聞いた人:後編
伝言ゲームは難しいと思う。だって人は自分が受け取ったメッセージを自分なりに解釈して、それを次の人に伝えるから。皆ちゃんと伝えたつもりでもスタート地点とゴール地点では情報が変わってしまうことが多い。
何人かが横並びになってやる伝言ゲームでも正解するのは難しい。じゃあ、すごくたくさんの人が関わり広がっていく都市伝説だったら?
直美から聞いたパトロール男の話は正しくないのかもしれない。混乱した私の頭の中に浮かんだ考えはきっと間違っていないと思う。
「歩きスマホは危ないよ」
再び後ろから声が聞こえた。すごく低い男の人の声が。
え? 私今歩いてなかったよ?
気のせい? いや、絶対に気のせいじゃない。二回聞こえたもん。勇気を出してゆっくりと振り向いてみる。でも、後ろには誰もいない。もちろん周りにも。背中を嫌な汗がつたう。汗ばんだ下着が肌にへばりつくのを感じる。
私はスマホをポケットにしまい何事もなかったかのように歩き出した。家まで残り500mほど。信号機は二つ。いけるか……いや、いくしかない。私は一度深呼吸してから全力で走り出した。
運動が苦手な私はもちろん走るのも苦手だ。体育の授業が一番嫌い。そんな私が今、自分でも驚くぐらい早く走っている。自分がこんなに早く走れるなんて知らなかった。でもあまりその事を考えている余裕はない。早く家に帰らなくちゃ。
閑静な住宅街って良くも悪くも静か過ぎる。こんな日に限って誰も歩いていない。車も一台も通らない。街灯があるから明るいけれど今は気休めにもならない。
横断歩道に差し掛かる。信号機はちょうど赤。走ってくる車はなし。私は信号無視して横断歩道を駆け抜ける。息が苦しい。こんなことなら普段からもう少し運動しとけばよかった。
家まであと少し。後ろから誰かに追いかけられている気配はない。怖いから振り向けないけどきっと大丈夫。このペースならギリギリ家まで走って帰れそう。お菓子の入ったコンビニ袋を振り回しちゃっているけどそんなことはもうどうだっていい。
二つ目の信号機が見える。家のそばの少し大きな道路だ。この道路は夜遅くても車も人通りもそこそこある。信号機が赤なので走るペースを緩める。ここまで来たらもう大丈夫。てか、歩きスマホしてないし絶対に大丈夫。私は横断歩道の手前で立ち止まった。
ポケットの中のスマホが震える。でも今は見ている場合じゃない。何が起こるかわからないんだから。人通りがあるから万が一の時は叫べば大丈夫だろうけど油断しちゃダメだ。
信号はまだ青にならない。だんだん不安になってくる。信号無視して早く渡りたいけど右側からトラックが来るのが見えたので我慢していた、そんな時だった。
「信号無視は危ないよ」
耳元で男の囁き声が聞こえた。突然の出来事に思考が停止して瞬時に体が硬直した。どうしよう。振り返るべきかどうか考え始めた途端、気が付けば私はトラックが走ってくる道路のど真ん中に向かって突き飛ばされていた。
道路に向かって倒れていく時、私には世界がスローモーションに見えた。目の前にゆっくりとアスファルトの地面が迫ってくる。誰に突き飛ばされたのかを見るためになんとか体をひねったが、私が立っていた近くには誰にもいなかった。
大きなブレーキ音と鈍い衝突音がした後、お菓子と醤油の入ったレジ袋が宙を舞った。
宙を舞うレジ袋は重力に逆らう事なくまっすぐに地面に落ち、軽い衝突音とともに醤油のペットボトルが道路で跳ねた。ペットボトルが再び地面に着地するタイミングで、たまたま通りかかった仕事帰りと思われるスーツ姿の若い女性の叫び声が閑静な住宅街に響いた。
叫び声をきっかけに多くの人が事故現場に集まりはじめる。
救急車を呼ぶ者。狼狽えるトラックの運転手。何が起こったのか見に来た野次馬。次々に事故現場に人が集まり騒がしさは増していく。そして時間の経過と共により一層騒がしくなるかと思われた。
しかし、突如事故現場に沈黙が訪れる。その場にいた誰もが悪寒に襲われ、全員が同時に動揺し動きを止めたのだ。
「大丈夫。寂しくないようにしてあげるから」
沈黙する瞬間を待っていたかのように男の低い囁き声が響き渡る。
現場に居合わせた全員が謎の男の声を聞いた。そして同時に周りを見渡したがどこから声がしたのか、誰の声だったか分かる者はいなかった。野次馬の何人かはしばらく首を傾げていたが、事故現場にいた多くの人たちは声の解明よりも人命救助を優先し再び慌ただしく動き出した。
この時、謎の声を耳にした人は大勢いたにも関わらず、囁きの意味を理解できた者は誰一人としていなかった。
翌日、直美はえりこが登校するのを待っていた。昨日数学の宿題の範囲を教えてくれる約束だったのに全く連絡がなかったからだ。彼女を嫌な予感が襲う。
えりこは頼まれたことを忘れるような子じゃない。早く来て欲しい。直美の中で不安からくる焦りはだんだん苛立ちに変わっていった。
予鈴が鳴り、担任の山下がゆっくり教室に入ってきた。顔が暗い。えりこはまだ来ない。遅刻なんてしたことのないえりこがまだ来ていない。直美を襲う不安が一層濃いものになる。
山下は何も言わずに教卓の前に立つと生徒たちを見渡してゆっくりと話し出した。
「おはようございます。今日はみんなに残念な話がある。……富田が昨日亡くなった。交通事故だったそうだ」
直美は自分の頭の中が真っ白になるのを感じた。そしてその直後大量の疑問が彼女の頭を埋め尽くす。
えりこが事故? 昨日も一緒にいたのに? メッセージもくれたのに? 嘘だ。だってえりこが事故にあう訳がない。信じられない。なんで? なんで? なんで?
