16、帰巣する雛たち(1)
目覚めると、背が高くなっていた。損傷のひどい身体を利用して、骨を変えたらしい。十日寝てたら十センチも伸びているなんてさすが飛空兵だ。
一七五センチと伝えられたがよくわからない。ヨダカは視界の変わった辺りを見回す。見慣れた療養院の部屋だ。浴槽とベッド、机と椅子。壁には療神のタペストリー。そしてシナギ。彼女を見下ろして、やっと身長が伸びたことを実感した。
「十五歳くらいの背丈になったね」
彼女はそう言って笑った。
十五歳。実際は三十半ばだというのに不思議なものだ。
ふと、彼女を抱き上げてみたくなる。ひょいと尻の下に腕を入れて持ち上げると、関節がギチギチと鳴った。若干の痺れを背筋に感じたが、問題なく動く。
「ちょっと、何? 降ろして!」
「すごく軽い気がするけど、ちゃんと食べてる?」
「食べてる! 降ろしてよ!」
それにしても筋肉はどうやって造られるのだろうか。ほとんど燃焼して十日寝ていたと言うのに、身体に見合った力が出る。寝ている間にキルクルピュルスが勝手に仕立てるのだろうか。小人が出てくる御伽話みたいだ。
シナギが赤い顔で頬を突いてきた。
「もう、聞いてるの?」
「ぼくが十五のとき、きみは五歳だってのに抱っこをせがんできたよ」
「今でも嬉しいけれど、他の人もいるのよ!」
「誰がいてもきみは喜んだよ」
「……じゃあ百秒数える。ずっと抱っこしててよね」
シナギは膨れた頬とは裏腹に口元を緩ませている。
いつもは真っ白な軍服はくすみ、髪は編み上げている。おそらくずっと研究所にいたのだろう。風呂に入れないと彼女は長い黒髪をうなじでまとめる。目元にクマがあるが、それでも空色の瞳は曇っていないことに安堵する。
「お戯れはそんへんで。骨を変えたばかりなんですから、馴染むまでは過度な運動はやめてくださいよ」
二人を呆れた眼差しで見るのはシナギの秘書官の男だ。黒い短髪に眼鏡。年齢はの三十手前だったか。療養室のベッドの脇で包帯をクルクルと巻きながら、ため息を吐いている。
名前がすぐに出てこない。たしか……、とヨダカはシナギを床に下ろす。
「魔導術師になりたくて家出したツタイだ」
「そうです。ツタイです。あなたと同じ東国に祖を持つ同郷の魔導術師崩れですよ。覚えていてくれて安心しました」
彼は短い眉を垂らして笑った。早々に魔導の才無しと自分を見切ったことは、彼の劣等感を滲ませる自己紹介を生んだ。それを聞くのは久しぶりである。眼鏡にヒビが入っており、その奥の切れ長の目は濁り、明らかな疲労を感じる。
シナギが彼に声をかける。
「ツタイ、もう下がっていいよ。ゆっくり休んでね」
「休むと言っても、何をすれば良いやら。帰る故郷もありませんしね」
彼は自分の発言に顔をしかめた。
「すいません。皮肉のつもりじゃないんです」
「いや、いいんだよ。ぼくも時々、帰る故郷があればと思うから。看病してくれてありがとう」
ヨダカはそう言ったが、ツタイは気まずさを残しながら部屋を後にした。
故郷は否応無しにイルビリアを思い出す。あの気の触れた女はどうなったのか。ヨダカは顔に出ていたのだろう。シナギを見ると、いつものように眉間に皺を寄せていた。
「イルビリアはすぐに退院したわ。でも今回、あなたの治療の邪魔をしたり、魔導術師シーダーに暴行したことで、謹慎になったの。今は母方のお屋敷で、伯爵令嬢らしく優雅に過ごしているんじゃないかしら」
「なるほど」
そうとしか言えなかった。
あれだけの狂人ぶりをみせても謹慎で済んだとは。おそらくディグナー隊長の命令を無視してヨダカの元へ飛んで来たのだろうし、救護の妨害は殺人に等しい。彼女でなく自分がすれば運が良くて処刑、悪かったら拷問死だ。
「あの子、あんな奇行を大勢の前でさらしたんだから、しばらく帰って来れないよ」
「それってさ、彼女が全力で撃った代償なの?」
五年による投薬により、イルビリアは飛空兵となった。キルクルスから造った人工骨を替えれば背が伸びる自分とは違う。彼女は自身の中で、骨すら火砲に耐え得るものに変えた。その薬が変革剤と呼ばれていることしかヨダカは知らない。
