15、ユナック候補生の受難(3)
辺境伯邸の裏手にある別邸に着く頃にはすっかり陽が落ちていた。
当てがわれた部屋に荷物を置き、食事を済ますと自習の時間を利用して、ヨダカ大尉の部屋を整えることにした。
支給される寝具やタオルなどを揃え、トランクを持ってアーザック中尉に鍵を借りる。
尉官用の部屋でも、ユナックと同じく二人部屋の手狭なものだった。辺境伯の別邸と言っても、自分たちが使うのは来客の連れて来る下働きが泊まるものだろう。
壁掛けのオイルランプに火を移すと、大尉のトランクを机の脇に置く。
タオルをしまおうと戸棚を開けると、すでに替えの軍服が入っていた。引き出しの上に置かれた小さな木箱に目に留まる。共闘軍の五本のサーベルの紋が焼印されているので、徽章が入っているのだろう。サリエ少佐に共闘軍の制帽のつばで突かれたことを思い出した。
「後見人……ってなんだろう」
今更ながら彼女の言ったことを思い出した。自分のことなのにわからない。
しかし少佐は知っていて当然のような口ぶりだった。ものすごく良識外れの行為をするが、それは他人の目あってこそ愉しむ人だ。揶揄いはすれど、嘲りはしない。
まあディグナー隊長が後見人だろう。ユナックはベッドにシーツを引く。
しかし考察は止まらなかった。
なぜなら隊長は男爵だ。平民の後見人になどなるだろうか。ディグナー隊長が飛空兵を囲うようなことなど、アロイライ辺境伯やフィオリ子爵が許さない気がする。もしそうなら、候補生は全員、貴族の後見人を持つだろう。しかしそんなことは聞いたことがない。サリエ少佐が貴族として迎えられたのは、その優秀な戦績からであり、自分はそれに値するものはない。
ディグナー隊長が後見人じゃないのなら、残る人は……。
シーツの皺を伸ばし終えると、ヨダカ大尉のトランクを見つめる。
世話になっている上官の荷物を漁ることを思い付くなんて、どうかしている。しかしユナックの周りで、年齢的に一番考えられるのは大尉しかいない。
「……ごめんなさい」
この行き場のない不安をどうにかしたかった。どうしても気になる。全く身に覚えがないのだ。
トランクを開けて、衣服を出し、奥にしまった革でできた二つ折りの書類綴じを手に取る。
紐を解くと、辞令や任期の更新書がまず出てくる。それほど細やかな管理はしていないのだろう。褒章の通知、共闘軍の内規、白紙の便箋がおり混ざっていた。
後見人の手続きなら、領の公文書だ。少し灰色がかった色の紙を探せばいい。
「……養育権利書」
見付けてしまった。
これは孤児院で見たことがある。養父母へ発行する公文書だ。保存状態が悪いのか、所々にシミや、折れ目が入っている。
一番上に書かれた子の氏名はユナックだ。ビスガット神院の付属孤児院、七年前の日付、宣誓文、院長の署名、立会人はリイロ・ディグナー男爵つまり飛空隊隊長だ。
そして養父にヨダカ大尉の名前。
彼の署名で間違いない。最初、ペンシルの書き味を試すようにスッと直線を引いてから始め、最後の文字を一筆で書く。
しかしユナックに心当たりは全くない。
これはいったいどういうことか、冷静になって考えようと、その場をくるくると歩く。
記憶を手繰ろう。将官学院に入る前はどうだったか。
まだエマさんが生きていた。アロイライ領ではじめての飛空兵。銀髪銀眼の偏食家。フィオリ大佐のお気に入りだった人だ。ユナックも優しい彼女を慕っていた。その頃はヨダカ大尉の瞳は赤茶色で、背がずいぶん高く男らしい姿をしていた。
他の候補生はまだおらず、領内の任地に赴くヨダカ大尉にユナックは付いて行った。そこで援護に来ていたバーチ大尉やサリエ少佐とも顔見知りとなったのだ。それが将官学院に入る前、十三歳頃まで続いたと覚えている。
そのもっと前、十歳の頃。ビスガット孤児院にて、黒紙検査という飛空隊適正検査が行われた。それはストラ島では珍しいことではない。成人までに必ず受けなければならない島民の義務だ。
その検査でユナックは適正有りと判断され、その日のうちに手を引かれて孤児院を出た。この記憶とこの紙の日付に整合性はある。
では手を繋いでいたのは————
空白。
十歳だ。七年前だ。孤児院のみんなに見送られているのも覚えている。誰かと手を繋いでいたのも覚えている。でもユナックの手の先に何もない。空白だ。忽然といない。
文書からそれはヨダカ大尉であることがわかっているのに、その姿はない。
「落ち着け、夜の海に沈んだ時よりマシだ。落ち着け……」
一人、ここで認めるしかない。
自分は年嵩の候補生で十七歳だ。ストラ島の誇る英雄、飛空隊なのだ。涙目で狼狽える姿など、セドニーたちには見せられない。
認めろ、と息を吐く。
「……僕は記憶を無くした」
心当たりなんて一つしかない。
七日前、はじめて全力で火砲を撃った。そのあと意識がないまま凍結された。
いや、それすらももう危うい。
はじめてなど、この事実の前では砂塵と化す。
なんてことだ、とユナックは肺が潰れるような感覚に落ちいる。
キルクロピュルスは記憶まで喰らうのか。
茫然自失の中、扉が打たれる。身体がビクリと跳ねる。
「ユナック、終わったか?」
アーザック中尉だ。急いで書類綴じを縛るが、上手くいかない。
「まだです。トランクを落としてしまって」
トランクの荷物を床に散らして屈むと、ガチャと扉が開く。入ってきた中尉が床に散らばった荷物を拾いあげる。
「手伝うよ。そろそろ少年たちが自習時間に飽きるから、注意しないとな」
「……ありがとうございます」
洋服を受け取り畳むと、ガサっと紙を拾う音がした。
「おお。懐かしいな、これ」
振り返ると、アーザック中尉は養育権利書を手にしている。
こんなにも早く他人に確認する機会がくるとは、とユナックは生唾を飲み込む。
「……覚えておいでですか」
「ああ、ビスガットはディグナー家の管理する土地だからな。この日は俺も検査に借りだされたんだ。親がいると、なかなか子供を渡さない事はよくあるから、貴族が出ないといけないんだよ」
中尉は何か思い出したのか、破顔する。
「孤児院に行ったヨダカ大尉にお父さんでしょ、って付き纏ってたんだろ? 孤児院の子供は来客に集まるもんだけど、金ボタンの将校に付き纏うのはお前くらいだよ。黒紙検査で合格すると、嬉しそうにした珍しい子供だったって、大尉は話してた。それで絆されてコレだ」
中尉がシミが付いた紙をユナックに差し出す。
「お前はこの紙が欲しかったんだろ? 嬉しそうに俺にも見せてくれて、しばらくどこへでも持って行ってたの覚えてるよ」
他人が自分の過去を懐かしむ様を見て、故人のような気分を味わう。いや故人にすらなれないのか、とユナックは打ちのめされる。
愛でるように掬えるはずの思い出がないのだから。繋がれた手の温もりすらわからないのだから。その時もらった優しさも消えたのだから。
「ユナック? なんで泣いてるんだ?」
「……いえ、少し思い出しまして」
アーザック中尉は戸惑うように微笑んで、ユナックの頭を撫でた。無理矢理付いた嘘を掻き乱すように、その手は優しい激痛だった。