目撃した人:後編
私と鈴木先生を含めた5人の先生で学校の最寄駅に向かう。
今日から一か月間、駅とその周辺を見回ることになっている。駅の周辺には塾や予備校が立ち並ぶ大通りや商業施設があり、うちの生徒たちもよく遅くまでうろちょろしているからだ。
見回りをする時間は夜の8時から9時30分までの90分。5人で持ち場を決めて巡回することになっている。私は大通り周辺を担当することになった。
自転車で周辺のコンビニや公園も含めて見回りをしていると、うちの学校の生徒を含め多くの子どもたちがいた。塾に行くところだったり買い物から帰るところだったり、特に何事もなく街は平和そうに見える。
見回りを始めて1時間ほど経った頃、なんだか喉が渇いてきた。我慢するか悩んでいると運良くコンビニが見つかった。
駐輪スペースに自転車を止めてコンビニに入ろうとした時、丁度レジ袋を持ったうちの学校の生徒が出てくるところだった。
「あ、先生だ! こんなところで何をしてるんですか?」
彼女から元気な笑顔で話しかけてくれた。
「おお、見回りだ、見回り。変なやつが悪さをしないようにな」
「なるほど、先生も気をつけてくださいねー」
「ああ、ありがとう。気をつけて帰るんだぞ。くれぐれも歩きスマホはしないように」
「はーい」
名前は覚えていないが学校でよく顔を見かける生徒だった。学年はたしか一年生だったと思う。私は彼女の背中が見えなくなるまで見送ってからコンビニに入りブラックの缶コーヒーを買った。
コンビニを出てコーヒーを飲んでいると、他校の制服姿の女子高生が私の前を自転車でゆっくりと走り抜けた。
ヘッドホンをしていたのできっと音楽を聴いているのだろう。一瞬見ただけだからあまり自信はないがスマートフォンを見ながら自転車に乗っていた気がする。
「自転車に乗りながらスマートフォンを見るのは危ないぞ」
そう注意しようとしたが躊躇してしまった。
自転車に乗りながらスマートフォンを見るなんて危ない行為だ。それにヘッドホンまでしていたから周りの音も聞こえにくいはずだ。あまりにも危険すぎる。
うちの学校の生徒だったならすぐに注意しただろう。しかし、今の子は他校の生徒だった。
情けない話だが私はこれまで自分の学校の生徒にしか注意をしたことがなかった。なので他校の生徒に注意した時に相手からどんな反応が返ってくるかを考えてしまい思わず言葉を飲み込んでしまったのだ。
しかし、『もし私が注意しなかったことで誰かが怪我をしてしまったらどうするんだ』と、別の考えが頭に浮かんだ。私はなんて情けない男だ。誰かが怪我をするなんてあってはならない。
私は残りのコーヒーを一気に飲み干して缶をゴミ箱に捨てた。そしてスマートフォンを見ながら自転車に乗る彼女を追いかけるため自転車にまたがった。
前を走る彼女との距離は15mもない。近くまで行って声をかけるとしよう。私は自転車を走らせようとした。そんな時だった。
「こんばんは、宮田先生」
突然後ろから声をかけられた。
こんなタイミングで一体誰が? 足を止めて振り返ると白髪の男性が立っていた。夕方に学校の門で話した黒いスーツの男性が。
「こんばんは、先生。見回りですか?」
「どうも、こんばんは。そうなんです。不審者による事件が続くので見回りをしているんです」
「やはりそうでしたか。お仕事熱心ですね」
感心感心、と呟きながら男性は笑顔で頷いた。
「いやいやそんな。すみません、ちょっとスマートフォンを見ながら自転車に乗る人がいたので注意してきますね。それでは……」
話の途中で申し訳ないなと思いつつ、私は前を向き直して自転車を再び漕ぎ出そうとペダルに足をかけた。
しかし、何故か足が動かない。
力を入れているのに自転車を漕ぎ出せない。そもそも、足が動かない。何故だ? 足だけじゃない。手もハンドルから離せない。何だ? 一体何が起きている? 想定外の出来事に頭の処理が追いつかない。
「先生の生徒を思う気持ち、仕事の取り組み方は本当に素晴らしいですね。私は心からあなたを尊敬します。ただ、今は少し困るんですよ」
後ろにいたはずの男性がいつの間にか私の自転車のすぐ前にいた。何故だ? いつ動いた? なんなんだこの男は。
「……困るってどういう事ですか?」
そう言いながら私は背中に嫌な汗をかきはじめていた。
「子どもたちの成長を見守るあなたと同じように、私も成長を見守っているんですよ」
「見守る? あなたが何を見守っているのかは存じませんが私には関係のないことでしょう」
一刻も早くこの男から離れたい。なのに体が全くいうことを聞かない。力を入れてもどうにもならない。私は徐々に焦りだした。
「ふふふ、それが残念ながらあるんです。私が見守るもの、それはあなた方がよく噂話と呼ぶものです」
男はとても愉快そうに笑った。いや、笑ってはいるがやはり目だけは笑っていない。
「噂話……それがなんだって言うんですか?」
「先生も聞いた事があるでしょう?『パトロール男』というお話を」
話の展開が読めず少しずつイライラしてきた。この男は一体何を言っているんだ?
