黒い電車
Gさんは一時期、駅の隣に住んでいたことがある。
Gさんが中学生の時、家を新築するのに伴い新居が完成するまで貸家に住むことになったのだ。両親は恐らく住み心地よりも賃料の安さでその貸家を選んだのだろう。
すぐ隣は複数の路線が集中する駅で、古い長屋式の家は防音対策が不十分だった。始発から終電までいつも駅の騒音が家の中にまで響いてくるうえ、電車が通るたびに揺れたという。
快適とは言い難い家だったがどうせ長く住む家ではないし、新居ができるまでの我慢だ。そう思えばそれなりに耐えられた。
Gさんがこの仮住まいを渋々受け入れたのとは逆に、電車好きのGさんの弟は駅のすぐ隣に住めることをむしろ喜んでいた。
学校から帰るとすぐにランドセルを放り出して窓辺に張り付き、ホームに並ぶ電車を食い入るように眺める。たまに珍しい車両が停車すると居間でテレビを見ているGさんを窓辺まで引っ張って行って興奮気味に解説することもあった。電車に興味のないGさんは適当に相槌を打ちながら聞き流していた。
その駅で飛び込み自殺があった。
現場は一番端のホーム、つまりGさん宅のすぐ目の前だった。
幸いというべきか、事件があったその時刻にGさん一家は外食しておりGさんもGさんの弟もその瞬間を目撃せずに済んだ。この件で一番ショックを受けたのは子供たちよりもGさんの母親だったという。
息子はいつも駅を観察している。もう少しタイミングがずれていたら子供の心に傷を残してしまったかもしれない。危機感を抱いたGさんの母親は子供たちに、これからは駅の方を見てはいけない、と言いつけ更に窓ガラスにシートを張って駅を見れないようにしてしまった。
もともと窓の外に興味がなかったGさんは何とも思わなかったが、弟の方はこの対応に不満だったらしい。母親の目を盗んではこっそり窓を開けて電車を見ていた。
それから1か月も経たぬうち、再び飛び込み自殺があった。
今度も1番線のホームだった。
朝の7時位だったという。父親は出勤準備、Gさんと弟は登校準備、母親はご飯づくりに追われている、いつも通りの慌ただしい朝だった。
Gさんの体操着が乾いていないとか、弟が図工の授業で使う色鉛筆をなくしたとか、騒々しい声が飛び交っていた家に、不意に絶叫が響き渡った。次いで何かが砕けるような破砕音と悲鳴のような甲高い音が聞こえてきた。
---駅だ。
Gさんはすぐに何が起こったのかを理解した。
弟が居間を飛び越えて窓を開けようとする。その腕を父親が掴んだ。
「駄目だ見るな!」
弟は青ざめた顔でしばらく窓の方を見ていたが黙って腕を下ろし父親に従った。その後Gさんと弟は両親に急き立てられるようにして家を出ると学校へ向かった。だが学校に着くまで弟は一言も口を利かなかったという。
Gさんの弟の様子が変わったのはそれからだった。
以前は帰宅するとすぐに窓辺に張り付き、隙を見ては窓を開けて電車を眺めていたのにふっつりと止めてしまった。家に母親が不在の時でも窓を開けて電車を見ようとしない。それどころか駅の方を見るのさえ嫌がるようになり電車で出かけるときは泣いてぐずった。
(すぐ隣で飛び込み自殺があったのがよっぽどショックだったんだろうな)
弟はまだ小学生だし元来、繊細なところのある子なのだ。現場を見てこそいないがその瞬間の悲鳴はGさんの耳にも生々しくこびり付いている。弟がショックを受けるのも無理はない。
Gさんはそう思ったし、Gさんの両親もそう考えたようだった。二人は弟を腫れ物に触れるように扱い、妙に優しく接するようになった。
その夜、開けてはいけないと言いつけられていた窓をどうして開けたのか、Gさん自身にもよく分からないという。
「反抗期だったんでしょうね」とGさんは内観するが無意識化に、弟ばかりを甘やかす両親への反発心もあったのかもしれない。とにかく、Gさんは急に母親の言いつけに背きたくなった。別に電車にも駅にも興味はなかったがただ禁を破りたくて、窓を開けたくなったらしい。
9月の深夜だった。
新居は既に落成し、1週間後には貸家を引き払うことになっていた。
