彼が死んだ。スライムが来た。
──彼が死んだ。
結婚して、およそ半月が経った頃だった。電話越しに告げられた死因は、単なる事故だと、そう言われて、腹が立った。
そんなもので死ぬものか。だってまだ、結婚したてで、これから、たくさんの幸せを彼と紡いでいくはずだったのだ。それを、こんなにもアッサリ……許せるわけもなかった。
けれど、それと同時に毎日がきらきらしてたんだという事に気がついた。それに気がついた時にはもう遅くて、あの人は、死んでいて、もう、話すこともできない。
甲斐性も、外聞も、へったくれもなく、スーパーで買い物途中だった私は、思いっきり泣いた。そろそろ二十代後半に滑り込む女が大声でわんわんと泣き叫んだのだ。周りからはおかしな人扱いされても仕方が無いだろう。
構うものか。どうして彼が死ななくてはならなかったのだ。彼は、誰にでも優しく、自分の事よりも他人を優先してしまうような、そんな人だから、私は彼を支えていこうと思ったのだ。そんな彼が死ななければならない理由なんて、どこにもない。
何も悪い事はしていない。良いことしかしてこなかった。
犬っぽく笑う顔も、時々見せてくれた甘えたな彼の姿も、私が作った料理をこれまで見た中で、一番美味しそうに食べてくれていたその姿も。
全部全部が、愛おしくて。
──本当に、良い人だったんだ。
※※※
葬儀が終わって、彼の家族からの数々の罵倒と非難を浴びて、それらに何も言い返せず──言い返す、気力も無く、一人だけのものになってしまった新築の家に帰って来た。
いつもなら、私が、仕事から帰ってきた彼の姿に笑顔を振りまいて「ただいま」と言う、きらきらとした思い出が蘇るこの玄関も、今はどこか暗く陰鬱で、なんだか埃っぽくさえ感じる。
「────」
こんなはずではなかった。
何度も、何度も、頭の中で繰り返される後悔の念が、気持ちを縛り付けて、何もやる気が起きない。
私は、真新しいベッドに倒れるように飛び込んで、涙で腫れた目元を拭う気にも、もうなれなかった。
これから私は、何をして、生きていけばいいんだろう。
新築の匂いが、こうも嫌に感じたことは無かった。
気を紛らわすためにつけたテレビも、どの番組も、声が耳を滑って、映像が目を滑って、頭に入って来ない。何を見ているのかも、正直、分からない。
ああ、嫌だ、嫌だ。
どうしてこんなにも、辛い思いをしなくてはならない。彼も私も、悪い事はしていないはずだ。神様がいるのなら、どうして彼を連れて行ってしまったのか、ぶん殴ってでも聞き出して、どんな理由だろうと彼を連れて帰ってくるのに。
……そんな、できもしない、益体のない思考も、なんだか堂々巡りしている気がしてならない。
ピンポーン。
ふと、チャイムの音に気が付いて、インターホンのモニターに目をやった。そこには見知った、昔からの親友の姿を見つけられた。
「ねえ、だいじょうぶ!? また変なこと考えたりしてないでしょうね!?」
怒鳴り声のような、彼女の心配は、どこか私の心を落ち着かせた。
彼女を招き入れて麦茶を出した私は、テレビの前のローテーブル、その対面に座った。
ジッと、見つめてくる彼女の視線に私は、思わず下を向く。
「……また、変なこと考えてた?」
責めるようなその口調に、私は首を振った。
「ううん。私も、若くないし、そんな考えはしてない」
「ほんとに? 中学生の時付き合ってた村田が浮気してたってので自殺しようとしてたのはどこの誰よ。信用無いわ」
容赦無く突き付けてくる過去の過ち、そのための心配だと彼女は指を指して言う。その言葉に返す言葉が見つからず、私は、俯いて、黙り込んだ。そんな私の顔色を窺ってか──、
「……誰かに責められた?」
そう、的を射たどころかまんま図星な答えに目を見開き、隠し立てはできないようで、その、頬杖をついて眼差しを向けてくる親友に、こくりと、頷いた。
「……うん」
「向こうの親御さん?」