「ええ、だからそれがなんだって言うんですか」
「今、パトロール男のお話が自我を持ち始めているんですよ」
私はこの男が何を言っているのか理解できなかった。話が自我を持つ? 何を言っているんだ? この男、普通じゃない。
「……あなたは何を言ってるんですか?」
「最初はある男のSNSの投稿でした。思いつきにより発信された内容は少しずつ拡散され、口頭でも広がっていきました。そしてその結果今では全国にその名が認知されました!」
男は嬉しそうにニコニコと笑っている。「いやあ、めでたいですねえ」と嬉しそうに言っているがやはり目の奥は暗いままだ。
「……だから、それがなんだって言うんですか!」
「お話というものは信じる人が増えるのに比例して力を持つんですよ。たとえそれが作り話だったとしても。特に力を持った作り話は『実話』になろうとするんです。ここまで言えばわかりますよね?」
男が満面の笑みを私に向けてきた。
ああ、今度は心の底から笑ってやがる。黒い瞳を爛々と輝かせた笑みは不吉なものにしか見えなかった。
私はこの男の言いたい事が何となくわかった。しかしあまりにも現実的ではないため戦慄していた。
作り話として生まれたパトロール男の話が実話になるために事件を起こしている。きっとこういう事だろう。
いつもの私なら笑い飛ばしているはずだ。しかし、今は何故かこの男の言うことが真実な気がしてならない。
「あなたは私に歩きスマホを注意するなと言いたいんですか?」
「察しのいい人と話すのは楽でいいですね。はい、その通りです」
男は小さな声で「だいせいかーい」と呟くと一人で笑った。そして再び楽しそうに話し始めた。
「パトロール男の物語は今、自分で考えて動きはじめました。どうすればより人々の印象に残るかを考えはじめているんです」
「……どういうことですか?」
「わかりませんか? もうスマートフォンを見ながら歩く人を突き飛ばすだけじゃないんですよ。そんなステージは終わったんです」
嬉しそうに話す男と私以外、何故かさっきから誰も道を通らない。車も一台も通らず道路脇の街頭は私と男だけを照らしている。
「ほら! あれを見てください!」
男は突然はしゃぐ子どものように私の横に駆け寄ると前方を指さした。指の先にはさっき私の前を通った自転車に乗った女子高生が見える。
少し遠くなってしまったが信号待ちをしているのが見えた。よかった、ちゃんと信号は見ているようだ。
そう思った次の瞬間だった。
女子高生が自転車ごと車に轢かれるのが見えた。
「……な! はっ? どうして?」
「だから言ってるじゃないですか。パトロール男のお話は、もうスマホを見ながら歩く人を突き飛ばすだけじゃないんですよ」
男は前を見ながら呆れた声で言った。
「お話自身がルールを作り、そのルールに反したと判断されれば襲われるんですよ」
男はにやついた顔でそう言うと、私の自転車の正面にゆっくり移動した。
「そんな、そんなの理不尽じゃないか!」
「理不尽か理不尽じゃないかなんて関係ありません。そもそも相手はお話ですよ? こちらの都合や考えなんて通用しません。存在自体が人間の常識の範囲外なんですから」
おばかさん、男が嬉しそうに呟いた。馬鹿にされているのはわかったが私にとってそんなことはもうどうでもよかった。
「あんたはあの子が襲われる事を知っていたのか?」
「ええ、私はこのお話の成長を見守っていますので。でもまさか自転車ごと突き飛ばすとは思いませんでしたが。やはり想像を超える成長を見ると嬉しいものですね、ねえ先生?」
嬉しそうな顔で同意を求める男を見た瞬間、私の頭の中で何かが切れる音がした。
「ふざけるな! あの子が襲われることがわかっていたから私を足止めしたのか! お前は異常者だ。生徒を見守る私とお前が同じ気持ちなはずがない。お前の考えることは私には理解できない!」
私が怒鳴り終えた途端、男の顔から笑顔が消えた。白い陶器のような冷たい顔になり、その顔で見つめられた瞬間私は全身に鳥肌が立った。
「そうですか。あなたとは分かり合えると思ったのに残念です。でも理解してもらえなくてもいいんです。邪魔さえしなければそれで」
「邪魔だと? と、止めるに決まってるだろうが! お前の目的なんて知ったこっちゃない。私は必ずこれ以上誰も傷つかないように見回りをして被害を止めてやる!」
私は震えそうになる声を必死に堪えながらなんとか言い切った。
「そうですか。わかりました。でも、今もあなたは私の力でこうして動けないでいるのにどうやって止めるんですか? あなたがどう行動するのか楽しみです。応援しておりますよ。それでは失礼します」