「あんな症状が出るとは予想していなかったの」
「ぼくらとは違うね。あの処置の仕方も」
彼女との明確な違いだ。
通常は全力で撃てばぐったりだ。血液の三分の一が無くなるのだから当然だ。おそらく自分はそれ以上失っていただろう。そうなるとキルクロピュルスは安全な場所を探し求める。心音と酸素を求めて身体を駆け巡り、肺や心臓に我先にと集いだす。酸素の奪い合いで脱落した虫は爆発して血管や皮膚が裂く。さらに流れ出た個体は爆発する。だから身体を魔導術で冷却し、キルクロピュルスの動きを鎮めるのだ。
しかしイルビリアはキルクロピュルスを摂取した。真逆と言ってもいいだろう。
「他言しないでね」
「もちろん。でも、それだけ?」
「ヨダカ、ごめんなさい。いくらあなたでもこれ以上は言えないの」
無理矢理に聞いても悪いことしか聞けない気がした。それに自分には関係ない。ただ疑問に思っただけだ。あの女が大人しくしてくれたら、他は何も望まない。
いや……まだあったな、と舌打ちをする。あれは確認しなければ。
「あの恐ろしい発言は妄言だよね?」
イルビリアは自分たちは林の中で愛し合ったことがある、と言っていた。もしそれが本当なら、自分も狂っていることになるし、関係ないとは言い切れない。
キッとシナギの目が鋭くなり、眉間に皺が寄る。
「錯乱した女のデタラメよ。アンジトックで、キルクルスを迎撃したことは覚えているでしょう」
「……まあね」
男女の仲でなければ、故郷を潰された禍根しか残らない。
ああ、もう一つある、と次から次へと浮かぶ疑問にヨダカは辟易した。
自分の吐血を浴びたのにも関わらず、イルビリアの顔は吹き飛ばなかった。全力で撃った火砲の影響で、キルクロピュルスの割合が少なくなったのか。
ヨダカはとても嫌な感じがした。この疑問はどこかに繋がっている気がしたのだ。
思案する友に胸のポケットの何かを求めるが、そこには何も無かった。この空白の感触には身に覚えがある。
それを見たシナギは眉間の皺を取る。
「ねえ、ヨダカ。煙草探したでしょ?」
「……たぶん」
「療養院で吸ったら、アカシアさんに蹴られるよ」
「……ぼくは煙草を吸ってたんだね?」
「あなたは煙草のことを忘れたの?」
これが今回全力で撃った対価だろうか。煙草を吸っていた記憶もない。禁煙した記憶もない。胸ポケットを探ってしまう癖だけ残されたのか。
「じゃあもう煙臭くないね」
シナギは嬉しそうに笑い、机を布拭きしている。またあのしち面倒くさい作業が待っているのだろう。
「ぼくはまた紙束と格闘するんだよね?」
「そうよ。ちゃんと文字は覚えてる?」
「危ういかな」
「じゃあわたしが読み上げようか」
そう言って嬉々として笑うシナギに、先ほどの疑問を確認しようか迷う。しかし聞いてもきっと教えてはくれないだろう。ならば放っておくしかない。
今は自分が何を忘れてしまったか、確認しなければならない。一つはキルクロピュルスが喰った記憶は煙草についてだろう。身体に悪いからか、何なのか。
机に移動すると、シナギは紙束が置いた。ヨダカは椅子に座り、ペンシルを持つ。
「久しぶりだ」
アンジトックの攻防でも記憶を無くしたから、五年ぶり、二回目だ。
「前は葡萄酒が好きだってことと、コクト少尉と気に入ってた酒場の女の子を忘れたのよ。今回もしっかり目を通して」
「善処するよ」
全力で火砲を撃ち、意識なく冷却されると記憶が失われる。それが何なのか調査するのだが、気怠い作業だ。
一番上の紙にはまずは嗜好品が列挙する。その中で好きなものを選ぶ。インク瓶の収集と金物細工、カボチャのポタージュなどに印をつける。単語は百近くある。
「ねえ、ぼくは蛇が好きだったの?」
「ひっかけもあるのよ。ちなみに好きなの?」
「好きじゃない。大嫌いだよ」
ふふ、とシナギは笑った。ベッドに腰掛けて、彼女は彼女の仕事をするようだ。紙留めで板に挟んだ書類に何事か書き込んでいる。
次の紙を捲ると、そこからは自分の交友関係からまとめれた人物名が羅列する。一枚につき十人分。もちろん全く関係のないひっかけの名前も混ざっているため、紙の厚みから見てざっと五百人と言ったところだ。
