オルタナシア研究所が心血注いで見付けた飛空兵適合者なの。それでも許せないわよね」


 バーチを同族と看做したのだろう。ペラペラと喋るサリエはアロイライを敵視しているかと聞いているようだ。しかしバーチには興味がない。


「そんなこと、どうでもいいです」

「……どういうことかしら? あなたは私がヨダカ中尉との関係を知っているのに、上に報告しなかったでしょう? 私を頼るつもりじゃないの?」


 彼女はバーチとヨダカが箝口令で会えなくなったのに漬け込み、秘密裏に手紙のやり取りを仲介したり、派兵権限を使い同じ援護に組み入れたり、あらゆる融通をして二人まとめて取り入れる思惑だと見て、間違いない。


 サリエなら、ヨダカ中尉の忘却がバーチであることに勘付ける。ゴルグランドの検問近くで起きた騒動を調べ、酒場に諜者を放てば、意識の低い輩たちから、バーチの様子を聞けるだろう。


 しかし、彼に全ての記憶が無いとは知らないようだ。


「シナギ准尉曰く、ヨダカ中尉の記憶に私はもういないとのことです。全て忘却したと言い切ったそうです」

「……そんなこと起こるかしら?」


 思惑を崩されそうなサリエ少佐はジョルグに視線を向ける。彼は額、瞼、頬を人差し指で叩いた。それを二度繰り返すと、口を開いた。


「過去に火砲を十発も撃って生き残った飛空兵はいませんから、可能性はあるかもしれません。しかしバーチ殿は何やら確証があるようですね?」


 ジョルグの淡い紫色の瞳をバーチは見据えた。


「私はずっと考えていました。キルクロピュルスについてです。そもそも魔獣認定はキルクルスではなく、キルクロピュルスにするべきだと思います。魔獣とは魔導術に似た性質の行動を起こす動物を言うのですから」


 ジョルグは数度頷く。


「僕も同意見ですよ。キルクルスは地上で変形しますが、それは生物としての働きです。魔獣とは雪栗鼠(ゆきりす)が頬袋で氷をつくれたり、炎齧歯(えんげっし)を持つネズミたちが前歯に熱を溜めることです。キルクロピュルスで言えば、宿主の心音が離れると爆発するのと、出血多量または火砲の撃ち過ぎにより、宿主の記憶を喰むことですね」

「その行動はキルクロピュルスにとって、利となりますか?」


 雪栗鼠は頬袋で木の実を凍らせて夏から冬への蓄えを始める。天敵である炎齧歯を持つネズミたちは、それを溶かして横取する。生きるために持つ能力だ。


「キルクロピュルスは人間を宿主としているのに、害する行動をすると感じます」

「僕も害だと思いますけれど、それを決めるのは、人間の私たちがすることではありません。謎に包まれているだけで、キルクロピュルスという生物に必要があるのですよ」

「私は、キルクロピュルスは求めていないと思います。奴らを心液に溜めたキルクルスに火砲を撃ち込んでも、爆発しません。奴らは心液に潜むように、飛空兵の中でも静かに過ごしたいのではないでしょうか」

「何が仰りたいのです?」


 真剣に聞いて欲しいのですが、とバーチは前置きをした。


「シナギ准尉が箝口令を進言したとき、ルーエン少佐は女の情念を見たと言っています。私とヨダカ中尉を切り割くために、アンジトックの出来事は全て彼女が仕組んだのでは無いか、と感じておられました」


 悪意とは物的に得られるものではない。悪意が物的に得られたときには毒が臓腑を破壊したり、ナイフを突き立てられた後だろう。

 だから敏感に感じ取るのだ。

 傷め付けられた心は無形の物証だ。彼との過去は未来ごと撃ち抜かれ、もう二度とあの夢のような日々は手に入らない。

 この正確無比な被弾を偶然と片付けることはできない。


「いくら何でも冷静な考えではないですよ。消される記憶は無作為なのです。そんな残忍な賭け事をするとは思えません」

「彼女には確実に勝てる方法がある、と推測します。あの日、偶然にもイルビリア嬢が密航し、偶然にも流れ着いたキルクルスが浮上し、そこは偶然にもヨダカ中尉の故郷だったのです。偶然が多発しているのなら、管理する者がいても、おかしくはないかと」