嫌味な笑顔でそう言うと、男は突然私の目の前から消えた。音もなく一瞬で。
男が消えた途端体に自由が戻った。私は事故現場へ自転車を走らせた。
救えなかった。
私は彼女を救えなかった。私が動けていれば救えたはずなのに……申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうだ。
私が着いた時にはもう事故現場に人が大勢集まっていた。救急車は既に誰かが呼んでくれたようだ。
もう絶対に誰も傷つけさせない。横たわる女子高生を見て私は決意した。私がこのふざけた都市伝説に終止符を打ってやる。どうしたらいいかはわからないが何としても止めてやる。
私と都市伝説との戦いがこうして幕を開けた……
先生たちが見回りを始めて二週間が経った。
朝から雨が降り、空は重たい雲に覆われている。まだ午前中だというのに暗さのせいで何時なのかよくわからない。職員室から少し離れた廊下の隅。窓から仄暗い景色をぼんやりと教頭先生が眺めている。
「あの、教頭先生……」
後ろから声をかけられた教頭先生が振り返ると不安げな表情をした体育の鈴木先生が立っていた。
「あの、宮田先生のご様子はどうでしたか? 昨日お見舞いに行かれたんですよね?」
「ええ、行ってきました。先生はかなりお疲れのようです。暫く休むように言ってきました」
教頭先生はぎこちない笑顔で応える。
「そうですか……あの、何か私にできることはありませんか? 私、宮田先生にはとてもお世話になったので力になりたいのですが」
鈴木先生に真剣な眼差しを向けられた教頭先生は思わず目を逸らした。
「そうですね、でも今はそっとしておいてあげましょう。こればかりは私たちには何もできません」
「それでも何か……」
鈴木先生が不満そうな顔をするが教頭先生は黙って首を横に振った。
「彼が安心して休めるように対応すること。そして戻ってきた時にしっかりと迎えてあげること。それが今の私たちにできることではないでしょうか?」
「……そうですね、わかりました。失礼します」
鈴木先生は教頭先生に言われたことを頭では理解していた。しかし感情の整理ができていないのか、次の授業へ向かう足取りは重く背中は丸くなっていた。
鈴木先生を見送ると教頭先生はため息をついた。
「言える訳がないじゃないですか………」
窓の外を見て教頭先生は小さな声で呟いた。
見回りを始めてから5日間連続で宮田先生は学生が交通事故にあうのを近くで目撃していた。宮田先生は詳しく話さなかったが彼が助けるために全力を尽くしていたのは明白だった。しかし一人の命も救えなかった。
偶然にしても5日連続で事故現場に遭遇するというのが教頭先生の中で引っかかっていた。そしてさらに引っかかるのがどの事故も目撃者による証言がおかしいことだった。
「誰もいなかったはずなのに後ろから突き飛ばされたように見えた」
どの事故でも現れるこの不可解な証言が教頭先生をさらに悩ませていた。
5日目の事故に遭遇した宮田先生はその場で発狂し倒れてしまった。そしてそのまま意識を失った。
意識不明の状態が一週間以上続いたが、昨日ようやく目覚めたと病院から連絡があり教頭先生は見舞いに行ったのだった。
病室で教頭先生が宮田先生を見た時、彼は自分の目を疑った。宮田先生の姿は変わり果てていた。
髪は真っ白でかなり抜け落ちていた。頬はこけ、目は虚ろになり視線は常に空を彷徨っていた。
教頭先生が何度呼びかけても宮田先生は全く反応しなかった。その代わり彼は繰り返し繰り返し小声でこう呟いていた。
「パトロール男を許さない」
教頭先生はわかっていた。宮田先生の復帰が絶望的なことを。彼の心が完全に壊れてしまったことを。
教頭先生は察していた。都市伝説の「パトロール男」が今回の件と深くかかわっていることを。宮田先生がその真実を目の当たりにしていることを。しかし、教頭先生は何も動けずにいた。
犯人が人間であれば誰しも何かしらの対処方法を考えることができる。しかし相手がもし本当に人間でない存在なら?
教頭先生は理解していた。これは学校がなんとかできる次元の話ではないことを。もちろん警察も何の役にも立たないことも。
今も続けている見回りも無意味だとわかっていた。わかっているが教頭先生は止めることもできないでいた。
「対処のしようがない存在が原因だから見回りをしても防げない」
彼がこのことを説明して信じる人がいるだろうか。仮にいたとしてもその後どうすべきなのか彼はいくら考えても答えが見つけられないでいた。
「私は一体どうすればいいんだ……」
薄暗い廊下で外を眺める教頭先生の呟きは雨音にかき消された。