「……うん」
「辛かったね」
「…………うん」
「泣く?」
「ガマン、する」
「そっか」
それから少しだけ、静かになった。
涙が出てきそうになったけど、私は、なんとか堪えて、抑え込んで、それに努めて、その時間を過ごした。
「ご飯、何食べたい?」
そう、唐突に聞いてきた親友に、私は、目を瞬かせた。テレビの左上、表示されている時間を見れば、そろそろ夕飯時に差し掛かろうかという時間帯だ。
けれど──、
「……今は、いらない」
何も食べる気が起きなかった私は、親友の気遣いに首を振って答える。それを、彼女はどこからか取り出していたらしき銀玉を親指で弾いて、私の額へ飛ばす。
「あ、イッ!?」
「食え。食わなきゃ食わす」
有無を言わさぬ顔つきで次の玉を装填する彼女に、私は、堪えていた涙が溢れてしまうのを抑え切れなかった。もしかしたら彼女はそれすらも気づいて、こんな風に話していたのかもしれない。
「それじゃあ、たまっ、た……ま、ご、焼き……」
「ん。りょーかい」
慌てて下を向いた私に、無粋な真似を避けてくれた親友に感謝の念しか出て来なかった。
それで、悲しみが消えることはないのだろうけれど、それでもやはり、嬉しかったのだ。
※※※
「────」
目が覚めて、周囲を見渡すと、誰もいなかった。髪に違和感がある。手を伸ばすと、セロテープで紙が貼られていることが分かった。
おそらく、彼女だろう。
夜ご飯を作って、一緒に食べて、軽く話して。その間に寝てしまったらしかった。セロテープを剥がした際、多少の痛みは感じるが、顔に出すのも億劫だった。
ぷちっ、と長くしていた髪が何本か付いている。艶も何もあったものじゃなかった。こんなにもボロボロだっただろうか。どうでもいいか。
『明日も来るから、覚悟しとけよ!』
そう、でかでかと書かれていた走り書きのような文字を見ていると、なぜか、無性に腹が立ってしまい、その紙をクシャクシャに丸めてその辺りに捨てた。
「……今、何時だろ」
テレビを点けて、その眩しさに目を細めながら時間を確認。
十時過ぎ。そのまま、ローテーブルに突っ伏して腐るようにその画面を眺め続けた。
我ながら、笑えてしまう。
人なんて大概どこでも、一日に一人以上、死んでいるではないか。それなのになぜ、彼だけは死なないなどとおかしな確信を抱いていたのだろうか。
そんな特別、あるわけがないだろうに。
「ひひっ……」
涙は、流れなかった。
※※※
東からの日の光が顔に当たっていた。
私はまだ、テレビを見ていた。
ふと、日の光を遮るものがあった。
顔を上げる。目を見開く。
そこには、透明な青色をした、一つ目の、へにゃへにゃした口をした、スライムがいた。
「……は?」
そのスライムは、私を見下ろしながら、ローテーブルに乗っている。
そして、一言。
「た、だ、ぃま」
そう、にへらと笑ったのだった。
私はただ、目を見開いたまま、そのスライムに目を奪われていた。
※※※
「……んで? そのスライム? は、アンタの彼氏を名乗ったと」
片眉を上げて、頬杖をつきながら聞いている彼女に、私は力強く頷いて、彼を抱き抱えている腕により一層、力を込める。
「うん……! それでねそれでね、ネットで調べてみたら──」
片手でノートパソコンを操作し、『人 死亡 スライム』と検索をかけ、その結果を親友である彼女へと見せる。
その画面には、幾つもの記事が表示されていて、私は、一番上の記事をクリックし、閲覧した。
「えーと……? この世界の、ほとんどの人が、寿命以外の方法で死んだ時、死んだ場所に、突如発生する事がある、だって? これ、眉唾ものでしょ」
「それでも、今、ここに彼はいる」
どこか疑わしそうに彼を見つめる彼女に、私は今度こそはと、その体を固く抱きしめる。そうしたら、彼女はまた、記事に目を向けた。
「他には、これは死んだ時に、その原因となった傷口から細菌が侵入して、体内に付着し、その中の水分の一部と、脳幹から……て、ヤバイやつなんじゃないのこれ?」