 ジョルグは高速で額、瞼、頬を人差し指で叩いた。


「バーチ殿はキルクロピュルスが爆破も記憶を喰むことも求めていないとお考えなのですね?」

「はい」

「つまり、キルクロピュルスは何か(、、)に操られていると? その方法や存在をシナギ准尉が知っている、とお考えなのですか?」

「はい。それしかないと思っております」


 ジョルグは身震いをした。見開いた目をサリエに向ける。


「なるほど、なるほど! サリエ隊長、あの天才錬金術師の勲章はそういうことですよ! ルーエン少佐の直感は僕らから見れば、シナギ准尉の大博打です。無くなる記憶は無作為だと思われていますから、狂気しかありません。しかしこの推測は、それが博打では無いこと、あの燦然と輝く勲三等を平民に渡した謎も解けます」

「そしてキルクルスすら操れる可能性がでてきます」


 バーチがそう付け加えると、ジョルグはまた額、瞼、頬を指で叩いた。


「たしかに、たしかに。もっと言えば、先日アロイライのランプーリ噴出孔が活性化したのは偶然では無くなりそうですね。ヨダカ中尉はそこに張り付けになりますし、アロイライは他領に遠征に行き、キルクルスの心液や素材を稼がなくて良い。おおおお! 隊長、早急にこの件は調べるべきですよ」


 サリエ少佐は興奮するジョルグとは裏腹に、明らかな同情を滲ませていた。


「ジョルグが興奮するほど、バーチちゃんが明晰な人だってことはわかったわ。おそらく覚悟も決めているのでしょう。でもね、復讐なんて無意味よ?」

「復讐になど興味はありません。私はただ佐官になりたいのです。そのお力添えを頂きたい」

「佐官になってどうするつもり?」

「もちろん、彼を手元に置くのです」


 サリエは潰れた虫を見るかのような顔をする。


「……あなた、正気じゃないわ。この推測からして、また惹かれ合っても彼は記憶を消されることくらいわかるでしょう? そんなことのために、この先の地獄を歩くの?」

「私はまた愛されようとは思っておりませんし、既に地獄を歩いています。できることをしたいのです」

「あなたは知らないのね。形容の仕方も思いつかないことを地獄と言うのよ。バーチちゃん、今ならただの悲哀で終わるわ。ちゃんと考えなさい」


 ちゃんと考える、とバーチは繰り返した。終わりか、続けるか。答えは一つしかない。それをこれ以上、どうやって「ちゃんと考える」のか。


「自分でも、少々狂っているのは自覚しております。しかし地獄を歩んでいるのですから、正気など必要ありません。それでも……」


 込み上げる熱情がバーチの胸を焦がす。このままで終われるものか、と震える手を握り締める。


「それでも中途半端と言うのなら、あなたの言う地獄をちゃんと歩きたい! 出口など無くていい! 最初から求めてなどいません! 突き進むのみです! あなたに一生の忠誠を誓います! 私を少佐にしてください!」


 そこまで言うのなら、とサリエ少佐は笑った。まるで上品さのない下卑た笑みだった。


「いいわ。手伝ってあげる。私、地獄への手引きは慣れているの」





 一年後、はじめての遠征はランプーリとなった。


 やはり隊長のバーチだけが止められる。要塞と辺境伯邸へ続く検問だ。馬車から降りると、瞬間に白い軍服の技官たちに囲まれた。オルタナシア研究所の者である。


「わが辺境伯軍、唯一の飛空兵なのです。何かあってからでは遅いのです。アロイライ辺境伯とフィオリ子爵の指示でもあります。どうぞご理解の上、署名を」


 箝口令など、とうの昔に知っている、と言ってもツタイという下士官は引き下がらなかった。


 差し出す紙を見ると誓約書だ。『有害な情報を持って我が軍の飛空兵を損じることをした場合——』と読めて吹き出した。


 それはお前らだろう、と言ってやりたい。藁で作った牢屋に閉じ込めて、火を放っているのはお前らだ。


 ツタイから紙を奪うと、副官の魔導術師に渡す。


「持ち帰らせてもらうよ。ハモネイ辺境伯や上官の許可なく、誓約書なんて署名できないね」


 その夜にキルクルス浮上の予兆が出たのは技官らにとって本当に不幸だろう。翌日からバーチ隊はランプーリ要塞に呼ばれ待機に入った。


 案内された要塞下層は当直の飛空機乗りや整備兵がいた。魔導術師の幾人かの目はバーチを見張る。


 海側の外廊下の隅へ椅子を持って出た。キルクルスの骨の塗壁は真っ白で、照り返していた。太陽を浴びながら本を読んで、出された昼食もそこで食べ、海を眺めた。時折廊下を歩く者がいたが、バーチに関わる者はいなかった。