その隣に関係を表す数字を書き込む。家族なら一、友人なら二、と言った具合だ。さらにどういう関係か、できるだけ書き込む。
シーダーなら十一の魔導術隊、下品な冗談をいう爺さん、わりと優秀、ナリーの元旦那、療養院のメイダに惚れている、などだ。
「あ」
「どうしたの?」
ヨダカは書いた後でハッとした。最後の恋慕はシーダーとの秘密だ。老女との恋仲を取り持つように、自分に協力を仰がれていたのだった。禁酒禁欲の白婦に恋焦がれて鼻の下を伸ばしているなど、周知するわけにはいかない。
「これって誰が見るんだっけ?」
「わたしとディグナー隊長よ。最終的にフィオリ大佐に渡すけど一瞥もくれないでしょうね」
ならばいいか。メイダへの恋は秘密、と書き込んだ。シーダーには協力者が二人増えたことを伝えよう。
「アカシアは元索敵隊で、友人って書いた方がいいのかな。いや、白婦もか。禁酒の身なのに酒をせびる、って書いたらまずくないか?」
「でも、できるだけ詳しくお願い」
「ツタイって、材木屋の息子だったけ?」
「わたしに聞くのはダメ。でも合ってる」
半分ほど過ぎたところで、こんなの無意味だろ、と思いはじめた。たぶん五年前にも思っただろう。
その人のことをすっかり忘れてしまうのならわかるが、その人が煙草を吸っていたことを忘れてもさして重要ではない。特定の銘柄の酒を飲んでも、腸詰肉が死ぬほど嫌いでも、そんなことは誰だって失念するときはある。
小一時間の事務作業だが、空腹を感じ始めて限界だ。
七十人ほどの関係を書き出したが、最後はもう面倒になり、大して付き合いのない者は顔見知りと訂正した。
「終わったよ」
「……この人も顔見知りでいいの?」
そばに来たシナギがそう言って指差したのは、アンジトックのジールという故人だ。
「いいよ」
と伸びをする。
たしか孤児院で暮らしていた頃に、木箱を抱えて訪れてたいた農夫だ。野菜か何かをくれたのだろう。感謝はしてるが、挨拶以外に思い出はない。
「そうだ、ユナックとアデルは大丈夫だった?」
あの夜、上空から見る限り彼らは動ける様子では無かった。
紙を見ていたシナギがはっと顔をあげる。
「何かあったの?」
「違うわ。アデルは大丈夫よ。彼女ちゃんと二発目も強で打って、艀へ自分で戻ったわ。貧血がひどかったけど、四日目には目覚めた」
「その口ぶりだと、ユナックは意識なく冷却されたんだね?」
「……うん。ユナックは引き金を全部倒して、止血紐もしていない状態で海に落ちたの。ミオンを褒めてあげて。彼女は海の中に潜ってユナックを救ったのよ。コクト少尉に預けたあと、迅速に艀に戻って、意識が飛びそうなアデルに海水を浴びせ続けたの。今回の功労者よ」
怖かっただろうに、とヨダカはミオンを思った。戦いの中で成長するなんて、まだ必要のない歳だ。
「ユナックは朦朧としていたんだけど、けっきょく冷却が間に合わなかったの。それで七日目に起きて……、その夜にアーザック中尉から報告があった」
「アーザック中尉? ディグナー隊長の次男の?」
たしか騎士団だったか。さっき書いたっけ、と思い紙を捲る。
「そう。アロイライ辺境伯がディグナー隊長とフィオリ大佐を連れて、ミルド共闘軍基地に行ってるのよ。ハモネイ領と今回の母体の取り分で揉めているから」
揉め事には関わりたくないが、おそらく戦闘に出た参考人として呼ばれることになるだろう、とヨダカはうんざりした。
「で、報告って言うのは?」
シナギが机の紙をパラパラと捲る。ある紙で止まると、人差し指で書かれた人名をなぞり、ユナックで止まる。
彼との間柄は候補生を示す数字以外にもある。横に養父と書かなければならない。彼が十歳のとき、ビスガット神院付属の孤児院で黒紙検査に合格し、跳ねて喜ぶ姿に絆されたのだ。
彼女はそれを確認すると口を開く。
「あなたが気まぐれで養父になったってことを忘れたみたい」
「……あんなに大喜びしたくせに。まあ、もうあってないような関係だけど。そんなこと、どうして思い当たったんだよ?」