「それでも、また、彼と話ができる」
「……アンタ、重症だわ。知ってたけども」
「…………」
最悪の想像をした。この子は、何事にもまず原因を探そうとする。そして、その答えが信用ならないものなら容赦なく切り捨てるのだということも、もちろん知っていた。
だからこそ、彼女が、彼の存在を否定してくると、もしかしたら、これから、彼女と話す機会も、無くなるかもしれないと。
……それでも、彼を諦めることはできなかった。
きっと彼なら、私を選んでくれる。そんな浅はかな期待を乗せて力を込めた腕に、冷たいぶよっとした感触がした。
じろりと、彼女の目が彼を捉える。慌てて、目をぎゅっと閉じた。
「……いいよ。そのスライムはアンタの旦那さん。信じてあげる」
「……ぇ?」
予想だにしなかった答えが返ってきて、私は言葉を失った。
諦めたような顔の彼女の笑みが、どこか歪に見えた。
「どしたの。何か不満?」
それは、いつも通りのからかうような笑顔にかき消されたけれども。
「えっ? ううん、不満じゃない。それどころかすごい嬉しい。信じてくれないと思ってたから……」
「親友の事だしね。信じるよ」と、目を閉じて伸びをしながら彼女は言った。
なぜ私は、こんな感情になるのだろうか。
喉の奥で渦巻く不快感に、顔が熱っぽい。
本当に嫌な女だと、私は思った。
「てか私、スライム見たの初めてなんだけどさ、普通の食事ってできるの? その、食べる物とか変わったりしてない?」
「うーん……どうなんだろ」
ぷるぷると揺れている彼を見下ろすと、視線を返された。
心をゆるくしてくる彼の笑みが心地よい。
「どう? 食べたい物とかある?」
私と、彼女の視線が彼へ向く。彼は一言、こう言った。
「やきにく、たべたぃ」
気の抜けるような声で、そう言った。
※※※
焼き肉を食べに行ったり、遊んだりしてしばらくが過ぎ、この生活にも慣れ始めた頃。私は、彼と手を繋いでデートをしていた。
体をぐにょんと伸ばしている彼の姿が愛おしい平日の昼。
人通りが少ない公園で、二人はベンチに座って会話していた。
「やっぱり、あなたと一緒だとすっごく嬉しい……」
私が笑うと、彼もにへらと可愛らしく犬のように笑った。
ひんやりとする小さな彼の頭を撫でながら、紅葉している木々を見上げながら幸せに息をついた。
見上げた木々の葉が、風に揺られてたまにひらひらと落ちていく姿に少しばかりの安心感を覚えて、表情が和らぐ。
「私ね、あなたが事故で死んでしまって、すっごく悲しかったの。だから、またこうして、姿形が変わっちゃっても会えたのはとっても嬉しいな……」
「ぼくも、うれしぃ」
「その一言だけで私は救われる……」
どこかもの寂しさの漂う風を顔に受けた私は、彼を抱き寄せてぎゅぅっと力強く抱き締めた。少しだけ彼の形が歪んでしまったが、それでも、寂しさを紛らわせるように強く、強くその胸に抱いた。
それから家に帰り、夕飯の支度をする。
私はテレビを見ながらローテーブルの上でぷるぷるしている彼を眺めて野菜を洗う。今日の献立は彼が『どれでもいい』と言っていたので、今日は唐揚げを作った。それに添える野菜を、今は洗っている。
きっと一人ならこんな物は作らなかっただろう。
ただ、今日この日に限って私は、これを作ってみたくなったのだ。きっと、お肉が彼の好物だったからだろう。
「お待たせ」
ローテーブルに運ぶと、彼はテーブルから下りてお皿を置く場所を開けてくれた。後は二人分の白米を山盛りに入れたお椀を持って来て、そうして、私達はローテーブル越しに向かい合って手を合わせる。
「いただきます」
作り慣れない唐揚げはちっとも美味しく感じはしなかったけれど、嬉しそうに、美味しそうに食べてくれる彼に申し訳無さと、やはり、食べてもらえて嬉しい気持ちとがない混ぜになった笑顔が浮かんだ気がした。