「おい、どうした佐々木? 大丈夫か?」
山下に声をかけられた直美はいつの間にか席から立ちあがり、どこを見るでもなく呆然としていた。
「佐々木?」
山下は不安になりもう一度声をかけるが直美は反応しない。それどころか直美は立ったまま震え出し、頭を抱え込んだ。
クラス中が騒つく。異変を感じた山下は教室の真ん中にある直美の席に向かって歩き出す。山下があと二、三歩の距離まで来た時、急に直美は天井をがばっと見上げた。
「私だ。私のせいだ。私がえりこに話したからだ。私がえりこを殺した。私が! 私が! 私だ! 私だ! 私だ!」
叫びながら自分の頭を掻きむしる直美を止めようと山下が手を伸ばすが力強く弾かれる。
「落ち着け佐々木! どうした。何があった? 危ないから落ち着け!」
なんとか落ち着かせようとする山下の声が廊下まで響く。異変を感じた先生が何人も教室に集まってくる。そして山下と集まってきた先生たちは暴れる直美の腕を掴みそのまま保健室に運んで行った。
嫌な空気が沈黙と共に教室を満たす。
10分後、顔に引っ掻き傷をつけた山下が戻ってきた。直美には保健室の先生が付いているから問題ないと説明した後、朝の話の続きを始めた。
「富田の件は本当に残念だ。担任のおれがもう何もしてやれない事がすごく腹立たしいし悔しい。富田はスマホを見ながら赤信号を渡ろうとしたらしい。それで事故にあったそうだ。それから昨日富田のご両親もお亡くなりになった。お二人とも別の場所で交通事故にあったそうだ。その原因は聞いてない。でも、みんな頼む、頼むから歩きスマホは危ないからやめてくれ。もうおれは教え子を失いたくない」
教室に満ちた空気は重く、生徒たちの心を強く握りしめる。春の晴天に似つかわしくない暗い雰囲気を嘲笑うかのように空を飛ぶカラスの鳴き声が聞こえる。
「今日のホームルームは以上だ。暗い話をした後でなんだが、今日も一日頑張るように」
山下は逃げるように教室を出た。山下に何か聞きたげな生徒が何人もいたが見なかった事にした。
彼は話さなかった。富田一家の事故があまりにも不自然な事ばかりだったことを。彼は判断した。不可解な事に悩むのは今は自分一人でいいと。
事故に不自然な点がある事はいずれ生徒たちの耳にも入るだろう。しかし、今は、今この瞬間だけはこれ以上生徒たちを苦しめたくないと山下は考えた。
事故の目撃者曰く、富田えりこは事故直前、信号をちゃんと待っていたそうだ。スマホも見ていなかったらしい。また、富田がぶつかったトラックの運転手も彼女は後ろから突き飛ばされたように見えたと言っているらしい。
しかし、衝突したトラックのドライブレコーダーにはスマホを見ながら赤信号の横断歩道に侵入する彼女が映っていた。
彼女の母は娘が事故にあったほぼ同時刻に家から遠く離れた横断歩道で事故にあっていた。手にはスマホが握られており衝突した車のドライブレコーダーには歩きスマホをしている様子が映っていた。
しかし、娘の事故と同じくぶつかった車の運転手は、ぶつかった女性はスマホなんか見ておらず後ろから突き飛ばされたように見えたと証言している。
そして富田の父もその頃事故にあっていた。家の最寄駅で通過する電車が迫る中、ホームから線路に落ちたのだ。ホームの防犯カメラには歩きスマホをしながら線路に落ちる姿が映っていた。
しかし、この件についても目撃者たちは口を揃えて言ったそうだ。「スマホなんて見ていなかった。誰かに突き飛ばされたように見えた」と。
ほぼ同時刻に家族全員が別の場所で事故にあう。目撃者は皆スマホを見ていなかったと言っているが、ドライブレコーダーや防犯カメラには三人ともスマホを見ながら歩いている姿が映っている。
こんなこと生徒たちに伝えられるはずがない。ただでさえクラスメイトを失うのはショッキングな事だ。そして詳しくはわからないが佐々木があんな状況だ。これ以上情報を伝えると心が保てない生徒が多く出かねない。そう山下は判断した。
でも、山下は自信がなかった。生徒たちに自身が聞いた理解不能な話を隠し切る自信が。この時山下は生徒たちに何かを勘づかれる前に教室から逃げることしか出来なかった。
廊下を歩く山下の顔が苦悶に満ちていたことは最早言うまでもない。