 午後を過ぎると、制帽を目深に午睡をとろうと欄干に足を投げ出す。しばらく目を閉じていると、自然と涙が溢れた。


 何故かはじめてあの人の部屋を訪れたときを思い出した。

 見張りを放り出す決意をした、あの瞬間を。


 月は薄い雲に隠れていた。細かい雨が降り始め、全てを静寂に包んでいた。闇に沈んだ階段を見て、蛙でも鳴いていたら良かったのに、と思った。


 途中の踊り場で、どうしようと不安がなったのも覚えている。窓ガラスに微かに映る自分の荒れた髪に、もっと身綺麗になる小物を揃えておくべきだと、覚えておくしかなかった。


 とにかく答えが知りたくて焦っていた。これはあらゆる間違いだと、非難されるだろう。それでもいい。そう決めて扉を叩いた。


 あの人はバーチの顔を見て、夢が叶った、と言った。

 口説き文句だとしても、一生心に刻まれる言葉だった。彼の部屋へ進む自分もそれと同じことを思ったのだから。


 すべて泡と消えても、バーチは覚えている。


 陽を浴び過ぎたのか、目が熱を持って涙が流れ続けた。構わずに乾かしていると、隣に誰か立つ気配がする。制帽をずらし、横目に映ったのは大尉の階級章だった。


 サリエが言ったように、背はバーチよりも低く、顔と銀目はエマ大尉そのものだった。風になびく黒髪だけが、あの人の名残だ。


「こんにちは、今よろしいですか?」


 声はそれなりに低いが、エマ大尉を彷彿とさせる。


「ええ」


 とバーチは欄干から足を下ろして立ち上がる。見下ろされても、彼は興味深そうにバーチの瞳を見ていた。


「私の目は珍しいですか?」

「ああ、失礼しました。とても見事なので」

「……家がオレンジ農家ですから、私の目はオレンジ色になったと言われています」


 彼はくすりと笑った。

 その顔も、首筋も、腕も、全てが細かった。何の名残りもないと思ったが、彼はヨダカだった。


 バーチだけが知る彼は、冷たく暗い部屋に閉じ込められた。扉や窓は跡形も無く消え、そこにはもう誰も入れない。それなのに、顎を撫でる親指が、立ち姿の軍靴の開き方が、口元の緩め方が、胸に熱が籠ってしまうことが、彼だと教えてくれる。


 無意識に歩を進めようとしたバーチに、ヨダカはすっと手を差し出した。


「アロイライ辺境伯軍、飛空兵ヨダカ大尉です。バーチ少尉で宜しいですか?」


 その無垢な問いかけに笑ってしまった。

 君の瞳は、明日を約束してくれる夕陽だ。

 そんなことも言われたな、とバーチは笑みを深める。今更それが皮肉に聞こえるとは。

 しかしながら、夜の帷を迎え入れる夕陽に、闇を切り裂く力はあるのだろうか。

 ……そんな力はないだろう、とバーチは差し出された手を無視し、ガンと軍靴の踵を揃えて敬礼をする。切り裂く手立てがないのなら、沈まぬよう抗うまでだ。


「ハモネイ辺境伯軍、飛空隊バーチ隊バーチ少尉です。以後、お見知りおきを」


 さて始めるか、とさらに口の端を上げる。


「飛空兵の大尉で自身の部隊を持っていないのあなただけですが、我がハモネイでは、女顔の玉無し野郎と陰口を叩かれてること、ご報告します。早急に部隊編制に乗り出したほうがよろしいのでは?」


 ヨダカの顔が歪み、握手を求める手が降りた。


 バーチは彼の全てを受け入れる。

 どれだけ形を変えようと、他者の嘲笑に晒されようと、バーチが侵されることはない。


 次は爪を立ててでもこの名を刻んでやる、と思うのみである。



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