「今、ランプーリは共闘軍が着任しているの。それで隊舎から辺境伯の別邸に引っ越したんだけど、あなたの部屋を整えているときにトランクを落として、養育権利書を見つけたそうよ」
「それで忘れたことに気付いたのか」
寝食を共にし、風呂まで持っていった紙だ。将官学院に入るとき、自分に預けて来た。無くさないでくださいね、と何度も言った彼をこうも簡単にキルクロピュルスは薄情にさせるのか。
「居合わせたアーザック中尉がユナックの様子がおかしかったから、わたしに教えてくれたの。まだ本人から詳しく聞く前だけど、候補生に記憶の件を伝えようにも、わたし一人じゃ決められないのよ」
「知った以上は無理だろう?」
「だって本隊に入る前に伝えることになっているのよ。准尉のわたしが勝手にできることじゃない」
ヨダカが強で撃て、と命令したことはシナギもディグナー隊長もわかっているはずだ。
全力で撃って意識なく冷却されると一部の記憶が無くなる。その事実を知らない候補生を、興奮剤を二本打ったユナックを、その場にいた自分はもっと気遣うべきだった。
「じゃあ療養院で休ませておけばいいじゃないか」
「そしたら、あの子はその理由を深く考えちゃう性格でしょ。だからフィオリ大佐が帰ってくるまで、ヨダカが話を聞いてあげてくれる? 記憶が無くなることは、それとなく言ってもいいわ」
「ぼくからならいいの?」
「あなたは大佐の持ち物じゃないもの。ディグナー隊長が怒られるでしょうけど」
シナギはスパッと責任転嫁した。隊長は今もミルド共闘軍基地で辺境伯と大佐の間で奮闘しているだろうに。帰って来たもてなしが大佐からの叱責とはお可哀想だと、コクトなら言うだろう。
「それにしても、ユナックはぼくより酷いと感じるけれど。ぼくは煙草で、彼は養父だろう? この差はなに?」
「……ごめんなさい。まだよくわかっていないの」
「まあ、そうだろうね」
わかっていたら、こんな事態にはなっていない。アーザック中尉の欄に騎士団と付け足したので、ペンシルを机に転がす。
しかしシナギはジールという故人の紙をヨダカの前に置いた。
「やっぱり書いてちょうだい。できるだけ調べるのが、研究所としての仕事なの」
「……もしかして忘れてる? 彼は農夫で、ぼくらがいた孤児院に野菜をくれた人だよね?」
シナギはそれには答えなかった。顔を青くして呼吸を落ち着け始めた。そして早口に捲し立てる。
「山羊小屋の旦那さんが、祝いの席でチーズをスープにかけてくれた。私、びっくりしたの。だってどんどんかけてくれるから。旦那さん、私の驚く顔を見て、かけていたのよ。それに気付くまでずいぶん時間がかかかったわ。だって明確な答えがないんだもん。でも、その仕組みを理解した途端、チーズは少なくなったの。あのときのこと鮮明よ。その旦那さん、私を子供でないと判断したとき、確かに哀しそうにしたの。ねえ、大人って子供を共有しているのかしら。私は山羊小屋の旦那さんの子供ではないのに、あの人ったら、私に同情したの。大人になった私に悲しみを向けたの。さようなら、って聞こえた。私もいつか言うのかしら。さようなら、って」
驚くほど流暢に言ったのは、歌劇か何かの台詞だろうか。圧倒されてうまく言葉が出ない。
「……今の、何? シナギ、ぼくは……ジールのこと、勘違いしてるのか?」
シナギの目はじわじわと潤んでいく。
「そうね。忘れたね。彼は農夫じゃなくて、牧場主よ」
「今言った、山羊小屋の?」
「うん、そう」
「で、さっきのはその思い出?」
「そうよ。今回は煙草とジールさんについての事柄を忘れたのよ」
「それならよかった。あんまり大したことじゃないね」
そう言ってシナギの涙を止めようと笑う。しかし彼女はぽろぽろと空色の瞳から雨を降らせた。
「でもあの思い出には、私も含まれるのよ?」
ヨダカは立ち上がって彼女を抱きしめるしかない。その涙を真新しい軍服のシャツに染み込ませ、気が済むまで付き合うしかない。
おそらく彼女にとって、その思い出は大切なものだ。それを大したことない、と言った自分にもう口にできる言葉は無かった。