住み心地の良い家では無かったがいざ引っ越すとなると名残惜しさもあり、Gさんは貸家の中を見て回っていたという。家族は既に寝静まり、最終電車を見送った駅は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。家の中も外もひっそりとして物音一つ聞こえてこなかった。
Gさんは不意に窓を開けてみようと思い立った。
窓を開けると残暑をはらんだ生温い空気が入り込んでくる。風の音すら聞こえてこない、耳鳴りがするほど静かな夜だった。車両は既に車庫に入り、ホームには電車も人もいない。無音のホームは異世界のようでなんとなく新鮮に感じ、Gさんは引き込まれたようにホームを見つめていた。
どれほど経過しただろうか。
がたん、ごとん、という音が聞こえてきてGさんは我に返った。
がたん、ごとん、と車輪がレールの継ぎ目で跳ねる音が静寂の奥から妙に低く響いてくる。休み休み進んでいるかのような、間遠い感覚の音だったという。
ひょっとするとまだ終電を過ぎていなかったのだろうか、振り返って時計を確認したが時刻は既に3時を回っていた。終電はとっくに過ぎているはずだ。
がたん、ごとん、という音は遠くから響いてくる。その音はゆっくりホームへと、Gさんの家へと近づいてくる。何故こんなにもゆっくりと走ってくるのだろう。何故こんなにもはっきり聞こえるんだろう。
この電車は何かがおかしい。
ーーー窓を閉めなければ、窓を閉めなければいけない、窓を閉めないと見てしまう。これからホームに来るものを。
そう思いながらもGさんの体は凍り付いたように動かなかった。
がたん、ごとんという音がだんだん低く、大きくなっていく。
近づいてくる。
その時、駅のスピーカーが鳴り出した。Gさんにも聞きなじみのある、電車がホームに入ってくるときの音楽だったが音楽だけでアナウンスは無かった。「電車が参ります」や「ご注意ください」といった定型文の台詞すら無い。誰もいないホームに音楽だけが鳴り続けている。
その音楽が唐突に切れた。
一両の電車が静かに1番線のホームに滑り込んでくる。
Gさんは息をのんだ。
その車両は真っ黒だった。車体も、窓すらも塗りつぶしたように真っ黒だった。目を凝らして車輪がある事に気付かねば大きな箱だと思ったことだろう。
黒い電車はゆっくりと、Gさん目の前で止まった。前と後ろにドアがついている一両車両だ。Gさんが固唾をのんで見守るなか、電車のドアが音を立てて開きはじめる。
幸いというべきか、開いたのはGさんとは反対側のドアだったためGさんから車両の中は見えなかった。窓は真っ黒で中の様子は一切窺えない。乗客がいるのか、降りる客がいるのか、Gさんには分からなかった。
もしも降りる人がいたら。
もしも降客がいるとしたらその人物はこのホームに降り立つことになる。だがこの黒い電車から降りてくる者は果たして人間なのだろうか。
今は車両に遮られてホームは見えない。だが電車が動き出したら?そのときホームに立っている者がいたら?
それは見てもいい存在なのだろうか。
目を背けたくて仕方がない。今すぐ窓を閉めたい。そう思っているのに何故か指一本動かせなかった。
しばらく停車していた黒い電車はやがて、音を立ててドアを閉めた。車両は軋むような音を立ててゆっくりと動き出す。1メートル、2メートル、と車体に隠れていたホームが少しずつ現れていく。Gさんは呼吸すら忘れてホームに見入った。
ホームには誰も立っていなかった。
ほっと息をついた途端、凍り付いていた体が動いた。Gさんはすぐに窓に飛びつくと勢いよくガラス戸を閉めた。
疲れたような音がゆっくりと遠ざかっていく。生温い空気の中でがたん、ごとん、という残響が窓を閉めた後も長く聞こえていたという。
翌朝、朝食を食べていたGさん一家の居間に甲高い悲鳴と破砕音が聞こえてきた時、不思議と驚きはなかったという。Gさんはシートを張った窓ガラスを見る。窓ガラスの向こうで起こったことを悟る。そうなるような気がしていた。昨夜黒い電車を見た時から、Gさんには分かっていた。あの電車は迎えに来ていたのだ。このホームで死ぬ人間を。
同時にGさんは理解した。何故弟は駅を怖がるようになったのか。弟は見たのだ。あの黒い電車を。
間もなくGさん一家は引っ越したしGさん一家が住んでいた貸家も取り壊されてしまったが、駅自体は今もある。なぜか事故の多い駅だという。