地下室の手記という本の影響を受けすぎた話
11:45
そうだ。聞いてくれよ、この前、新しいコートを買ったのだ。...それがなんだって?ああ、たかがコートとか言うのではないだろうな。いいか、私が購入したこの上質な外套は襟に毛皮が付いていて、金銀糸で編まれた、定価十万円もするものなのだ。ははは、凄いだろう。......わかってるさ。凄いのはお前じゃない、だなんてそんな分かり切ったことをわざわざ言わないでくれ。言いたくはないが、私はこのコートを三万円で買ったさ。...いいや買ってもらっただけさ。...ん?ああ、両親に、だよ。......すまない、君に伝えようとしたのはこんな低俗な自慢ではなかったのに。どうも私は素直に自分の感情を他人に伝えるのが不得手なようだ。ただ私は、自分好みのものを久しぶりに見つけて嬉しかったということを君に伝えたかっただけなのに、それすらも出来ない自分がなんとも情けない。そして嬉しかったことを伝える以上に君が私の話を聞いて微笑んでくれるのが見たかっただけなのだ。いいか、私は君に笑われたいのだ。君が私の話を聞いて小馬鹿にしてフッと笑うのも好きだが、それ以上に、微笑ましそうに「良かったね」と君に笑われたいだけなのだ。敢えて口に出すのも小っ恥ずかしいが、君の笑顔には私を許す能力があるのだ。それは、私自身までもが私を許してしまいそうになる笑顔なのだ。...ああ、恥ずかしい。もうやめだ。なぜ私ばかりこんな辱めにあわなければならないのか。なぜこんな話を私がしないといけないのか。いやこれは私が勝手に話し始めた話だったな。......君も薄々気づいていただろうが、本当に私はどうしようもない人間だろう?それは私が一番ひしひしと感じていることだ。これ以上抉らないくれ。......すまない、すまない、自分自身で勝手に傷ついているだけだったな。君は悪くないさ。ああ、それは私が一番分かっている。
君はこれをどこかで拾ってここまで読んだのだろうが、言っておくが今までも、そしてこれからも大したことは書かれていないさ、残念ながら。君は、私が何か大層なものを書き上げるとでも思ったのか?...ああ、私にはそんなものは書けないさ。なんせここに書かれてある全てが私の脳内の戯言なのだから。せっかくここまで読んだのならその調子で最後までこの戯言に付き合ってくれたまえ。......しかし、君は私の考え方が好きだったろう?昔、通話で私にそのように言ったではないか。まさか、それすらも私の脳内が作り出した戯言なのか?...まあいい。とにかく、まだ君が私の考え方を好きであるなら、これから先に続く話もきっと受け入れてくれるだろう。もちろん、全て受け入れろとは言わない。何かしら一部分、いや一言でも好いてくれる部分があるのであれば、私はそれでいいのだ。いくらでも言ってやるさ。世界中が私の敵に回ったとしても君が私を好いてくれる部分があれば、私はそれで充分なのさ。言ってやったぞ。どうだ。私もなかなかに舌が回るだろう?いつだって、というよりもとっくの昔に私は、君には白旗をあげているがね。「give」、与えるという意味の「あげる」だぞ。もう白旗は返さなくていいよ。とっくに君のものだ。燃やすなり、引き裂くなり、好きにしてくれたらいい。赤旗はこちらで処分しておくから、そしたら色も旗が旗であることも意味をなさなくなるだろう。
14:30
聞いてくれよ。今日は、素敵な短歌を見つけたんだ。私が素敵だと思っただけで君も素敵だとは思わないかもしれないが。
「体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ」岡崎裕美子
どうだい。案外素敵じゃないか?これを素敵だと思う私の心が素敵だと言いたいのではなく、短歌そのものが素敵だと言うているのだぞ。勘違いはやめておくれ。もうなんだか頭の中で会議が開かれているようだ。
私というものは、今日も懲りずに図書館に居座る虫になっていた。課題は進めようとしない。本も読まない。この虫の住処となるあの図書館は地下と地上を合わせて四階もあるから、何時間だって潰そうと思えば潰せる。虫はただ遅くも速くもない速度が出る節足でふらりふらりと重い荷物を背負いながら旅していく。新調した外套は知らず知らずのうちに身体を蝕んでいたのだろうか。旅しながら、虫は徐々に背中に乗った重圧に耐えられくなって、背中を丸め腰を屈め、低い位置にある本のタイトルばかりを読んでいくようになる。面白そうな本があるまで屈んだまま足底を擦らしながら書架を横へ一歩ずつズッズッと移動していく。ここで、自販機の下にお金が無いか探す卑しい人間の様子がふっと思い出される。はて、私のこの行動も卑しい人間と何ら変わらないのだろうか。書を読み、先人の教えを奪い、自らで何かを成し遂げたなどと勘違いをしている卑しい人間と何一つ変わらないのだろうか。いいや、私は虫だ。虫に卑しいという形容詞は付かない。なぜなら虫には「卑しい」という言葉が理解できる、そしてそのような行動ができるほどの脳を持ち合わせていないからだ。虫は今日も住み着いた処で食べ応えのありそうな獲物を探す。獲物とは手っ取り早く教養を手にした気になれる本だ。